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Phantasmagoria-狭間の標詩-【学生編】  作者: 菱魚
予科一年生・春〜初夏
24/42

023 異変1

 その名を呟くよりも早く、アーシェに向かって枯れ枝のような痩せこけた腕が伸ばされた。

 青褪めた、暗い色合いの腕である。幼子の腕は容易に絡め取られ、好き放題に伸びた指の爪が柔肉に食い込む。


 そのまま引き倒されるのではないかという力の強さで引っ張られた。

 悲鳴の一つでも上げれば、あの老爺の先生は気づいてくれるだろうか。そんな考えがアーシェの脳裏によぎる。だが、実行には移せない。

 カタリナから滲み出る気配と、有無を言わせぬ殺気にも似たどす黒い気迫がアーシェに行動を許さなかった。


「あんたのせいよ。あんたのせいで……」


 耳をすませば分からぬほどの呟きが間断なく女教師の口から漏れている。ローブと白衣が一体化したような見慣れた彼女の衣服は所々が薄汚れ、擦り切れ、かろうじて纏められていると言えなくはない赤毛と相待って、見窄らしい様相を呈している。


 カタリナの目は真っ直ぐと、連れているアーシェのことは見向きもせず、ただひたすらに前方を見続けている。その目が光を宿していないことに、濁って焦点が合っていないことに気づいて、アーシェはひゅっと息を呑んだ。


 その目を見たことがあるからだ。

 カタリナの今の表情は、記憶の中の、あの悪夢の──思い出せそうで思い出せない、霞みがかった記憶の中にある男の表情とよく似ていた。


(ねえ? ぼくの『お人形さん』)


 耳の奥で木霊する声は、冷たいのに熱を帯びた悍ましいそれで。いつか、カタリナの笑みを見るたびに思い出せそうで思い出せない感覚の正体と重なった。


(いや……)


 危機感を自覚させるには十分なものだった。

 冷や汗と警戒心が、少女の背中からぶわりと噴き出た。

 鉤爪の枷の如く逃げるのを許さない手など気にせず、カタリナの進む方向とは真逆にアーシェは駆けようとした。大人の歩幅や力加減など考えなかった。

 只管に、本能が警鐘を鳴らすのに従う。


 舌打ちが、聞こえた。

 いつの間にか、アーシェは小屋から連れ出されてしまっていた。足が土と砂に擦れて、ざりりと嫌な音がする。次いで、腕を引き抜かれるような感覚に、体が浮いた。手が離れる。熱源のように感じていた腕の食い込みは離れて、背中への衝撃と鈍痛に変わっていた。

 いきなり打ち付けることになった尻と支えがわりになった手が、痛み代わりの熱を伴い始めた気がした。


「──あんたのせいよ」


 アーシェを見下ろしてくるカタリナの顔は逆光で見えない。

 声は怨嗟と憎悪に塗れ、目が肉食獣を思わせるように嫌な光り方を見せているのは気のせいではなかった。

 蛇に睨まれた蛙のように、アーシェには視線を逸らすことができない。


「あんたのせいよッ!!」

「いっ……」


 髪を掴まれ引っ張られる。有無を言わせぬように立ち上がらせられた。

 立ち上がってもなお、リードのように髪を引っ張る力は緩められることはない。


「担任からも外されて、研究もできなくなって、校長は全てわたくしの非だと言ってくる!! わたくしは全て正しいのに、なんで……なんでミレイにも、教頭にも、どうしてあんなにも言われなくちゃいけないのよっ!? 全部あんたのせいよっ!! あんたが現れて全ておかしくなったのよ!! この疫病神!、なんとか言いなさいよ!?」


 金切り声の主張が頭の奥の何処かで、他人事のように響いていた。

 休息所となっていたはずの小屋は既に遠く、見えなくなっている。


 逃げなかったことを、そう判断したことを、これほどまでに後悔する日が来るなどアーシェは夢にも思わなかった。


「落とし前、付けてもらうわよ。その魔力はわたくしのために使ってもらうわ。ねえ、面白い体質だそうじゃないの、貴女」


 不健康な真っ白い顔に、赤い上限の月が浮かび上がる。

 恐ろしいのに、目が離せない。


「風以外の全属性に適性のある魔力、わたくしのために有効利用できること。光栄に思いなさい」


***


「グレ〜ン」

「んー」

「まだですかー?」

「もう少し待ってくれー」


 紐で留められた簡素なスケッチブックに簡単に植物の特徴を纏めたスケッチを描く。勿論、文字情報も忘れないように書き留めて。

 美術絵画のような線の細い強弱をつけた繊細なスケッチではなく、特徴が分かりやすく鮮明に描かれたものになるようにグレンは帳面へ鉛筆を滑らせた。


「……そんなに描く必要、あります?」

「ない、けどな。……アーシェはここまで来てないんだ。レポート課題を提出することになったら大変だろ」

「提出しろと言われることはないと思いますけど」


 グレンのスケッチブックには既に道中で見かけて書き留めたものも含めて、十数点は課題の材料がある筈だ。全てが魔性植物で、瘴魔は追う面倒臭さや勝手に動く面倒臭さがあってか除外している。

 それでも、この学校の裏手の森だけで十数点である。

 無論この中には自分達の課題の分も入っているのだが、それにしたって多い。アーシェを気にかける度合いが過ぎていると、ルイは心中で乾いた笑みを浮かべた。


「そもそも途中で不参加になってるんですよ。多分、別の課題を先生から貰ってるでしょう」

「……なら良いんだ」

「大丈夫ですよ。それにそんなにあるなら僕たちとアーシェでレポート書いたとしても間に合いますって。早く、みんなみたいに瘴魔を見つけに行きましょうよ」


 僕、飽きちゃいましたよ。と茶目っ気を覗かせるつつルイが主張すれば、親友は呆れつつ笑って、斜めがけの革製の鞄にスケッチブックをしまってくれた。


 よかった、いつものグレンだとそう思ったのは何故だろうか。

 何故かアーシェに関するとグレンは何処か追い詰められたように頑なになる。それが自分の知っているグレンとは異なっていて、ルイはこの数週間で彼を心配することがどっと増えた。

 それと同時に、この二人の関係性に嫉妬やら苛立ちやらを何となく覚えることも増えていたわけだが、幸いにもルイ自身はそれを自覚はしていないだろう。

 何となくの、心中のもやもやで片付けている筈である。貴族としての教育を受けているとはいえ、一〇歳の子供が明瞭に理解するには些か複雑すぎる感情であった。


 しかし、複雑すぎて自分でも知らず知らずのうちに持て余しているのは確かで、その思いは嫉妬と羨望という単純な感情に置き換わり始めていた。そしてそれは、ルイ自身が気づくところとなり始めていた。

 持て余すか解消するか、直面した彼が取った選択は気付かない振りをすることだった。


 だから今も、ルイは何事もなかったように気付かない振りをする。

 グレンがアーシェの心配をするのも、彼の面倒見の良さと過去から現れるものだと自分に言い聞かせる。


「──シィやマークはもう行っちゃったみたいですよ」

「……あいつら大丈夫なのか。あとで課題ができないって泣きついても知らないが」


 課題もそこそこに瘴魔狩りに行ったであろう友人たちに頭痛を覚えながら、グレンが短剣を制服のベルトに提げる。子供の手に合った、短剣というよりかはナイフのようなちゃちなものだが、この森に出てくる瘴魔であれば一般的に対処できる代物だった。


「……僕も弓矢を持ってくれば良かった」

「やめとけ。重いし、嵩張るし、後で言うんだろ。『グレン、持って〜』って」

「言えてるけどっ」


 意地悪く笑って自分の声を真似るグレンにルイが反論するように噛み付いた。


「だって得物なんですもん! 修練の成果だって試したいし……!」

「修練の成果は授業外で、だな。それに短剣の技能習得は一年生のうちは必須なんだから、慣れた方がいいだろ」


 ぐうの音も出ない正論に、ルイの脳裏にはフォスの顔が浮かぶ。「今日のグレンは何だか意地悪ですね!」と一矢報いるついでに言ってみたが、効果は薄く逆に笑われてしまった。解せない。


「──さ、誰かさんのお陰で時間はないぞ。どの瘴魔を狙ってみるんだ?」

「…………一番はタッドゥリーかな。デューモッチは水辺に生息してますから」

「すねかじりも良くないか?」

「あれの生息域は平原ですよ。しかも夜にならないと出ませんから……」


 そこまで説明して誰のせいで時間がないんですかと、言いかけてルイは喉奥に飲み込んだ。自分がきっかけで不毛なやり取りにまで発展したのだ。これ以上より不毛なやり取りを続ける気はない。


「森に、しかも今の時間はいますかね?」

「村の方とは少し生息図が違いそうだよな」

「いっそのこと時間ある限り、村とここの瘴魔の勢力分布の違いっていうので調べてみます?」

「いいな、それ。あっちには他に何がいた?」

「そうですね……。ポッポ鳥と、マンイーターは夜中に出てくるから除外で。ヤマアラシみたいなのもいましたよね。あとは」

「──アーシェ」


 瘴魔についての名称を並べていた筈なのに、いきなり級友の名前が出てきてルイは転けそうになった。とうとうぼけたと、うっかり言わないだけ褒めて欲しかった。


「……いきなりどうしたんです」

「しっ。……あれ、見えるか」


 グレンに促されルイが視線を向けたのは前方の奥の方だった。低木が茂って草で覆い隠されているようなところである。

 生えている木々とは明らかに違う高さの焦茶色が、ひょこひょこと動いているのが見えた。

 ──何故か、背の高い赤毛の女と一緒に。


「カタリナ先生!?」

「馬鹿。声が大きい」

「すみません……。でも、どうして」


 担任を外されたカタリナがここにいるのか、しかも小屋で待っている筈のアーシェを連れて。

 深い理由を知らずとも、ルイとグレンの胸中に湧き上がるのは嫌な予感だけだった。

 何せ、それを想像しうるだけの前科がカタリナにはある。


「ミレイ先生からは何も言われてないよな」

「かなりまずい状況ですよね。これ」

「ああ。ルイ、ミレイ先生とブラッド先生にさっきのことを伝えて来てくれ」

「……グレンは?」

「二人を追いかける。悪い、許してくれ」


 言うが早いか、二人が先程いたところまでグレンは駆けていった。


「待って! グレン!?」


 親友の予想だにしなかった行動に、呆然とルイは見送ることしかできない。いつの間にか、グレンの気配は消えてその場にはルイ一人が置いていかれる。


(ああもう!)


 突拍子がなさすぎると、再会したら言ってやるんだと固く決意して。

 ルイもまた、近くにいるであろう副担任に事の仔細を伝えようと駆け出したのだった。

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