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Phantasmagoria-狭間の標詩-【学生編】  作者: 菱魚
予科一年生・春〜初夏
18/42

017 暴発

「わっ」


 体が持ち上げられた。誰に、ではなく『何か』に。見えない力に、だった。足は既に地にはつかず、そのまま見えない『圧』に取られてアーシェはよろけた。


 尻餅をつく。普通ならばあるはずの臀部への衝撃がない。咄嗟に体を支えようとした手も、虚空に絡め取られて地面からは離れてしまった。

 横になっても変わらず体は浮き続けている。青い空も、白い雲も、穏やかに煌めいている陽光も、全てがいつもより近い。


「アーシェ・ファロア、何をしているのですか!?」


 教頭の叫びが遠い。拐われた体に戸惑って、アーシェの喉からは掠れた声しか出ない。

 こんな事態はそもそも彼女だって生まれてはじめての経験なのである。


「──わ、分からな」

「すぐに降りてきなさい! 早く!」

「アーシェ!!」


 何とか声を振り絞る。しかし聞こえているのかいないのか、大人たちはめいめいに口を開いて言いたいことばかり言っていた。

 指示を寄越し、自分の名前を叫ぶ教頭とミレイは必死の形相だ。カタリナはと言えば、青褪めて空を──否、アーシェを見上げている。小刻みに震えている手がローブの衣嚢を押さえていることに、ふとアーシェは気がついた。記憶を遡って、そこに何が入れられていたか確認する。


(腕輪……)


 思い出したのは、先ほどまでのでやりとりで渦中にあった魔道具そのものだった。そこで漸く思い至った。脳裏にあったアロイトとウェインの言葉が真実味を帯びていく。

 直感が、こんなことになったのは腕輪が関係していると叫んでいた。


 まさか、恩人(ウェイン)養父(アロイト)の言葉をこの状態で噛み締めることになるとはアーシェも思わなかった。そんな現実逃避を企てている間にも彼女の体は風に拐われ続け、どんどんと空とその距離を縮めていく。

 目線の高さは既に、木造の3階建ての高さとほぼ同じになっていた。

 自分たちが先ほどまでいた校舎と同じほどの高さである。事実を目の前に突きつけられて、今度はアーシェの方が青褪めた。


 頭が真っ白になって、ぶれて鈍く重く感じる。倒れる心配はないが、ここから落ちたらひとたまりもない。正気を失った頭が他人事のように告げてくる。

 地面を見下ろせば、キャンパスにあったまばらだった人影は群衆となっていた。ざわめきは今やどよめきに変わっていて、砂糖の粒が集まったように群れているのが、余計に高さを感じさせる。


「いや……」


 恐怖などという感情とは無縁だと思っていた。アーシェは浮かんで意志のままに動かせない脚を、何とか引き寄せぎゅっと胸元に持ってくる。いつ落ちても大丈夫なように、体を石のように縮こまらせた。


(いやっ……!)


 刹那、風が強く吹いた。

 殴りつけるような風だった。


 何とか落ちないようにと、足の踏み場が文字通りない状態でアーシェはバランスを取る。丸まった状態を解いて、ひっくり返って頭に血が上りそうな状態から何とか先ほどまでの横になった状態に戻ろうと必死に足をばたつかせた。


 それでも風は二、三と勝手気ままにアーシェを引っ張り続ける。掴んでは引っ張って、掴んでは殴りつけ、小動物を嬲り殺すかのように少女の小さな体を弄ぶ。


 そうして不意に──ぐん。と引っ張られたとき、今までとは違う感覚が自分を支配したことに、アーシェは目を見開いた。


(え……?)


 理解が追いつかない。

 自分を掴むものは風以外には何もないはずなのに、何故か掴まれるーーというより、落とされる感覚がある。昔に何かで感じた力の入れ方よりは強くないが、されるがままなのは不味いのではないかということは、さすがに分かる。


 意識が『危険』という二文字に舵を切り出した。風がまるで自分を見捨てたかのようにその手を離したことにアーシェが気づいたのは、本能が警鐘を鳴らし始めたのとほぼ同時だった。


「あ……」


 つい言葉が零れる。

 視界が、斜めに歪んでいく。

 おもい。

 おちていく、からだが。おもい。


「……アーシェっ!」


 自分の名前を叫ばれたと、果たしてアーシェは理解できただろうか。そんな余裕はきっとなかっただろう。地面に近づくまでの猶予の間に、アーシェは自分の足先を何とか掴んだ。そしてそのままぐっと顔の方へ太腿を近付ける。


 きっと来るであろう衝撃に受け身を取ろうと丸めた体に──鈍い衝撃が走ったのはすぐのことだった。


(──うるさい)


 続いてからだがおもい、ねむい、とぽつりぽつりと覚束ない頭が、思い思いに主張を始める。

 聞こえてくる泣き声やキンキンと響く声が、あのときと重なってアーシェはゆっくりと目を閉じた。こうすればウェインに会えるだろうか、鈍く痛む体に淡い期待を抱いて、真っ暗になっていく視界に身を委ねる。


(まだ、まだ会っちゃ駄目だよ。君は)


 生きるんだ、と知らない誰か──青年の声を持った誰か──が言った言葉は、今度こそ気を失ったアーシェには届いてなかった。


***


「アーシェっ──!!」


 グレンは走った。衝撃音が聞こえた途端、弾かれるように昇降口を後にした。

 妹分の元に間に合うようにと必死で足を動かす。そんな彼を体を張って止める人物がいなかったら、彼はアーシェの元に駆け付けていただろう。

 しかし、それは許されなかった。


「アーシェっ、先生!? 離してください!! アーシェ!!」

「グレン落ち着け!!」

「いやだっ、アーシェ!?」


 きっとグレンは泣いていた。興奮して何がどうなっているか理解できず、激情だけが熱となって彼の頭を巡っていた。ミレイはそんなグレンの体を抱き留めた。そうして暴れて今にも腕から逃げ出しそうになる子馬を、何とか落ち着かせようとそのまま抱き締める。


『家族』の側にいたい気持ちは、嫌でも分かる。今はたとえ『家族』ではないとしても。

 ミレイにだって人情はあるのだ。

 だからこそ、グレンのことをアーシェに近づけるべきではないと思った。この興奮状態では何をしでかすか分からない。

 アーシェは体全体を強打している。落ちてから動く気配を見せていないということは、気を失っているということだ。下手に体を動かされてしまっては彼女の命に関わる。


 それに、


「魔力の残滓があったらどうする! 馬鹿者、近づくんじゃない!!」


 ミレイが一番恐れていることがこれだった。魔力のないグレンにとって命取りにもなりかねない要因である。

 叱責がきっかけになったのか、グレンの碧眼がゆっくりと理性の光を取り戻していく。痛いほどにミレイの腕を掴んでいた力を緩め、縋るように彼女を見上げる。


 目に溜まった涙は重力に従いながらぼろぼろと零れ落ちて、グレンの頬を伝っていく。悔しいだろう、辛いだろう、無力だと思っているのだろう。幼いとはいえ、彼は守る側に立つ者だ。同じ立場にあるものとして、グレンの心境はミレイにも痛いほど理解できた。


「……アーシェは大丈夫だ。ほら、見ろ」


 彼女が落下した地点へと目線を向ければ、数人の教職員が早くも校舎から持ち出してきたであろう担架にアーシェを慎重に乗せているのが見えた。

 その様子を、グレンはじっと見て目を逸らさなかった。

 目に焼きつけているかのように、真剣にアーシェのことを見つめている。


「大丈夫だ。安心しろ、アーシェは無事だ」

「……先生」

「ん、どうした」


 先程の錯乱ぶりに比べればよほど落ち着きを取り戻した声と言えよう。それでも不安定に聞こえるのは、きっと涙声のせいだった。自分を呼ばうグレンに、穏やかにと努めてミレイは言葉を返す。


 真っ直ぐな瞳だった。宿していたのは理性の光ではない、意志の光だった。

 すんと鼻を鳴らさなければ、グレンのものだと理解ができなかったかもしれない。


「アーシェはこのままだと何処へ」

「保健室だろうな。だからどうし」

「──ベルナデット様のところへ連れて行ってください」


 話の途中で遮るなんてグレンらしくない行動だった。


「ベルナデット様のところへアーシェを連れて行ってください。お願いします、先生」

「ベルナデット──『瘴治の魔女』様の元へか。どうして」

「さっき言ってましたよね。魔力の残滓がって」


 確かにそうだとミレイは己の言動を思い返す。

 確かに言った。教頭、カタリナ、自分。動ける教職員の中でも魔力の少ない己は、──勿論、グレンを止める必要があったからというのもあるが──だからこそアーシェの元に近づかなかった。


「魔力が暴発してああなったとしたら、絶対にベルナデット様に見せなきゃいけないんです」

「それは分かる。魔力症だからな……だが」

「お願いします!」


 頭を下げるグレンは再び泣きそうだった。

 どう対応すればいいか考えあぐねて、ミレイは取り敢えずグレンの頭に手を置いた。


「そう、言われたのか? 親父さんに」

「……はい。あと、ベルナデット様にも」

「なんだお前。それを先に言え」


 考えを詰まらせていた時間が無駄である。そのまま力一杯多少乱雑に頭を撫でてやれば、グレンが目を丸くしてこちらを見上げていた。


「教頭に相談する。大丈夫だ絶対連れて行く。約束するから」

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