026 呼ぶ声2
「ギャァアァァァ……!?」
耳をつん裂くほどの金切り声が森に木霊した。弱点への奇襲に、醜悪な緑の巨体が苦しさに打ち震え、身を悶えさせている。キラーマンティスが見せたその隙を、グレンは見逃さなかった。
脚が震える。頭が燃えるように熱くて、そのくせどこか冷や水をかぶったように冷たい。それでも動かねば。助けねば。
あとは無我夢中だった。アーシェの側へグレンは駆け寄った。頭を打っていないか、息はちゃんとあるのか。普段失しれば命に関わる重要なことを確認する余裕もなく、彼は『妹』の腋を抱え込みそのまま茂みの方へと引き摺る。
「──シャアッ!!」
「うわっ!」
しかし、そのような分かりやすい動きに、キラーマンティスが気付かないわけがない。怒りに任せるまま、キラーマンティスはちょこまかと動く新たな獲物へと鎌を振り下ろした。
そのまま気付かずにアーシェを抱えていた腕が離れていなければ、グレンの両肘から先は呆気なく切り落とされていただろう。それくらいの衝撃があった。地面は鎌の先が打ち付けられ、抉れて窪みをなしている。
衝撃もあれば風圧も相当なものだった。
グレンはそのまま茂みの奥──比較的周囲よりも太い木の幹へそのまま身を転がせた。修練のときはあんなにもあんなにも上手く受け身が取れていたはずなのに、その練習の甲斐もなくグレンの体には衝撃と痛みが同時に走った。
「いたあ……っ!?」
「ギャオォォ!!」
二度、三度、四度。腕の鎌を乱暴に振り回しながら、自分の獲物を横取りしようとした新たな獲物をキラーマンティスは仕留めようとする。その眼は血走り、最早アーシェのことはその小さな脳みその彼方に置き去りにしていることだろう。それだけ、大型の瘴魔にとって食用の小動物に等しいヒトの子に弱点を突かれるのは、プライドを踏み躙られたことに等しかったのかもしれない。
憎しみと敵意に満ちた大カマキリの猛攻を、なんとかグレンは避け続ける。アーシェの近くから離れるように、彼女に攻撃の手が及ばぬよう逃げ回り、腕が振り上げられて生じる風圧を察知しては身を捩らせる。
しかし、そんな小賢しい抵抗がいつまでも続くわけもなく、ついにグレンは追い詰められた。単純だ。体力が切れた。軍学校に入学したとはいえ、所詮は十一歳の少年の体力である。防戦が長続きするわけがなかった。考えだって、攻撃を避けることに集中すれば霧散してしまうわけで。
結局戻ってきたのは、避難させたアーシェが倒れているすぐ近くだった。
彼女を庇うように前に立ち短剣を抜いて、逃げなどせぬと覚悟を決めて緑の巨体へと向き直る。
何としてもグレンはアーシェを守りたかった。守ると決めたのだ。震える手足に素知らぬふりをして、助けもおそらく来ないであろう状況に彼は新たに心を固めた。
「シューーー」
先程までの明確な威嚇とは趣きがまた違う、細い声をキラーマンティスが上げた。木陰で見えぬ空へと掲げた両腕の空間に、グレンの目は釘付けになった。それほどまでにこの瘴魔の行動は予想もつかないものだった。
「な、んで」
火がカマキリの両腕の間で揺らめいていた。朱と紅の入り混じる紗はみるみるうちに大きさを増し、火の帯から火球へと呼んで差し支えないほどになっていた。
瘴魔というのは動植物に魔力が悪影響を及ぼしたものだ。そんなことグレンだって知っている。この世界に生きる者たちにとっては常識だ。それでも、瘴魔が魔法を使うだなんて考えたこともなかった。
ヒトならば魔法を使うのに修行が必要なのだ。魔力だって普段生活を送る程度の量では、とても魔法なんて使えない。そもそも、これまで出会ってきた瘴魔は魔法なんて使ってこなかった。
自分の考えの甘さがぐるぐるとグレンの頭を支配しそうになる。この場を打開する策は彼にはない。できることはただ一つだけだった。
「アーシェっ……!!」
魔力のない自分に何ができるだろうか。彼が瞬時に考えたことはそれだった。魔法の威力は自分の持つ魔力が高ければ高いほど──もしくは魔法を発動させる術者が特殊な防御用の陣を張れば──削ぐことができるものだ。
魔力が平民の赤子並みに、下手すればそれよりも低く『無い』と形容されるグレンには望むべくもないことだった。
それでも、彼はアーシェに走り寄った。その間にも大きく膨らんでいく火球に目もくれず、少女の小さな体を抱きしめる。すっぽりとグレンの腕に収まる体が、共に暮らしていたあの頃を思い出させてどこか切ない。
飛んでくる火の玉の威力を、熱を、彼女に与えぬように、火傷なんて死んでも付けさせるものかと彼はアーシェの頭を肩口へと抱え込んだ。
「ぎゃおおおおお……!」
獣の遠吠えが響いた。夏の日差しの熱波よりも強い熱さが、間合いへと入り込んで距離を縮めていく。グレンの鼻腔を、父の死体の匂いが掠めた。肉の焼ける匂いだった。
自分も同じ様になるのだろう。覚悟して固く目を閉じる。
火球は、襲っては来なかった。
痛みもない。熱も感じない。グレンは薄らと目を開けた。炎魔法の使い手を振り返る。
信じられないと思った。目を見開いて呆然とする。グレン自身にはあり得ないことなのに、それは彼の目の前で起こっていた。
至近距離。文字通り目と鼻の先。
炎となってそれはグレンの顔の前で揺らめいていた。熱さは感じない。まるで熱波などそもそも纏っていないかのように。
視界がプリズムの虹色の光で覆われる。薄い窓ガラスに七色の光が薄布の如くかかっている。それが壁のようにグレンの前に聳え、キラーマンティスの放った魔法を防いでいるということに気付いたのはすぐだった。
改めて、思い直す。
熱波はない。痛みもない。アーシェを見てみるが怪我はない。盾になっていたはずの自分の体にも水膨れや赤い腫れは見受けられない。
あり得ない。あまりにも追いつかない現実にグレンは目を瞬かせた。
そんな受け入れ難い現実を目の前にした彼の目の前で、『壁』は淡く一度光ったかと思うと跡形もなく何事もなかったかのように消えてしまった。
火球など元からなかったと言わんばかりに。
「シャァ……?」
キラーマンティスの声がどこか間の抜けたものに聞こえた。魔法が不発だったわけではない。現に、グレンの目の前に発動された『現象そのもの』があったのだから。
しかし、目の前の獲物二匹に弱っている気配はない。おかしいと鎌首をもたげじろりと獲物を睨み返しては小首を傾げる。そんなことが数度繰り返された。気を取り直すように、キラーマンティスが咆哮した。そして再びグレンへとその大鎌を振り翳す。
「──いたっ……!」
グレンの予想だにしてなかった痛みが、彼の左手を襲った。見れば薄くすうっと紅い線が引かれていた。キラーマンティスの攻撃のせいではない。攻撃を避けたときに茂みの草木で傷つけたらしかった。
怪我に気を取られていたグレンを嘲笑うように、キラーマンティスが腕を横凪に振るう。直接の攻撃こそ受けなかったものの、グレンの体は踏ん張るのも忘れて先ほどと同じように転がった。
次いで、胴部への鈍痛。特に脇腹への衝撃。
グレンは思わず身を守るように丸まった。視線を上げれば、横転した自分に躙り寄る化け物カマキリが見えた。
短剣はない。先ほどの衝撃のせいで何処かへ吹き飛んでしまったようだった。一番最初のように、目の前の瘴魔へお見舞いしたような投石ができる手ごろな石もない。
考えを巡らせた刹那──穿つような熱と痛みが右脚に走ってグレンは声を上げようとした。叫び声はあまりの痛みに発されることなく、喉奥に留まるほかなかった。
見れば、カマキリの鎌が標本のピンのように脹脛に刺さっていた。
ああ、もう無理だ。諦めて、グレンは目を閉じた。そして先ほどの覚悟をもう一度手繰り寄せた。
幸い、アーシェと自分たちの距離は離れている。自分が襲われてズタズタにされる間に、もしくは目の前の瘴魔の食糧という糧になっている間に『妹』の意識が戻って逃げることをグレンは胸の内に願った。
逃すことができなかった、後悔はある。父があの日に──自分がアーシェと出会った日に贈った言葉を、グレンはまた守れないらしかった。
自分に魔力があったらこの状況は変わっただろうか。魔法が使えたら変わっただろうか。否──数週間前にベルナデットの診療所を訪ねたときのように、使い切りの魔道具を持っていれば変わっただろうか。
きっと変わったとグレンは安らかに笑った。
詮無い考えだった。それでも
自分の命と引き換えに、家族を確実に守ることくらいできただろうにと、そう思うと悔しくて死にきれなかった。
木陰の薄暗い中で、グレンよりも遥かに大きな体躯が鎌を振り下ろそうとするのが見えた。
それは宛ら、死神の鎌のようだった。
そうして見たのが最後の光景となって、グレンは意識を手放した。
***
鎌はギロチンの刃のように落とされるはずだった。グレンの命を奪うために。しかしすんでのところで腕の動きは威力を落とし、ぴたりと止まる。
殺気は冷気にも似ている。
キラーマンティスがヒトだったら今頃、そのような感想を抱いていたかもしれない。否、恐らくそうであったとして恐怖に言葉が出ないという節もありそうだが。
しかし本能で『何かがおかしい』と察知して、大カマキリは自分のその首を一八〇度背後へと曲げた。複眼は色褪せたような森の風景を映し出した。
そして、先ほどまでとはまるで違うものも映し出した。
ちょこまかしていた、先ほどまで屠ろうとしていた子供の雄の獲物ではない。雌の、ぐったりとして倒れていた動きもしない活きの悪そうな──しかし魔力は豊富で味は最上級であろうヒトの子の姿を、キラーマンティスは捉えたのだった。
どちらの獲物もこのカマキリにとってはどうということはない相手だった。ここまで手こずらされるのは計算外だったかもしれないが、もう逃げ出す気配はない。ようやくゆっくりと食事に預かれる。そんなことも思っていたかもしれない。
しかし『それ』は違った。雌の子供は違った。
雌のヒトの子の体が空に浮かんでいた。薄暗い森の虚空に。藤色の淡い光の衣を纏いながら。
目線は殆どこのカマキリと同じで、それは彼女が本来立てるわけではない高さという異質さを強調していた。
雌から発される殺気は濃い。まるで番の雄を奪われたときのようだと、カマキリには感じられただろう…森の温度が確実に下がっている。初夏に差し掛かっているはずなのに秋や冬に逆戻りしたかのようだった。
キラーマンティスはここで初めて怯えた様子を見せた。今まで森の暴君として振る舞っていた態度は何処へやら、萎縮して狼狽えて逃げ道すら確保している様子だった。
「──ころせ!」
突如、三音が紡がれた。風圧と刃がかまいたちとなってキラーマンティスへと襲い掛かる。雌の子が発した音だなんてこのカマキリ風情には知る由もないだろう。
立派な大鎌を持っていたはずの腕が緑色の汁を滴らせて落とされる。
昆虫型の瘴魔とはいえ痛覚がないわけではない。しかし瘴魔の視線は淡く発光する『獲物』にその目を奪われていた。自分が感じる痛みなど何処かへ行ったかのように、次に来る恐怖にただ身を竦めていたのだった。
アーシェの本領発揮です。




