013 旧懐
目の錯覚だと、そう思う前に女の視線が下がっているのに気付いてアーシェはカタリナを見上げた。
「腕輪?……ここは学びの場よ、似つかわしくないわ。外しなさい、今すぐに」
「……でも」
残る素材を取ろうと伸びた手を引き戻して、アーシェは言い淀んだ。
腕輪に手をやりながら脳裏に浮かんだのは、養父の叱る厳しい顔ではなくこの腕輪をくれた恩人の柔和な顔だった。
(……これは其方が持っていなさい。絶対に力になってくれる。いつも身につけるように。よいな)
「何度も言わせないでちょうだい。外して、すぐに寄越しなさい」
アーシェが拒否の言葉を紡ぐ前に、カタリナが睨みをきかせてきた。一瞬、腕輪を渡すか渡すまいか逡巡して──アーシェは左腕のベルトを慣れた手つきで外し始める。
アーシェの髪色よりもやや明るい茶色い革のベルトだった。中心部にはベルトの幅と殆ど変わらない大きさの貴石が嵌め込まれている。ホワイトオパールやムーンストーンのように淡く幻想的に何色にも光る石を持つそれは、確かに学校という場所に身につけるにはそぐわないものかもしれなかった。
「……良いわ。──あら?」
アーシェの腕輪をローブの衣嚢へと収めたカタリナの声が少々上擦った。先程まで冷たい表情で少女と向き合っていた女は、革手袋の嵌められた手で衣嚢を弄り腕輪を取り出す。
「気のせい?……いえ、まさか」
「先生」
「何をしているの。さっさと魔力を込めなさい」
意味ありげに呟いた己の呟きをかき消すように、カタリナが本来の仕事であることを急かしてきた。生徒の呼び声は黙殺に等しく、埃で澱む空気へ消えていってしまう。
こんな状態だ、何を言っても無駄だとアーシェは諦めて素材と向き合うことにした。いくら見回せど室内に時計は見当たらない。それでも恐らく、時刻は既にかなり進んでいるはずだ。下手したら授業が始まっている可能性すらある。
アーシェは自分の置かれている境遇を忘れているわけではない。
周囲の子供たちよりもひと月半も遅く入学し、昨日学校に迎えられ、そして気を失って今日の朝を迎えたのだ。
アロイトが聞いたら顔を真っ青にして失神しそうな内容である。
畢竟、何が言いたいかというと。
これ以上、自分の生活が遅れるのは御免被りたいということだ。遅れる要因が自分にあるのならば、アーシェとて甘んじて受け入れるつもりだ。しかし周囲に振り回され、自分を見失って疲弊するのは、それだけは願い下げだった。
『自分のために生きなさい。それがいつか誰かのためになる』
助けてくれたあの日から、恩人が託してくれた言葉もある。
何が自分のためになり何が自分のためにならないのか。
そんなの、九歳の子供だって分かっている。
腹にぐっと力を込めて、怠い腕を再び伸ばす。ごてごてとしたモノクルを身に付けて目の前で素材を見ているカタリナには目もくれず、アーシェは積み上げられた本の塔に置かれた銀盆を引き寄せた。
残る魔晶石とやらは一つだ。たいした大きさではない。
さっき成功したときのように、魔力を込めればいいだけだ。
石を掴んで、握る。右手にあったものを暫くおいたら左手に。
そのときだった。一条の光が左手から、部屋中へ眩く広がったのは。
「きゃあぁぁっ……!!」
アーシェが逃げられないようにと目の前にいたカタリナが、纏っていた外套の袖で目元を覆っていた。モノクルをかけているのだ。目へのダメージは推して知るべし。そんな咄嗟の防御態勢を取っても間に合わなかったのだろう。カタリナの体がぐらりと大きく揺らいだ。
金切り声を上げ頽れた不健康な青白い痩躯は、ぴくりとも動く気配がない。
己が引き起こした事態が飲み込めぬままアーシェは呆然として──次に、聞こえた物音に顔を上げた。
窓の外は穏やかな青空が広がっているのに、何故か室内の窓の金具も、扉の蝶番も軋んでいる。風が吹いているのだ。しかも、草木を遊ぶ程度のものではない。
さながら、暴風である。
机に積み上げられた本の何冊かが、床へと散らばった。重石となっている上の本がなくなった本たちは頁を自由にさせ、天井から吊り下がっている籠や薬草の類は重力の赴くまま落ちるか暴れ回っている。
食い差しを乗せた皿が風の動きに乗れぬまま、落っこちて腐りかけの汁を飛び散らせながら断末魔を上げた。
あまりの惨状に流石のアーシェも「これはまずい」と悟った。同時に自分のせいで起こったことだというのがありありと理解できた。
自分一人ではどうにもできない状態だった。
そのまま腰掛けていた机から滑り降りて、カタリナ──足跡を付けたらきっと五月蝿いだろう。ここでは彼女の羽織る外套も含む。──を踏みつけないように避けて、真っ直ぐ向かった先は扉だった。
「開けて、開けてっ」
風で重くなってびくともしない扉を叩く。強さは比べ物にならないものの未だ風は吹いていて、金具が悲鳴を断続的に上げている。埒が明かない気がして、ちらりとアーシェは自分の背後の方で早々に取り落とした元凶の『素材』を窺った。
それはまだ、白く淡く発光していた。
ベースが白の光だが、まるで虹を封じ込めたかのような色合いの光でもあった。小さな子供の掌に易々と収まるくらいには小さい筈なのに、今は本来の部屋の主人の隣で自分がこの部屋の長だと主張している。
無理だと、早々に見切りを付けた。
あれはアーシェが自分の力でどうこうできるような代物ではない。残念ながら、アーシェは成長して実感として分かるようになっていた。数年前とは違うのだ。
「開けてっ、お願いっ」
がたがたと震える扉の取手を掴んで回す。鍵がかかっているのではないかと何度も思う。その度に中心の凹みにある鍵に目をやるが、横になっている様子はない。
扉を叩いて叩いて──叩きすぎて手が赤く腫れ始めてきた。
ノブに手をかけ、回しながら自分の体重を扉にかける。少しずつ、体を横にしていってかける力を増やしていく。扉と壁の間に、隙間が見え始めた。
バターン!っと大きな物音がして、見えた景色は先ほどミレイと共にいた廊下のそれだった。
素早く、アーシェは駆け出した。
朝だというのに陽光が僅かばかりで薄暗い建物から、弾き出されるように駆けていく。自分の中で何を優先していいかなんて、とっくのとうに分からなくなってしまっていた。
***
グレンは騎士見習いだ。
否、騎士見習いというのを自称するのもおかしな話だが、ドレッドノートの戦技科に入学したのは騎士を目指したからだった。第二騎士団の副騎士長を務めた父のように、貴い身分であらせられる令嬢の護衛である歳の離れた兄のように、いつか国や大切な人々を守りたいというのが彼の幼い頃からの願いだった。
騎士という存在は、今はその定義を曖昧なものに変えていた。大昔であれば幼少期から自分より身分が上の貴族の家に奉公に出て、小姓から従騎士に、従騎士から正騎士へと叙任を受けることになる。それが一般的だった。
今現在は、騎士という職業は養成施設で学問と技術を修めればなれるものに変化していた。
グレンは、そのどちらも経験していた。現在進行形で経験していると言った方がいいだろうか。仔細は省くが、彼が置かれている境遇はその境遇なだけに少々特殊なものとなっていた。
閑話休題。
そのためグレンは騎士になるための技術を磨くことを日々忘れずにいた。毎日剣の稽古も槍の稽古も真面目に行うし、一応の嗜みとして弓矢の扱いも覚えた。これは彼の主になる予定の人物が弓矢を得物と定めているからというのもあるが、それはさておき。
体術も短剣などの懐に忍ばせられる武器の扱い方も、もちろん学んでいる。側近として入学前に叩き込まれた知識技能は、寮で同室の人物以外の面倒を見るのにも役立っていた。
そんなグレンには、入学してから毎日のように楽しみにしている出来事があった。それが、学校に併設された厩の掃除だった。馬術は入学したての新入生が習えるようなものではない。もう少し上の学年になれば漸く習えるものだった。言うまでもなく、騎士にとっては必須技能である。
本来、厩の掃除は馬術の授業を選択した者が行うことだった。
しかしグレンは毎日通って勝手に掃除をするものだから、遂に厩の管理をしている調教師を兼ねた管理人のじいさまが折れたのだ。
お陰で、グレンは毎日心置きなく朝飯を食べてから授業が始まるまで、厩の掃除に勤しんでいる。同室の友人とその保護者と教育係には許可は取った。怖いものはもう何もない。
だから、今日も厩の掃除を終えて水浴びを急いで済ませて、鍛錬も兼ねて走っていた。向かう先は自分の学級の教室が入っている校舎である。鐘が鳴る時刻が近づいているからか、外に出ている人影はまばらだ。
それが余計に心中の焦燥を駆り立たせる。
建物の影が伸びて、そこに差し掛かると体が冷気に包まれたかのようにひんやりと寒く感じる。水浴びをしたせいでもあるだろう。やっぱりまだ朝なのだと、そのときまではグレンも呑気に思っていた。
ふと、何かが気になって彼は足を止めた。
焦燥と呑気が押し合って、勝ったのは呑気の顔を被った好奇心だった。影になっている校舎の外壁に、凭れかかった人影を見た。小さな人影だった。
背後から様子を窺うように、そうっと忍足で近づいていく。
逆光のせいもあるのか、背格好以外はよく分からない。制服が脚に沿ったスラックスではないことから、女生徒であることが分かるくらいだ。
庇で影になった空間にあともう少しで入り込めそうなときだった。
人影がグレンの方を向いた。
「アーシェ……?」
グレンが呟いたのは現在この場にはいないはずの、義妹だった少女の名前だった。




