018 馴染みの
「ウェインさまっ……!!」
影が、覆い被さった。
次に、鼓膜が破れるのではないかと思うほどの爆発音と衝撃が襲ってきて、アーシェはきつく目を閉じた。
逞しい腕と胸板に抱きすくめられる。何かが違う様々な熱も、鈍い感覚も、音も、全てがウェインと出会った頃の、『あの頃』を思い出させて頭が真っ白になる。アーシェはただ、ウェインの軍服を握り締めていた。
何をすればいいのか、そもそも何が起こっているのかが分からない。
だから、先刻感じたものと比べ物にならない爆発と衝撃が襲ったとき、受け身を取ることも忘れて強かに城壁に体を打ち付けたのだった。
離れ離れになった温もりが遠い。薄く化粧のように石畳に積もっている雪が、徐々に体温を奪っていく。耳のずっとずっと遠くで、大人の男たちの「何があった!?」と混乱している声が二、三聞こえる。
しかし、そんなのアーシェにはどうでもよかった。助けを呼ぶという考えさえ、今の彼女にはなかった。
大切な人が倒れている。さっきの爆発のせいだ。早く、早く傍に行かなければ。外に出るときは私の傍を離れるなと、それはずっと約束していることなのだから。
久方ぶりに強く感じる痛みに重くなった体を引きずるように──半ば、這うように──横たわった影に近づいて行く。
もっとはやくもっとはやく。叱咤しても足は言うことを聞いてくれない。
「……うぇ……ん、さま」
近づくにつれて荒い息遣いが聞こえてくる。鼻腔を突くのは焼けた肉の──普段食べるそれとは明らかに違う──気持ち悪い匂いだった。
「……うぇいん、さま」
息遣いが徐々に呻き声に変わっていく。呻き声が、自分の名を呼んでいるそれだと気づいたとき、アーシェは泣きそうになった。
否、もう泣いていたのかもしれない。ウェインの傍にようやく来たとき、アーシェは力尽きたように彼の傍にしゃがみ込んでしまった。
「ウェインさま……!」
男の左腕は無くなっていた。肩から抉れたように、見るも無惨に吹き飛んで、血と肉が焼けた匂いを漂わせている。
同じく左の脇腹と胸には爆発による火傷が広がっていて、軍服は破け──恐らく、溶けて癒着しているところもあるだろう──爛れた肌を剥き出しにしていた。城壁にある篝火に照らされた肉は、黒々と、それでも艶やかに光っていて、今にも蠢きそうである。
それが一層、事態の深刻さを物語っていた。
「ウェインさま、ウェインさまっ」
「ー……シェ」
僅かに口元が動いた。白っぽい無精髭が生えている──いつもアーシェやグレンに頬擦りをしてくると少し痛い──頬が動いている。薄い肉付きの頬が動いて、声になるかならないかの声量でアーシェの名前を呼ぶ。
緩慢に、無事だった右腕が動いて、自分から目を離さない養女の頬に彼の手が留め置かれた。
「……いきな、さい。じぶんのために」
呂律の回らない口が呟いた言葉が、冷たく熱くなったアーシェの脳内に木霊した。
寒空で冷えた頬に添えられた温もりが滑り落ちたのは、そのすぐ後だった。
***
目を見開いてすぐに視界に飛び込んできたのは、白色だった。色合いとの結構な距離から白色が天井だと認識したのはややあってからで、アーシェはそれまで心臓を好き勝手に吠えさせながらじっと息を潜めて身動ぎせずにいた。
(なんで……何が)
突然の情報に頭が追いついていかない。取り敢えず、自分がベッドに横になっているのは分かる。だが、どうして横臥しているのかが分からない。
今まで何があった。一体何が、何が──
「あ」
そうだった、と思い至ってアーシェは我に返った。状況が把握できそうなところを邪魔するように未だ鳴る胸が煩くて、目を固く閉じる。こうすれば必要な情報だけが頭の中にすっと残されて、今まで感じていた煩わしくて余分な情報は外へと排斥されていくのだ。
脳裏に浮かんだ風景は学校だった。校舎の前、浮かぶ自分の身体、風に煽られ殴られるようにバランスを崩し、そのまま落下して、いきなり鈍さと重さが肉体に襲いかかって眠くなった。
そこまでは覚えている。受け身を取ろうとして体を丸めたは良いものの、それが何の役にも立たなかったことも覚えている。
人が、色んな声が、めいめい高い声で低い声で泣いたり悲鳴を上げたり。そんなことも覚えている。うっすらと頭の中に残っている。体を襲う鈍痛と重さの中で、自分の名前を呼んだのが誰だったかも
(──グレン)
彼女は思い出した。彼が駆け出してずっと自分の名前を呼んでいた。意識を完全に手放す前、彼は何度も泣きそうな声で『アーシェ』と呼んでくれていた。
グレンは今、何処にいるのだろう。自分が落ちてからどれほどの時間が経ったのだろうか、ここは何処なのだろうか、そもそも何が起こっているのか。
アーシェにとっては一番最初に浮かんだこと以外は全て些事だった。頭の中は喧しくグレンが自分を呼ぶ声が木霊して、『あの日』の寒空の記憶が目まぐるしく頭の中を掻き乱す。早く行かなければ。何処へいくか定まらない頭の中でそんなことを考えながら、鈍痛に喘ぐ上半身を起こす。まるでその動きと連動するように頭が痛んだ。
痛くて熱を持っていると気づいたときには、遅かった。
右下、視界の端で、薄い紫の光が白い掛け布団に眩しく煌めいた。
手元で輝くそれが『魔力』だと、あのときカタリナの研究室をめちゃくちゃにしたものだと本能的に察して、アーシェは胸元できつく右手を握り締めた。
全てが壊れるのが怖い。再び誰かを、何かを傷つけるかと思うと気が気じゃない。だからアーシェは無意識に叫んでいた。
「いやっ!」
「──何事だい!?」
部屋に、壮年の女の声が響いたのはすぐだった。驚いたアーシェが呆けたように自分を見て──そしてその様子から『まずい状況』だと悟るや否や、女は白衣の衣嚢から薬瓶を取り出した。その間に素早く、アーシェのベッドに近づく。
隙のないその動きに、女がアーシェを覗き込んだのと彼女に小瓶を差し出したのはほぼ同時だった。
「飲みな。アーシェ、早く!」
焦った声に弾かれたように、アーシェは瓶をひったくって一息に煽った。薬特有の青苦さを隠すように、味覚を殴ってくるような甘さが鼻を抜けていく。菓子に使われるような甘さではなく薬臭さの混じった吐き気を催すような甘さに、アーシェは吐き戻すのを心中堪えながら喉奥へと押し込んだ。
その瞬間、ふっと体が軽くなる。熱が嘘のように一瞬で引いて、冷や汗が噴き出そうで体が震えていたのがぴたりと止んだ。
「全く……ちょっと目を離した隙にこれかい」
女の呆れた声にアーシェは俯いたまま、じっと堪えた。否、堪えようとした。その声が懐かしいもので、ウェインが亡き今、アロイトもいない今、一番信頼している人物のものであったから。
そしてその呆れの裏に、確かな愛情と心配が見え隠れするのを感じ取ったから。
「ベルナデット、さま……」
「なんだいアーシェ、あんたにも坊の泣き虫が移ったのかい。勘弁しとくれよ」
「ベルナデット、さま……!」
息苦しいだろうに、涙を浮かべてずっと自分の名前を呼ぶ。そんなアーシェの姿にベルナデットはぎょっと目を瞠って、すぐに目を伏せた。
感情の読み取れない──様々な思いがないまぜになった──表情だった。
「そうかい。随分と、感情を表に出すようになったじゃないかい」
そう紡ぐ声はどこか優しく、同時にほろ苦さをはらんでいた。ベッドの近くの小さなテーブルにかけてあった薄地のタオルを、ベルナデットは手繰り寄せてそっとアーシェの顔に押し当ててやる。
ぼろぼろとシーツに染みを作っていた貴石の破片はタオルに吸い込まれて、ゆっくりとあったかく湿っていく。ひくりひくりとしゃくり上げる声が、不規則に部屋に木霊する。
「ここはあたしの診療所だよ」
アーシェが落ち着き始めた頃合いを見計らって、ベルナデットが口を開いた。ベルナデットが話し始めたら内容が分からなくとも話を聞けと二人の保護者から口酸っぱく言われていたアーシェは、タオルを顔から話して顔だけはベルナデットの方を向いた。
「しんりょうじょ……」
「ああそうさ。あんたが運ばれたときは何事かと思ったよ」
真っ直ぐな深い栗毛を撫でる手は年相応にかさついている。蓮っ葉で気風の良い口調とは裏腹に、その動きは優しい。
「知らない女の隣に泣き腫らした坊が……グレンが立ってて、よく見りゃ女の背中にはぐったりしてあんたがおぶさってるし。何があったか訊く前に『魔力を暴発させたんです。治療をお願いします』って言われてね」
「おんな」
「髪を一纏めにした女だったよ。見覚えあるかい」
「ミレイ、せんせい……」
診療所に連れて来てくれたのがカタリナではなくミレイであることに、アーシェは心の底から安堵した。それと同じくらい、ミレイが自分を見捨てなかったことにアーシェは心から感謝した。
「そうかい。教師だったのかい」
「寮で……一緒の部屋なんです。はたりべや」
「……それを言うなら『二人部屋』だよ」
「まったく、言い間違いは変わっちゃいないね」と、ベルナデットに溜め息を吐かれた。それすらも彼女なりの愛情表現や心配なのだと知っているアーシェは、怯えることも憤ることもなくただじっとベルナデットを見ている。
それが、アーシェが他人を警戒していないときにする態度であるということもまた、ベルナデットは知っていた。
「坊は保護者と一緒に待合室にいるよ、安心しな。……丁度いい。あんたの健診の必要もあるんだ。坊も一緒に受けさせようかいね」
「時間……かかりますか」
「坊は兎も角、あんたはね」
そんな寝耳に水のことを言われてアーシェの脳内は突如フリーズした。そんなアーシェの様子に呆れを通り越して、薄らと額に青筋を浮かべたベルナデットは少女の頬を非情にもむにっと摘み上げる。
「当たり前だろ。魔力の暴発に、魔力症に……ただでさえ高所から落っこちて重傷だってのに誰がのこのこ大人しく帰すかい!! 外傷を治すために魔法薬も使って規定量がぎりっぎりの状態なんだからね!! いいね! 分かったかい!!」
「わかりましたわかりまひたっ。ごべんなひゃいっ」
ぱっと手が頬から離れる。おかしなことに打身で重さを訴えている体よりも痛みを感じる頬をアーシェは摩った。ベルナデットが手荒なんて昔から知っていて慣れっこなのに、なぜか途轍もなくアーシェは自分の心が萎んでいくのを実感した。
「そうだね。せめて四日。本当はもうちょっと欲しいところだけど。……さ、じゃれあってんのは終わりだよ。あたしは坊たちとちょっと話してくるから」
「ここで大人しく待ってんだよ」と、ベルナデットが目を光らせて扉の向こうに消えていった。安心も焦燥も不安も恐怖も一気に詰め込まれたせいか、一気に心も体も重くなったようにアーシェには感じられた。絶対に怪我のせいだけではないと、これだけは確信を持って言えるだろう。
それにしても『昨日、一ヶ月半遅れで入学した新入生。次の日に魔法の暴発を引き起こし、四日間の入院で足止めを食らう』
なかなか無い事例である。というより、恐らくこんな記録を叩き出したのはアーシェが初めてだろう。一体なんの記録だとか、内実は不名誉極まりないものであるということはまあ、さておき。
結局のところアーシェはまるまる一週間入院することになり、彼女が将来ドレッドノートを卒業して夫婦の契りを交わしてなお後輩たちに語り継がれる伝説となっていることは、今の彼女はまだ知る由もない。
(新学期が始まって課題と原稿の時間の配分を忘れた故の一週間ぶりの更新でした。反省してます。)




