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Phantasmagoria-狭間の標詩-【学生編】  作者: 菱魚
予科一年生・春〜初夏
25/42

024 異変2

 どれほど進んだだろうか。

 代わり映えのしない緑、黄緑、深緑が視界を流れてはその輝く命の青臭さで以って、鼻腔を掠めていく。

 どれほど歩いたのだろうか。

 足が痛い。擦れるような痛みだけではない。針金がぐにゃぐにゃに曲がって使い物にならなくなるように、少しでも気を抜いてしまえば膝から崩れ落ちてしまいそうな気がする。


 体が悲鳴を上げる。歩き回った疲労のせいだけではない。快晴に、森という湿潤な環境。おまけに、今は麦雨の月──六月である。

 冬長く夏短しのヴォルセナ王国が、夏という季節に片足を突っ込んでいる季節だ。

 そんな状況下で、まともに水分も休憩も与えず、齢九つの少女を何も顧みることなく歩かせ続けたらどうなるだろうか。


 尤も、現在少女をそんな危険に晒している連れ合いは、そんなことを考えるわけがないのだが。


「あったわ! あれよ!」


 ひどく興奮した、耳障りな声が途切れそうで途切れない意識を揺さぶる。

 驚喜に目を輝かせたカタリナが、歓喜の声を上げたと思うや否や一目散へアーシェを置いて走り去っていった。


「あった……! あったんだわ、本当に!」


 喜色に満ちた声は、常日頃の神経質で鼻にかかったようなカタリナの声とはまるで別人のもので。アーシェ自身も視線を彼女の方へ滑らせていなければカタリナのものだと信じることができなかった。

 疲労と暑さでぼやける頭を何とか叱咤して、閉じそうになる目を何とか開こうと努める。


 カタリナはというと、なおも興奮して自分の近くにある一点に釘付けになっていた。

 一点にあったのは、地中から生えている低木だった。低木と言っても一般的な低木よりは遥かに背の低い、そこらに生えている草花と同じほどの高さである。

 背高の痩身の茎はその深い緑体色とは対照的に、枝先につるりとした質感の白い実を幾つか生らせていた。烏瓜(カラスウリ)よりもひと回りほど大きい果実だった。


 息を飲んでじっと目を凝らしていた彼女が、実に手を伸ばし──その手を止めた。

 がさがさと、草を分け入り踏み荒らす音が大きくなり、影が暗くアーシェの縮んでぐったりとした身を包もうとしている。少女が気付いて緩慢に顔を上げたのは、女教師の手が眼前に来たときだった。


「ちょっとこっちへ来なさい、早く」


 ぐいと、力任せに腕を引っ張られる。爪が柔肉に食い込むような感覚はないが、動きが乱暴なためか立ったときに足がもつれてふらついた。


「これに魔力を込めなさい」


 勢いのままに腕を離され、放られる。重力に従って体が落ちて、臀部に衝撃が鈍く走った。草の青臭さと土臭さが衝撃に呼応するように強まって、鼻腔を刺激する。草と制服が擦れる乾いた音に、衝撃を減らそうと地面に付いた手に触れた土と虫の生温い感触が、只管怠さと共に不快感を冗長させた。


「何してるの! 早くなさい!」

「無理……です。先生」


 厳しい叱咤の声がアーシェの頭の中を掻き回す。

 魔力を込めろなどと言われてもできるわけがない。数週間前に目の前にいる女に壊された魔道具の腕輪は修復されて、今は腕に嵌められている。何より


 カタリナのそれは最早不快で、耳を塞ぎたくなるほどの甲高い騒音だった。アーシェはぐったりとして、立ち上がることもままならないまま顔を伏せて首を横に振る。

 その反応に面白くないものを見ているかのように、カタリナは目を細めた。その表情はまるでアーシェの今の様子などどうでもいいと言っているようだった。


 それほどまでに彼女の気配は冷たい。つい先ほどまで昼の熱砂も負けそうなほど興奮していたというのに、この一瞬のうちに感情を削ぎ落とした兵士になってただアーシェを見下ろしている。

 ややあって、聞こえたのは鳥の鳴き声よりもお粗末な音を持つ舌打ちだった。

 腰に帯びた銀の短剣を鞘から抜き放って、カタリナは苛立たしさを隠しもせずに本来守るべきである生徒へと向ける。


「あんたのことなんて知らないのよ……!! さあ……早く!」

「やっ……」


 逃亡を許さんと言わんばかりにカタリナの短剣の切っ先が突きつけられる。腕ではなく髪を掴まれた上に物理的な武器を向けられては逃げられるわけもなく、アーシェはただ大人しく女教師の力の動きに支配されてしまう。目の前の生徒を思う気持ちを欠片ほども持ち合わせない彼女に指と指の間で挟まれるように握られた髪束は、ぶちぶちと嫌な音をたてて毛穴から抜けていく。

 痛みはある。しかし何より、抜けていく未知の感覚に背筋が凍るように冷たくなっていく。


「その実に手を触れるだけでいいわ。さあ、早くするのよ」


 カタリナが言い終えるのよりも早く、白茄子に似た植物の前に引きずられる。もう逃げ場はない。逃げる余地もない。悟ったアーシェはふらつく体に鞭を打った。目眩のする体で腕を伸ばして地面に膝をつける。

 そして何個か成っている白い実を一つ手に取る。アーシェの手が小さいのもあるだろう。片手の全てを占めるほど、果実は大きい。


 力が抜けていくような、頭の奥から痺れが広がって真っ暗になっていくような感覚がひどくなればなるほど、アーシェの手のひらに収まるほどの大きさの実は輝きを増していった。陽光に照らされて実の肌が輝いているとか、そんな見間違いの類ではない。

 実が白っぽく淡く、一際強く緑味の薄い虹色の光を眩く放った。


 ただ魔力を込めるという行いををしただけだったのに、ぐらりと世界が揺らいだ。


「……! これで、これでやっと……!!」


 カタリナが目を輝かせる。こんなにも嬉しそうな顔なんて、初めて見たとアーシェは思った。担任と生徒という、近しい関係だったはずなのに。


「わたくしは、古巣(アカデミー)に戻れるのね……!」


 聞いたこともない歓喜の声だった。

 アーシェが動かないことを良いことに、感極まったカタリナが小さな体を押し退けた。踏ん張る体力も気力もない幼子は、そのままふらりとその場に倒れて蹲ってしまう。

 そんな彼女に目もくれずにカタリナは実を引っ張ってもぎ取った。手袋の嵌めた方の手で実を持ちながら、ルーペでじっと矯めつ眇めつを繰り返す。


「属性も質も問題ないわ。ええ、ええ。それどころか、何種類も属性の気配がある。こんなにも複数の属性を宿す魔性植物なんて見たことないわ」


 そんな行動を繰り返しているだけなのに、カタリナの表情はみるみるうちに明るくなっていく。にんまりと満足気に笑みを浮かべ、目を細めて、うっとりとした面持ちで上等な素材となる果実を見つめている。

 さながら、恋に浮かれた乙女のように。


「こんなにも素晴らしいものができるなんて……想像以上だったわ。あの方にも、やっと認めて貰えるのね。──さあ、早く立ちなさい。何をぼんやりとしているの。残りにも魔力を込めるのよっ。いそぎなさ……?」


 い、と言い終える前に騒音にも似た声が小さくなる。言葉尻は途切れて、続く気配もない。そういえば、なんだか一気に暗くなったような気がする。陽が落ちたように影が生まれて、木陰のせいだけではない薄暗さのせいで、涼しさすらもアーシェは覚え始めていた。


「ひっ……いっ、いやあああああああ!!!!!!!!」

「キシャァアアアアアアアア!!!!!!!!」


 女の悲鳴に呼応するように『それ』は吠えた。

 影の正体はカマキリだった。形は変態を終えていなくとも馴染み深いそれである。体色は草木を思わせる緑だ。緑の深い森で自然と溶け込む色合いである。

 ではどうして、こんなにもカタリナが悲鳴を上げたのか。


 そのカマキリはカマキリであって、カマキリではなかった。

 全長はカタリナの背と同じぐらいありそうだった。同年代の女性の平均身長と比較しても高めな、カタリナの背とほぼ同じ体長である。当然腕の鎌も大きく、鋭い。勿論、そこらじゅうの虫や弱い瘴魔を食い荒らしているであろう口も、だ。

 そんなカマキリが、カマキリの姿を持った大型の瘴魔が二人の目と鼻の先に現れたのだった。


 ──キラーマンティス、ボードマンティスと呼ばれる種と異なりひと回り以上体長があり、『森の暗殺者』と呼ばれる有毒な瘴魔だ。


「いっ、いやっ。いやよ! 来ないでちょうだい!!」


 腕を振り上げて、カタリナがなんとかキラーマンティスを追い払おうとする。しかしそんな威嚇行動もキラーマンティスにしてみればそよ風にも等しいだろう。それどころか、目の前のヒトが『生物(たべもの)』だと悟るや否や、キラーマンティスはその鎌を一気に二人の間に振り下ろした。


「……ぁっ」


 吹き飛ばされたアーシェの体は樹の幹に当たって、悲鳴を上げて地面へと落下した。どうやら、自分は随分と風と相性が悪いようだ。碌に回らなくなった彼女の頭には、そのようなことばかりが浮かぶ。


「シャァ……」


 カマキリは獲物が弱っているのを分かっているのだろう。アーシェが視線を遣れば、此方へとにじり寄って来るのが見えた。カタリナは、いない。自分と同じくらいダメージを受けているはずなのに、体力も有り余っている彼女はきっと逃げおおせるのだろう。


(ああ)


 頭が痛いなあ、と浮かんだのはそれだけだった。視界が真っ暗に塗りつぶされていく。うつ伏せになって地面に打ちつけられたせいで、腹も頬も悲痛なほど叫び声を上げている。


(ウェインさま)


 養父であった、恩人の男も最期はこんな感じだったのだろうか。

 そういえば、グレンは何をしているのだろう。恩人の息子で、自分の兄でもあった少年は。

 学級の皆と一緒になって、この行事を楽しんでいるのだろうか。


 それなら良い、それで良い。自分の父親を殺した者の末路なんて知らない方がいい。誰にも知られず、ひっそりと消えてしまって。

 きっと憎んでいるはずだから。あの家の──家族をばらばらにしたのは、アーシェ自身なのだから。許されるはずなどないのだから。守りたいと、側にいたいとそれすら許されなかった。きっとこれ(・・)はその罰だ。


 ああ、でもどうして、この期に及んで、


 頬を何かが伝っていく感触があるのだろうか。


「──アーシェ……」


『私』を呼ぶ声が聞こえるのだろうか。


 真っ暗な世界に沈んでいく感覚は、ひどく心地よかった。

もはや実質1ヶ月更新ですわな。

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