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Phantasmagoria-狭間の標詩-【学生編】  作者: 菱魚
予科一年生・春〜初夏
22/42

021 釘

「あっ、先生」


 扉を開けた先にいた教え子の声は発された言葉とは裏腹に調子を抑えたものだった。そんなグレンの隣のベッドをよく見れば、焦茶頭の方の教え子はここに運び込まれたときの苦悶が嘘だったかのように寝息を立てている。

 魔法薬というものは本当に素晴らしく、恐ろしい。先刻までベルナデットに教え子二人の秘密を教えられたミレイには、そのような感想しか浮かばなかった。


「アーシェ、アーシェ」

「ん……」

「寝ぼけてんじゃないよ。起きな」


 女医の優しくない言葉に、夢の世界に繋がれていた少女が身じろぐ。

 眠りから目覚めたばかりのアーシェはぼんやりとした顔つきで、自分の上体を支えているベルナデットを見上げた。


「べるなでっとさま」

「ああそうだよ、あたしだよ。坊の健診はとっとと済むからね。あんたのから先に終わらせちまうよ。いいね」


 言うが早いか、アーシェの答えなど聞く素振りも見せず、ベルナデットは健診に必要な魔道具の載ったトレーを手にするとそのまま寝台を覆うカーテンを閉めてしまった。

 残されたのは完全にこの場では外野になるミレイと、いつのまにか無情にもアーシェの傍から追い出されたグレンばかりである。


「──ああ、そうそう。グレン!」

「はっはい!」

「どうも病室の入り口の蝶番か何かの調子が悪いんだよ。油差しといてくれ」

「分かりました。工具は?──」

「受付のテーブルの下さ」


 簡潔な説明を受けて、グレンは今しがた自分が座っていた丸椅子を放り出して部屋を出て行った。さてミレイはというと。別段何かを言われているわけではない。寧ろ外野であるならば大人しくしていたほうがいいのではないかとすら思うが──


(まあ無理だよな)


 そのようなこと出来ようはずもない。

 自分が軍属から離れる切欠にもなった性分は時折うざったくもあり、それでもいつも好ましい。

 だから彼女はグレンの後を追って、部屋を後にしたのだった。


「私も、グレンを手伝いに行ってきます」


 部屋の主人である女医に言伝をきちんと残し、頼んだよという素っ気ない返事を背に受けて。


***


 小さく細い作り物のような指を取って、挟むように魔道具で咥え込む。


「少し痛むよ」


 言っても言わなくても大したことないのは分かっている。相手が相手だ。それでも言ってしまうのは医者という職業で板についてしまったからだろう。

 少女の指に挟んだ魔道具に力を入れて閉じ合わせる。様子を窺っても痛みに涙を浮かべるようなことはなく、顔を顰めることもない。

 多少眉がぴくりと動く気配を見せたのが、唯一目の前の子供に痛覚が回復し始めているという兆しになっていて、ベルナデットは胸を撫で下ろした。


「──さっき情緒が発達したって言ったろ」

「え……はい」

「痛覚はどうだい。今の、これは?」


 アーシェの指から魔道具を外して、ベルナデットは見えやすいように手のひらに乗せて差し出した。中の細長い窪みには一本の小さく短い針が、中心よりやや上にあって血を滴らせている。

 言うまでもなくアーシェ自身の血だ。

 指先への違和感は確かにあったが痛みとまではいかなかった。


 首を横に振る。女医が呆れたように溜め息を吐いた。


「……すみません」

「情緒は割と順調なのに痛覚はそうもいかないね。一体どうしたんだか」


 素早く魔道具の針部にガーゼを押し当て、ピンセットで摘み取る。ぶつくさ言っているはずなのに手慣れているからかその動きは素早い。そのままベルナデットは白い小判型の皿に血のついたガーゼを置いた。


「謝る必要はないけどね、あんたには深刻なことだよ。アーシェ、あんたが入学したのはドレッドノートの戦技科なんだ。戦場に行って怪我をすることは当たり前、そのときに痛覚がないっていうのは致命的だよ。どのくらい怪我をしているか、自覚がないんだからね」


 向き直って、アーシェの手をベルナデットは再び取った。左手の人差し指にはぷっくりと、血が一粒のビーズのように浮き上がっている。ガーゼをそっと当てて、握ったまま指は心臓より上に保つんだよと言って、そのまま彼女は子供の指から手を離した。


「その前に、戦技科は軍人になるための勉強をするところだ。魔道は勿論、体術を始めとした武術もね。学生のうちから生傷が絶えないんだ。あんたはもうちょっと自分の怪我に敏感になりな。鈍感なままじゃこの先やっていけないよ」

「はい」


 まさかこんなに投与されてた魔法薬の代謝が遅いだなんて思ってもみなかったよ、と憎々しげにベルナデットが吐き捨てる。


「あともう一つ。自分の体のことは自分で管理しな。学校にはあたしも、アロイトも、リーシャもいない。グレンだって力になれるわけじゃない。自分の体調だけじゃなくて体のことで分かってることは、必ず信頼できる大人に言いな。分かったね」


『英明過ぎば身滅びぬ』という言葉がある。魔道師たちに伝わる自分達の行いを戒めるための文句が。

 ざっと言えば、自分の力量以上の知識を持ったのにその付き合い方も考えないでいると痛い目を見る、という意味合いの言葉である。


 しかしアーシェはもう九つである。おまけに寮暮らしで親元を離れている。自分についての情報は把握していてもいいはずだとベルナデットは断じた。

 それが、少女のためであると判断した上で。


「……分かりました。でも、例えば」

「あん?」

「何を言えば」


 何を言うべきかも分からないと途方に暮れているアーシェに、ベルナデットは空を仰ぎたい心地になった。頭が痛い。そんなことも教えなかったのか、この子供の養父たちは。

 ウェインを殴れないのが悔しいが仕方がない。取り敢えずは今の養父である。今度会ったら説教だねと、次にアロイトに会ったときのベルナデットの予定は早々に決まった。


「一回体温が下がると戻りにくいから、基本的に長袖しか着られないこと。なんなら、体温は乱高下が激しいこと」

「はい」

「さっきの話と共通するけど、痛覚が鈍いから大きな怪我じゃない限りは自分でも気づきにくいこと。あと、処方されている魔法薬は基本的に毎日飲まなきゃならなくて、処方量や種類に疑問があるならまずあたしに話を通すこと──」


 話が不意に途切れる。ほかに何かあったかと逡巡するようにベルナデットが自分の口元に手を遣る。


「あとは……属性のことだね。あんたの属性は希少なんだ。白の表刻に黒の表刻。主属性と保有刻のどちらにも白と黒を持っている奴なんてそうそういない。あんたは厄介なのに絡まれているようだからね。あの保護者先生に、あんたからも言っておきな」

「……分かりました」

「本当に分かったかい?」

「…………グレンに」

「アーシェ。駄目だよ」


 覚えられそうな気がしない。グレンにも一緒に覚えてもらいたいというそれとないアーシェの申し出を、ベルナデットは無情にも──心を鬼にして素気無く断った。


「そんなんじゃいつまで経っても自己管理ができるわけないだろ。軍人っていうのはね、甘えなんか許されないんだ。中途半端でできる仕事じゃないんだよ。忘れそうなら紙も筆記具も貸してやるから、書いてでも自力で覚えな」


 ベルナデットから渡された自分の掌と同じ大きさほどの紙に、思い出した内容を書いていく。『先生に伝えること。体温が下がること、痛覚のこと、属性のこと、魔法薬のこと』

 ここまで書いて、ふとアーシェの脳内でウェインの言葉とベルナデットの説教が繋がった。


 自分のために生きるのなら、自分自身のことを理解しなければならないだろう。そうしなければ生きられるはずもない。


(ウェイン様が言っていたのは、こういうこと……)


 ぐっとアーシェは顔を上げた。決意に満ちた、気を引き締めた顔だった。


「……随分とやる気じゃないかい。一体どうしたんだい」

「ウェイン様に、笑われたくありませんから」

「…………相変わらずあいつのことが好きだねえ」


 あいつに好かれる点があったとは思えないんだけど、というベルナデットの呟きは独り言のまま、誰かに聞こえるわけでもなく消えていってしまう。


「まあ精々頑張んな」


 ベルナデットの笑みはいつもの他人を小馬鹿にするようなものでも呆れを湛えたようなものでもなく、世話の焼ける子供の背中を押すような優しく温かいものだった。


***


 それから月日は流れて三週間後。

 新緑の月(ごがつ)は怒涛の勢いで過ぎ去り、息をつく暇もないまま麦雨の月(ろくがつ)がやって来た。

 やって来て、既に第二週の風の週である。


 一ヶ月半遅れで入学、その次の日には魔力の暴走で診療所行きと一週間の入院生活である。並べてみると中々にひどい内容だ。

 この二ヶ月間、アーシェには学校で学んでいるという記憶がないわけだが当たり前である。そもそも学校に来ていない。


 これでは何のために入学したのか分からないではないか。鬱屈した思いがアーシェの胸の内に沸々と湧き起こる。幸いにしてミレイやグレン──彼の場合はあくまで級友という体でのよそよそしさもあったが──といった、周囲の助力もあって授業にはついていけるが、それでは駄目なのだ。


 停滞してはいけない、進まなければ。折角入学したのだし、漸く学べるのだ。カタリナの妨害も入院から帰ってきてから受けていない。絶好の機会と環境だというのに、いつも授業が終わって夕方になる頃には体力が限界を迎えてしまう。


 嫌気がさす。こんなにも自分が弱いと突きつけられるのは、彼女にとって恐らく初めてだった。

 机に力無く頽れる。体がだるい。丁度五時限目が終わったばかりである。時間のせいもあるだろうが、一番は自分の体力のなさだろう。情けないが痛感してしまう。

 入院が終われば皆と同じように生活できると思っていたのに、現実はそう甘くはなかった。無情である。


「──だからね、言ってやったの。あたしを誰だと思って……そっソフィー!」

「どうしたのシャイラ?……あらまあ」

「だっ大丈夫かな。ねえねえ、アーちゃん。どうしたの……?」


 眠気に引きずり込まれそうなところを制止したのは、賑やかで活発な少女の声と大人びておっとりした少女の声だった。

 シャイラとソフィアである。二人ともアーシェと同じ学級の級友だ。


 積極的な交友関係を築いているわけではない──というか築くには時間がなかった──アーシェでもこの二人とは関わることも多かった。二人とも優しく人当たりが良いためか、アーシェ自身も交流には負担がない。

 まあ、元気のいいシャイラには振り回されそうな気配を覚えることもあるが。


 そんな話はさておき。級友の二人を無視するわけにはいかないと、アーシェは机の上に伏した顔を上げた。


「だいじょうぶ。眠いだけ」

「眠いだけ。……あっ、そっか。ごめんね、起こしちゃった」

「いい、大丈夫。話、あるの」

「ううん、様子が気になっただけ……あ」


 思い出したようにシャイラが声を上げる。


「そういえばアーちゃんってハイキングには出るの?」

「ハイキング」

「そうよ。アーシェがいないときに話があったから、知ってるのかな〜って」

「来週の黒の日(きんようび)に学校の裏手の山を登るの。……知らなかった?」

「知らない」

「ミレイ先生からもお話、なかった?」


 初耳である。強めに首を縦に振ると、シャイラもソフィアも顔を見合わせてしまう。シャイラが不平を飲み込んだ残念そうな表情になったのはすぐのことだった。


「やっぱりアーちゃんは参加できないのかな……」

「病み上がりだもの。体に負担をかけるようなことはできないわ」

「でもずーっと行事に参加してないじゃん。あたし寂しいよ。折角の友達なのに」


 ころころ変わる表情にシャイラの細かに波打った珊瑚色のソバージュが揺れる。それがまた、シャイラに同意しているように見えた。

 窘めるようにソフィアが苦笑する。学級の子供たちより一つか二つ年上のソフィアの態度は、その所作全てが大人のように落ち着き払っていた。


「アーシェにも事情があるのよ。体のこととか、きっとそうなのよ。ね〜」

「分からない。先生に聞いてないから」

「あら」


 簡潔なアーシェの答えにソフィアも目を瞬かせる。


「ミレイ先生と寮の部屋、一緒よね?」

「うん」

「……絶対先生忘れてるでしょ。ねーえソフィー、アーちゃん連れて来てってお願いしよーよ」


 シャイラが強請るようにソフィアの腕を掴んで揺する。そんなシャイラにもソフィアはそうね〜とおっとりとした態度を崩さない。小首をこてりと傾げるばかりである。


「……アーシェの都合や先生の考えもあるもの。寮に帰ったら、ミレイ先生からお話を聞いてもらっていいかしら?」

「分かった。大丈夫」

「もしハイキング行けるんだったら一緒に行こうね!」


 授業開始の鐘が鳴ったのはそこまで話してだった。じゃあね〜とこちらへ手を振って自分達の席に戻る二人を後目に、アーシェは決意を固めたのだった。


 絶対にハイキングに参加してやると。

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