014 複雑
「なんで、お前が」
ここに、と続けようとした言葉は、昨日の二の舞になりそうだと既のところで気づいて止めた。だが、言わなかったのはそれだけのせいではなかった。
影の中にいる少女の異様さに気づいたとき、グレンは言葉を失った。
「なっ、アーシェお前」
「えっ」
影の中、ひんやりとした空気の中でアーシェが身動いだ。そして自分の着ている制服に視線を滑らせて──固まった。
「グレン、にいさま……」
寄る方ないといった様子で、途方に暮れたアーシェがグレンを見つめた。深い緑の双眸だけがあの頃と変わらず、グレンを射抜いている。
アーシェの制服は昨日下ろしたばかりだというのが嘘のように擦り切れていた。
擦り切れていた、というのはまともな部分だけを指していると言った方が良いかもしれない。シャツもジャケットも擦れて襤褸になったというよりは、刃物のようなもので切り付けられたという方が正しい。
ガウチョのようにふんわりとした裾を持つ下衣は、元々深いスリットがあったと言わんばかりの顔をしていた。
革靴には大きな傷こそないものの、白く擦れた跡が線のようにいくつもある。
グレンは目を見張った。アーシェの制服──というより、制服の色合いをした布衣──は、明らかにドレッドノートの制服としての様態を成してなかった。
「一体どうし……何があった!?」
「え……あ」
アーシェとの間にあった距離を急に詰めて、グレンがアーシェの肩を揺さぶった。
よくよく見れば頬には擦り傷やら切り傷はないものの、アーシェの髪はぼさぼさだ。ざんばらの髪になっているわけではない。だが、一年半ほど前までグレン自身もよく梳っていたはずの真っ直ぐな焦茶は、今は見る影もなく思い思いに跳ねて複雑に絡んでいる。
何があったと、問い詰めるなという方が土台無理な話だった。
「そう、なの。……そう。カタリナ先生が、ミレイ先生が……教室はどこ!」
「アーシェ!?」
先程まで言葉を詰まらせていたアーシェが目を見開いたかと思うと、今度は矢継ぎ早に言葉を浴びせてきた。尋常ではない狼狽え方である。グレン自身も、こんなにしどろもどろになって言葉を探しているアーシェは見たことがなかった。他の同年代の子より感情の変化が乏しく、いつもそうかと思えば親しい者の前では年相応に笑うことも怒ることもある。
グレンにとってアーシェとはそんな子供だった。
そんな彼女が珍しく感情を露わにしていた。もちろん、負の意味で。
アーシェが普通ではない事態に置かれていると、グレンが把握するのにはそれだけで充分だった。
「落ち着いて。大丈夫だ、大丈夫だから」
記憶にある父のように、グレンはアーシェの背に手を回してそっと撫で摩った。優しい声で心を鎮めるように促す。
「駄目なの、先生が、部屋がぐしゃぐしゃになって、どうすれば良いのか分からなくて」
「分かった、分かってる」
未だ混乱し続け要領を得ないアーシェを宥める。こんなにもアーシェが取り乱すのは初めてだった。父が亡くなったときだって、こんな風になったことはなかったのに。
全てに理解が追いつかなくて、混乱して、グレンは胸をかきむしられる。
「……取り敢えず、教室へ行こう」
アーシェが落ち着き始めたのを見計らってグレンが口を開いた。深緑の瞳がグレンに助けを求めるように、じっと見つめてくる。
こんな事態だというのに、その点が変わらないことに安堵する彼自身がいたのも事実だった。
「ミレイ先生を探せばいいのか?」
「そう」
「じゃあ、ミレイ先生に会ってからだ。その後に、全部話す。そうしよう、な」
「はい……グレンにいさま」
自分のものよりも白く青白い手を取って、グレンは暗がりから妹を──否、「妹分」をすくいあげた。今はもういない妹を思ったのは、にいさまと呼ばれたからだろうか。
「なあ、アーシェ」
「なあに」
優しく陽が差して、彼らを照らした。こうして光に当たって見ると、制服の荒らされようが具に分かる。何があったのかは知らないが、この制服はきっともう着られることはないのだろう。それだけは理解できた。
背後のアーシェを気にするように振り返って見れば、小首を傾げられた。グレンの目の前にいるのは、何も知らない純粋な『妹』だ。少なくとも彼はそう思っている。
だからこそ、言わなくてはいけないのだ。
「『兄さま』って呼ばないでくれ。な、アーシェ」
「駄目だ。……駄目なんだよ」
「それに、もう学校にも入学したんだから」
言い含めるように、厳しい口調にならないように。言葉を選んでは、既に対外的には『家族』ではないのだと線を引く。幼い自分が『あの日』言ったことが心に刺さって、頭がくわんと響いた。
(なんでっ!? なんで離れなくちゃいけないの!? 家族なのに!!)
「俺のことは『グレン』って呼んでくれ」
真っ直ぐに、最初に出会ったあの日から惹きつけられて止まない萌葱の瞳を、グレンは見つめた。
すぐに目は伏せられ、逸らされた。
致し方ないだろう。状況を考えるべきだったかもしれないという後悔はグレンの心中に渦巻いていたが、それでもいつか言わなければならないことだったのだ。
だったら早い方がいい。
自分と──たとえ義理とはいえ──兄妹の関係だったとカタリナに知られれば、アーシェが何をされるか分からない。
ミレイが近くについていることが多いとはいえ、それは絶対ではない。それにアーシェの指導を任されているのは基本的にカタリナだと聞いた。
あの冷徹で、人の心を傷つけることに何の躊躇もない女に、大切な『家族』を傷付けられないようにするにはこれしかないのだ。
「──ウェインさま……ごめんなさい」
鐘がとうに鳴り響き、人っ子一人の気配もなくなったキャンパスにアーシェの呟きだけが寂しく落ちる。
祈りにも似た声だった。
グレンは歯噛みした。奥歯をぎゅっと噛み締めて、悔しさを共にすり潰す。
手を引っ張っていて良かったと思った。
顔が見えなくて良かったと思った。
父の影を只管に追い続けているアーシェを見るのが虚しくて、亡くなった父の方にアーシェが縋ろうとするほど弱くてちっぽけな自分が恨めしくて、どうにもならないと分かっているのに心が苦しい。
あやつなぎのように確かに握られた手が、どこか重く感じられた。
***
グレンの言葉はアーシェにとって衝撃的だった。
同時に、ずっと目を逸らし続けていたことと向き合えと、頭を殴られた気がした。
自分にとっての恩人であり、彼にとって父親にあたるウェインを殺したのは、他でもない。アーシェ自身なのだと。
そんな存在がその恩人の子を、『兄』と呼ぶことは許されないのだと。
(分かっていた)
そう、分かっていたはずなのだ。昨日からのグレンの自分に対する態度からも、分かっていたはずなのだ。だのに現実を直視しろと言外に告げられた衝撃は計り知れない。
目的地に着いたらすぐに離れるであろうこの繋がれた手が、そのまま切られることになるのであれば。
(せめて)
せめて傍で守らせて欲しい。自分が殺した恩人の息子である貴方を。気にかけてくれずとも良い。許してもらうつもりなど毛頭ない。
アーシェの進みたい道が、決まった瞬間だった。
「──アーシェ」
「なに」
「なにって……着いたぞ」
呆れたようにグレンが笑った。彼から衝撃を受けて軽く脳内から忘れ去られていた記憶が、ゆっくりと色を取り戻していく。それと同時に、心の底から分からなくなった。侮蔑も嘲笑も憎悪もない笑顔を、どう受け止めれば良いか分かるほどアーシェは感情の動きに敏くはなかった。
木造の三階建て。一階の一番端にある教室。
昇降口から入った二人は自分達の教室へと進んでいく。
「キャンパス、結構広いだろ? 慣れないうちはミレイ先生とか、学級のみんなと一緒の方が良いかもしれない。また迷うことになるぞ」
「うん」
「俺もミレイ先生に言っておくけどさ。きっと分かってくれるから」
そんなことを他の授業中の教室に注意して話していれば、目的の教室なんてすぐに辿り着いてしまう。しかし扉の前で『何か』が違うことに気づくと、二人して顔を曇らせ互いに見合わせた。
教室に通じる扉の反対からは、獣の遠吠えのような甲高く野太い叫びが聞こえる。興奮しているのが察せられるほどにはそれは大きい。
教室の戸の防音性が機能していないことに、アーシェは首を傾げた。
「──グレン」
「……まさか」
隣にいる人物の名を呼べば、彼が唇を真一文字に引き結んでいた。負けず嫌いな彼のことだ。きっと、静かに歯軋りをしていることだろう。アーシェには手に取るように分かった。
「俺が先に入るよ。アーシェ」
そう言ってグレンがノックもせずに扉を引いた。一気に声が膨らんで、喧しさが耳をつんざきそうだった。
最近不調気味。




