001 歯車は回り、噛み合わず
週三回更新と言いつつ、今週は水曜日の更新はなしです(親知らずを抜いて体調が思わしくないため)。
こんなんで大丈夫か。
その日はさむざむとした日だった。
体中のそこらかしこがまるで凍りつきでもしたのではないかと思うくらいには冷えていて、その元凶である夜特有の空気が──読んで字の如く──肌を刺しているのではないかと思うほどに。
石畳の道に白粉代わりに叩かれた雪は一歩踏み出す度に靴越しの熱に溶け、少しずつ革靴を濡らしていく。その不快感に気を取られて、前を歩く大きな背中を、私は追いかけるのが遅れて──
だから、だからきっと、気付くことが出来なくて。
次に思い出せるのは、ひさしぶりに嗅いだ咽せ返るような血の匂いと、真っ暗な空の導となる篝火に照らされた、横臥する大きな体躯と──
『世界を見なさい。世界はそなたが知っているよりも遥かに広い。そして、自分のために生きなさい。いつかそれが誰かの為になる』
大好きな、低くて掠れた声が、紡いだ言葉。大きくて温かな、いつも頭を撫でてくれる手のひらが、頬に添えられてゆっくりとその熱を失っていくのが分かる。
どうすればいいのか分からなくて、それでも目の前で起こった現実が事実だと突きつけられた中で必死に頭を回転させて。回らない脳内に一字一句間違わずに叩き込んだ、今も胸に留め置いている言葉。
──それが、恩人が私にくれた最期の言葉だった。
***
「──シェ」
がたり、と体が跳ねた。青々とした木々が織りなす風景が、体が跳ね上がったのに合わせて歪みながら通り過ぎていく。がたがたと車輪が回る音が振動と共に体を伝って。
いったい幾度目になるだろうか。座席に座っている少女の華奢な体を跳ね上げた。
「──アーシェちゃん」
初夏の気配を纏った暖かな春風が、この国の──ヴォルセナの地を軽やかに走り抜けていく。
窓から見える一面の緑が一気に開けた。
差し込んでくる陽の光が眩しい。風は吹くたびに少女が流している横髪を攫い──好き勝手に動く気のない──残った数本の髪の毛がうららかな光に反射して視界の端で煌めいている。
両耳の近くにそれぞれ結ばれた深碧の細身なリボンは、風に遊ばれ踊るようにその身をはためかせて、それが少しだけ耳朶を掠めてくすぐったい。
息を吸うたびに胸に入ってくる匂いは、生い茂る葉の青さから平原に生えている草の温かな匂いと土の匂いに変わっていて、只管ぼんやりと自身が受容し続けるだけの、しかしながら飽き足らない変化に、少女は目を細めた。
「──アーシェちゃん!」
「……えっ」
急に自分の名前が頭の上から降ってきたことに、少女は目を丸くしながら声の主を見上げた。纏められた鉄紺色の髪が溜め息と共に揺れ、顔に刻まれ始めた皺が顔の中心部に集まっている。
アーシェ・ネフェリス・ファロア。
それが今しがた、保護者から名を呼ばれ現実へと引き戻された少女の名前だった。
歳の頃は九つを半年も越えたほどの、珍しくもない焦茶色のおかっぱとこの国では希少な深い緑色の目が印象的な、痩せっぽちの子供である。
そんな自身に向けられた視線の意味を、理解できないほどアーシェは愚かではなかった。謝るのもなんだか違う気がすると、そこまで考えてバツが悪くなりそっと顔を伏せる。
先程覚えた驚きなどとっくのとうに萎んでしまっていた。
片や視線の主人はというと、反省の色が見えると理解したのだろうか。
彼は苦笑気味に、隣に座っている娘の頭にそっと触れた。
「……緊張しているのかい?」
「そうかも、しれません」
「ごめんなさい」と発された声は小さい。囁きにも似た謝罪に、男は娘の成長を喜んでいいものか、この先の心配をすべきなのか分からなくなってしまう。
二年も前になるだろうか、あの日から比べれば色々と成長も改善も見られる。しかし、これから赴く場所はそういった点は考慮することは殆どない。
「いいんだよ。ただ、アーシェちゃんのそれが通じないところにこれから行くんだって、それだけは覚えていて」
「はい」
唇が真一文字に引き結ばれるのが見える。「こうして見るとあどけなさも不安要素も見当たらないのにな」と思いながら、男は風に遊ばれていた娘の横髪を耳にかけてやった。
「分かりました。アロイトおじさま」
今しがた彼女が見ていたであろう森の景色より、一段と深い、鬱蒼とした森を思わせる双眸が、おじさまと呼ばれた父親を射抜く。
緊張と真摯の光を湛えた瞳へ、アロイトは穏やかに、安心させるように笑んだ。
向かいの車窓から見える風景は、いつの間にか何もない平原から、人の住む気配のある街を映したものに変わっていた。
***
「はい、おまちどうさあん」
御者の温和な声が聞こえ、石畳の街道を走っていた幌馬車はその歩みを止めた。車輪を通じて体に響いていた地震のような揺れも止まり、幌から垂れ下がっていた幕が開かれる。
「さあ、行こうか。アーシェちゃん」
「はい」
足元に置いていたボストンバッグを手に取る。使い込まれているのが一目でわかるキャメルの色合いに、触れればさらりと肌を撫でてくれる革の風合いは、アーシェがこの鞄を見かけた二年間からちっとも変わっていない。
変わったことがあるとすれば、この鞄にぎりぎり入るくらいだったアーシェ自身がこの鞄を持てるくらいには成長したということである。まあ、たまにその重さに足を取られるくらいには、鞄は些か重いのだが。
「よいっしょ……」
考えながら、転けないように慎重に馬車のステップを降りていく。後ろで待っているアロイトはその様子に堪えながらも可笑そうに笑みを浮かべていたが、幸いなことにアーシェは集中していてそれどころではない。
滑らないように、一歩一歩慎重に──
「わあ」
段差を降りて、顔を上げる。まず目に飛び込んできたのは、先ほどまでぼんやりと追っていた鮮やかな緑。蒼穹との境目ははっきりとしていて、眩しい。空には雲があっても、彼ら自身を照らす太陽を遮ろうとするものはない。
後ろがつっかえないように馬車から距離をとって今までに北道を振り向く。街外れの山道に近しい閑散とした場所のようだ。足が少しだけ斜めに地面に押されているのが分かって、これから行く場所が山の麓にあるのだと、今まで知識として覚えていたことを実感で理解する。
「どうだい。初めて見た景色は?」
木製のトランクケースを下げたアロイトが微笑を浮かべている。見るからに大荷物だと分かる大きさのそれは、アーシェでは到底持てぬ代物である。
「きれい、です」
「それはよかった」
頬を染め、美しい自然に感嘆する。
そんな少女の頭を、くしゃりと撫でてくれる手は温かい。アーシェのさらさらな細い栗毛の髪が少し崩れて、吹かれた風に遊ばれている。
「そろそろお迎えが来てるはずだから、少し急ぐよ」
「どれくらい歩きますか」
「うーん、それほどでもないよ。坂を登るから少ししんどいかもしれないけど」
歩き始めたアロイトのも歩調に合わせるように、アーシェがやや小走りでついて行く。見かねたアロイトが、鞄を手にしていない左手を開いたり閉じたりしていて、それが『持つよ』という合図なのは分かったがアーシェは首を横に振った。
「入学したら日常茶飯事だからね。このしんどさ」
「毎日山登りですか。寮に入るのに」
「学校では訓練があるからね」
「授業で体を鍛えるのに毎日走ったり歩いたり」と、アロイトが言ったことは聞かなかったことにしておきたかった。
「まあ大丈夫……かな。アーシェちゃんのことは先生達も知っているはずだから」
「そう、でしょうか」
「ああ。大丈夫だよ」
アロイトがそっと目を伏せた。
「だから、今日まで待ったんだから」
目線を上げたその先を追う。アロイトの身長の二、三倍はあろうかというほどの鉄製の瀟酒な門に煉瓦造りの赤茶の塀。まだ距離があって、その先は見えないがきっとこの門にふさわしい建物が並んでいるのだろう。
そして、その門の前に佇む小さな人影を確認する。件の『お迎え』であることは瞬時に分かった。
「ほら、アーシェちゃん」
アロイトが差し伸べていてくれた手を取る。保護者の手は温かくて優しくて、これからこの手と暫く離れることになるのは多少なりとも寂しさを覚える。それは彼が、アーシェにとって信頼のおける数少ない大人であるという証左でもあるのだが。
足を踏み出すたびに転んで前へ前へと導く腕に引き摺られやしないかひやひやする。だるくて重くなってきた腕がなにかの拍子に鞄を落とさないかどきどきする。
それでもアーシェの胸中を支配するのは、今まで感じたことのない期待と、ほんの少しばかりの未知の世界に対する恐怖と
「──お待ちしてました」
脳裏に浮かぶあの人と交わした約束、ただそれだけだった。
「アーシェさんとその保護者の方で……よろしいでしょうか」
重さが気になり始めてきた手元のボストンよりもやや明るい、もみあげから伸びた髪が揺れた。段々と大きくなっていた人影は女性だった。勝ち気そうに笑う顔が清々しくて、春の終わりの──ちょうど今の頃の草木を思わせるようだった。
「私はミレイユ・リュンヌ・スープレ・イディアールと申します」
「存じています。何度もお会いしていますから」
「覚えていてくださるとはありがたいです」
アロイトと話すのもそこそこに、ミレイユと名乗った女性が腰を折った。アーシェと殆ど同じ背丈になったその顔は、見ると二〇半ばくらいの歳の頃だと推察できる。アロイトと話すときの茶目っ気を覗かせた顔は、年の頃よりはやや幼く見えたが。
「改めて、初めまして。アーシェ」
さん付けのない、気取らない挨拶に先ほどの勝ち気さとチャーミングさの混じった笑顔。「『お迎え』の人はとても良い人だったよ」と家を出るときに心配そうに見つめてきたリーシャおばさんに、アーシェは無性に話したくなった。
「我らがドレッドノートによく来たな! ずっと、ずっと……待ってたぞ」
新緑の月も終わりに差し掛かり、春の盛りが過ぎ始めようとしている今日。
時期外れの入学者として、アーシェ・ネフェリス・ファロアは保護者と共に、ドレッドノート中等学校へと辿り着いたのである。
そしてそれが、大切な恩人と交わした約束を果たすための始まりであったこととは、このときの彼女は知る由もなかったのである。




