025 呼ぶ声1
「──アーシェ!!」
一面の緑、緑、緑緑、緑。
入学してから今まで何度も入っていたはずの緑深い森は、グレンが見てきたものとは違う顔をしていた。全てが同じ風景に思えてくる。青臭い匂いが鼻を突いて、利かなくなるのがこんなに恐ろしいと思わなかった。
これまで友人や先生と入っていた森はもっと朗らかで穏やかだったはずだ。慣れてしまえば奥深くに行かない限り、迷うことなんてまずない。瘴魔だって弱くて、短剣一本さえあればどうにかなる。
それなのに、グレンが走り抜けている今は違った。今の森は違う。『何か』が違う。
「うわっ」
羽音と共に小鳥が数匹、低木の茂みから勢いよく羽ばたいた。囀りなどと可愛らしい声ではない。さながら悲鳴のようで、こんな状況を目の当たりにしたことのないグレンは、ただ尻餅をついたまま目を白黒させるしかない。
「どうしたんだ……?」
辺りを見回す。グレンの問いに答える者はいなかった。
しかし目線が変わったが故に、グレンはその答えの手がかりをもう一つ見ることになった。
「──タッドゥリーが……」
『歩く丸太』と評される瘴魔こと、タッドゥリーが走っていた。赤ん坊の脚のように短く太い、二股の木の根に鞭を打って。いつもはよちよちとしか歩いていない、人の子でも捕らえるのが簡単なくらいのんびりとしか歩かない瘴魔が、まるで天変地異の前触れでもあるかのように走っている。自分の頭に一本生えたアンテナ代わりの枝を恐怖と焦燥に揺らしながら。
しかも多く、大群と呼んで差し支えのないような匹数で。
元々タッドゥリーは「一匹見つけたら一〇匹はいると思え」と言われているが、複数匹で見つかることはあまりない。奴らが休むために集団で輪になっているとき以外は。
だからグレンはその異質さが理解できた。
自分が今いる森は、いつもの穏やかな顔をしていないと。ようやく、その実感が湧いた。
それでも、
「……行かなきゃ」
大切な『妹』がこの森のどこかに連れて行かれたのだ。ならば、助けに行かない道理などグレンにはなかった。
再び失うつもりなど微塵もない。こんな危険な森の中で、恣意的という言葉も裸足で逃げ出すほど身勝手なカタリナと一緒にいさせるわけにはいかない。
父と約束したのだ、守ると。
たとえ、書類上、法律上、第三者の目から見て、今現在は家族ではなくなったとしても。
グレンは立ち上がった。不意を突かれて強かに打った臀部は痛む気がするが、そんなの気にしている場合ではない。勇気を奮わせるように帯びている短剣の鞘を軽く握った。そして彼は、再び緑一面の風景へ向かって走り出した。
***
走って、走って、走って、息が苦しくなってへたり込んだ。
どれほど逃げ回っただろうか。何度目か分からない『背後を振り返る』という行為をする。
影はない、気配もない。つまりは上手く逃げおおせた。
やっと人心地がついた気がした。
「あいつのせいよ……」
脳裏に浮かぶのは、下から睨め付けるような視線を持つ焦茶頭だった。全てを見透かして、警戒する小動物のように、まるでちっとも懐かない。初めて会ったときは魔道の指導を任されるほど無知な小童なのだから上手く利用できると思ったのに。同室のミレイに言いくるめられたのか、魔道の知識も技能も欠片ほどもないくせに言うことを聞かない。
「そうよ、私は悪くない。悪くないのよ」
何も聴きたくないと耳を両手で塞いだ。雑音がすべて遮られて、聴こえるのは同調するかのような自分の心音だけだった。魔道師である自分の言うことを聞かない。そればかりか判断を疑ってきて、動けと言っても思う通りに動かない。
それは自分のせいではない。
あの小娘が専門家の言葉を素直に聞く気がないのが、全ての始まりであり元凶なのだ。
「私は何も悪くないっ……!!」
自分が逃亡者であるという立場すら浅慮の彼方に忘れて、カタリナは吠えたのだった。
「──っ、せ〜……」
「何も知らない。何も見なかった」
「せん、せ……ー!」
「だって寄ってくるなんて知らなかったんだもの。あんな大型な瘴魔が、こんな森に現れるなんてっ」
カタリナが欲しかったのはあくまであの生徒の、アーシェの魔力が込められた魔性植物だった。十一も属性の適性のあるという前代未聞の魔力である。しかも主属性が光で保有刻が闇という、魔道師であれば研究職でなくとも垂涎ものの魔力を有していたのがアーシェ・ネフェリス・ファロアだった。
手懐けよう子飼いにしようなどという甘い考えは、教職員棟で魔力を暴発させられたときに諦めた。ならば、小娘の魔力を有した素材さえあればいい。国立研究所に戻るための成果があればいいのだ。
幸い、ローブの袂と衣嚢にはそんな『素晴らしい魔力』が込められた果実が合わせて数個はある。研究所に戻るには申し分のない収穫だ。
キラーマンティスが出たからなんだというのだ。大体こんな学校施設の近くに存在する森に、大型の瘴魔が現れるなどという情報はこれまでカタリナも聞いたことがなかった。たとえあの小娘が無惨にも殺されたとして、それはカタリナが見捨てたからではない。
自分の命を守るために『致し方なかった』のだ。
これは故意ではない。
ただの事故だ。
「──カタリナ先生っ!」
何度呼びかけただろうか。
これを最後の一回としてグレンはカタリナの名を呼ぶことを諦めた。
カタリナの姿を見つけたのはアーシェを探して森を駆けている最中だった。見慣れたローブの人影が丸まっているのを見逃さず、グレンはひっそりと近づいて──彼女の纏う雰囲気に気付き後退りした。
耳を閉じてにへらと薄笑いしている細面の青白い女の顔が、蹲って顔を伏せ気味にしているとはいえ、木陰の薄暗がりに浮かんでいるのである。しかも自分の世界に陶酔しているかのように、ぶつぶつと呪詛のように『何か』を呟きながら。
それはもう若干ホラーの混じる様相で、それでもグレンがなんとか恐怖心を振り払って近づいて名を呼び続けたのはアーシェに対しての手がかりが欲しいからだった。
周囲を見てもアーシェの気配はない。一緒に逃げてきたわけではないのだろう。どちらから逃げてきたのか、その方向を教えてくれるだけでよかった。もとより自分に冷たく辛い仕打ちをしてきたカタリナだ。アーシェを助けに行くための助力などグレンは期待していない。
情報を聞き出した後は、他の先生を呼びに行くのも兼ねて逃げていってくれてよかった。そうしてもグレンはきっと引き止めなかった。
長居をする気はないと、カタリナの踏み締めた足跡の方向を確認するとグレンはもう一度だけ担任であった女教師を一瞥した。目が悪鬼のように開ききっている。口元は忙しなくもごもごと動いて、涎を垂らしているのにも気付いていない。こんなみすぼらしい姿を他人に、しかも忌み嫌ってすらいた生徒に見せるなど、常のプライドの高いカタリナにはあり得ないことだった。
気が触れた。
今のカタリナを形容するのにこれ以上相応しい言葉がグレンには見つからなくて、彼はそっと憐憫すら彼女に抱いたのだった。
しかし安全な場所へ連れて行く気も余裕も、グレンにはなかった。
それが彼にとってのカタリナという人物の存在だった。
***
(どうしてっ……!? どうして家族一緒じゃだめなの!?)
本当は分かっていた。一緒にはいられないと。
(父上がいなくても、家族三人一緒がいい! おれも働くからっ、良い子にするからっ)
父親という大黒柱を、後ろ盾を亡くした自分たち兄弟が共にいられるはずがない。魔力症に蝕まれ、保護者の庇護と少なからず金のかかる治療を必要とするアーシェと、家族でいられるはずがなかった。
それでも、
(どうして、離れなくちゃいけないの──!)
どんなに自分の心に言い聞かせても、昨年の初めに放った幼い自分の考えなしな言葉がグレンの脳裏から消えない。それどころか、浅ましい駄々の数々がは言い聞かせるたびに思い出され、彼の心を締め付ける。
その度に、グレンは誓う。
(お前の妹になる子だ。兄として守れ。……よいな)
父親が、アーシェを初めて連れ帰った日に自分に託してくれた言葉に。
「アーシェ──っ!」
ようやく地面に倒れ伏す焦茶頭を見つけたときには、グレンは既に自分がどれほど走ったか分からなくなっていた。体力はそこらの同年代の子供よりあると、そう自負しているはずなのに息が上がって苦しい。
ぐったりと横臥しているアーシェに駆け寄りたい。近づいて、怪我をしていないか確認しなければ。意識はあるのか、そもそも命の灯火は消えていないのか。
嫌な考えをグレンは振り払う。そして茂みからそっと出て行こうとしたときに『救助』に集中していた彼の意識は、アーシェの傍らにいる存在を認識した。
「うそ、だろ……」
呆然と呟く。今いるこの場所が午睡に見る夢なら、グレンは早く目覚めたかった。
大人の大男の体格を優に超えるようなカマキリが、アーシェの側で、その腕にある立派な鎌が届きそうなほど近くで、魔力に淡く光る低木を貪り食っている。グレンの知っているカマキリは肉食性のはずなのに、アーシェという獲物には目もくれない。
まるで元から草食だと、自分の生態を否定するかのように。
それはグレンにとっては好都合だった。アーシェが獲物として見られていないなら、彼女をこちらに連れて来ればそれで終わる。ただ、そこで問題になるのは体力だった。ぐったりとして、あんなにも大きな瘴魔の気配が側にあるのに反応できないアーシェが、この場をカタリナのように逃げ切るのは恐らく無理だろう。
グレンだって同じだ。散々走り回って、体力は殆ど尽きたに等しい。おまけに、ここは森だ。しかも、普段とは気配がまるで違う。あんな大型の瘴魔が出没すればそうもなるだろうが、森はまるでそのことを分かっているかのようにここの空気を迷宮のように作り替えていた。
アーシェのことばかりが頭を占めて道標を作る余裕のなかったグレンは今更ながらに後悔した。このままでは逃げられるものも逃げられない。
何より、あんなにも大型の瘴魔を見るのはグレンは初めてだった。
カタリナが半狂乱になっていた理由がようやく分かった。
恐ろしさで体が震える。縫いとめられたかのように足が動かない。目を付けられれば命はないだろう。
すぐそこに、目の前にアーシェがいるのに、グレンは硬直したかのようにその場から動けなかった。
「シャァ……」
その間にも大型の瘴魔──キラーマンティスは貪る口の動きをやめない。可食部位の少なくなった低木は見るも無惨に荒れ果て頽れて、淡い光の残滓を周囲に落としている。そんな残飯同然になった食べ物に飽きたのか、キラーマンティスは前傾姿勢からゆっくりとカマキリらしい立ち姿へと戻った。
そして周囲を、飛び出たその複眼を以って見回す。
倒れたヒトの子に目が留まった。次の食べ物はこいつだと認識するように。
(グレン、其方は兄になるのだ。アーシェを頼むぞ)
(にいさま……グレン、にいさま?)
(どうしてっ、なんでっ! おれたちは家族なのにっ)
「やめろーっ──!」
頭が沸騰して、何も考えられなかった。
目まぐるしく記憶が渦巻いて奔流する。
気がつけば探していた。抵抗する手段を。
地面に手をついて、右手で石を握り締めた。彼の拳ほどの大きさもある石は岩と言っても差し支えのない大きさだった。
岩が空へと放られて放物線を力強く描いた。
的は、キラーマンティスの腹である。弾丸となったそれは、投げた主人の腕の良さを示すように、薄く丸い円を幾重にも描いた大カマキリの柔らかな腹部に見事命中したのだった。
お待たせしました。
休止中も読んでくださった読者の方々に厚く御礼申し上げます。ありがとうございます。




