011 約束
「全く……朝の残り四半刻程度、あいつは大人しくできないのか」
そうぼやいているミレイの足取りは重い。少なくとも昨日や先ほどまでの速度とは違う。隣を歩くアーシェを気遣っているのとはまた違った、ゆっくりとした足運びだった。
「悪いな、アーシェ。朝食の最中だったのに急かすことになって」
「大丈夫です」
素っ気のない返事を返す少女に顔を綻ばせて、ミレイは自身の腰の辺りに見える焦茶頭に手を置いた。そっと優しく置かれた頭への感覚に、ややあってアーシェが目を丸くしてミレイを見上げる。
「アーシェは……喋るのは好きじゃないのか?」
「……苦手、です」
「好きか嫌いかで言ったら?」
「分かりません」
口を尖らせて渋々と言った面持ちでアーシェは答える。
「だって、間違えちゃうから。言うこと、全部」
「言い間違えがなんだ。言葉を徐々に覚えて、成長してるってことなんだぞ? いいじゃないか」
新緑の月とはいえ、朝の風はやはり冷たさが勝る。
陽の光はその眩しさより、優しく照らす方へと性質を傾かせているが、それでも目に入れば痛い。
無意味に色々なものに感受性が強くなるのは、アーシェにとってはあまり良い前兆とは言えなかった。他人の話を聞いていない状態に入りかけているということでもあるからだ。
「アーシェ」
「……何でしょう」
「これから、お前も魔道の勉強を始めることになる」
遠くなっていた気を呼び戻して、何とかミレイに相槌を打つ。そんなアーシェに目もくれず続けるミレイの言葉は、『何か』を見据えている瞳もあって何処か厳しさを孕んでいる。
「だから、いつかは魔法を扱うための詠唱の勉強もしなければならない」
「……覚悟はしてます」
「それは何よりなんだが……」
言葉を詰まらせてミレイが歩みを止めた。そうして、翻ってアーシェに目線を合わせると言い難そうに目線を彷徨わせ、重い口を開く。
「これからお前は、カタリナに魔道を手解きされることになる。残念ながら、私じゃお前に教えられるほど魔道に精通してない」
「あいつも校長や教頭から言われてるから手を抜いたりはしないだろうが、その分お前の弱いところを確実に狙ってくる。きっと、やる。魔道以外にも、お前のそういうところも」
「だから、もしもあいつがまともに教える気がなくて一方的に馬鹿にしてくるだけなら、まず私に報告してくれ」
それが自身にできる精一杯のことだから。そう思うミレイの頭に浮かぶのは昨晩のグレンの様子と、目の前の学生これからが巻き込まれることになるであろう状況だった。最悪の事態は、回避せねばなるまい。ミレイにとて思うところは色々とある。
同時にその程度しかできない自分に、彼女は歯噛みした。
とはいえ、そんなミレイの内情などアーシェが知る由はない。
一気に伝えられたことに目をぱちぱちと呆けたように瞬かせ、一つずつ咀嚼しては頭に叩き込んでいく。
「嫌なことがあったら話せ、ということですか」
「まあ、まとめればそうなる」
「それくらい、大丈夫ですよ。平気です」
「それはどっちの『平気』だ? できるということか? それとも」
大したことない、と続けた言葉を悟られたかのようにミレイが目を眇めた。
柳眉を持つ顔なだけあって、こうして見ると中々に迫力がある。
「私は、お前が心配なんだよ」
裏のない声色だった。だからアーシェもミレイは信頼できると思ったのだ。
溜め息は、言うことをよく分かってもらえないことへの疲れというより、心の底から案じているといった類のものだった。
「ただでさえ入学が遅れて、取り巻く環境だってあまり良いわけじゃない」
「そう、ですか」
「ああ。私も認識が甘かった。漸く、昨日気付かせてもらったよ」
グレンに気付かせてもらった。そして、この二人には何かあることも悟った。
それが、それぞれにとってきっと大きなトラウマとなっていることも。
ならば、それらを刺激しかねない要素はなるべく排除すべきだし、それ以上に彼らには良い学校生活を送って欲しい。学生として、子供として、幸せな学校生活を送らせるのはミレイにとっては義務に等しかった。
それは、彼女の倫理観が破綻していない証左でもあった。
「昨日、校長のところへ行く前に約束しただろう。『カタリナと二人きりにはなるな』と。もう一つ、約束してほしい。カタリナに嫌がらせされたら報告してくれ。いいな」
「はい」
そこまで念押しされては、アーシェに否を申す権利はない。
素直に頷き、ミレイを見上げる。満足そうに、愛おしげに、アーシェに微笑むミレイは姉御肌の教師というより、親しさのより強い『姉』という雰囲気を感じさせた。
「じゃあ行こうか。教職員棟はこっちだ」
二人で歩みを再開したときには、既にキャンパスを歩く人影が疎に見え始めていた。
***
案内された棟は、赤煉瓦造りで蔦が絡んでいる年季の入った建物だった。坂を一旦降りて谷になっている広場にできている寮とは違い、キャンパスの一部に建っている。
「ここが教職員棟だ。教師たちの研究室やら、専用の書庫やら……まあ色々ある。お前も覚えていて損はないぞ。きっと、暫く通うことになるだろうからな」
赤煉瓦に近付くにつれて、ミレイの表情がげんなりとしたものに変わっていく。
「普通はそれぞれの校舎に職員室があるから、呼びつける必要はないんだ。あいつ本当にどういうつもりなんだ? 用件も言わずに」
「こういうことは、よくあるんですか」
「ない。初めてだ」
きっぱりと言い放ったのが、寧ろ不安を煽ってくる。
「──カタリナ・ジュディス・スープレ・イスカリオットに呼ばれて来た。ミレイユ・リュンヌ・スープレ・イディアールだ。連れてこいと言われた新入生もいる。面会の予定は?」
「お聞きしています! どうぞ中へ!」
「ありがとう」
滔々と用件を伝えたミレイに、衛兵は暑苦しく声を張り上げて建物へ入る許可を出す。頭の痛そうなミレイが顔を顰めてぼそりと呟いた。
「……フォスの奴が言ってきたのは本当だったようだな。残念だ」
真っ直ぐに廊下を進んで一番奥の部屋へ向かう。
黴と埃の匂いが鼻腔を掠めて、おどろおどろしい空気を掻き立てる。灰色の綿埃も所々見受けられ、蜘蛛の巣が隅に張られているのが目視できた。
陽の光が眩しい寮や校舎が『表』の世界だとしたら、さながらこの教職員棟は『裏』を煮詰めたような世界である。
「ここがカタリナの部屋だ。番号は覚えなくていい。絶対に私か、信頼できる奴が一緒にいるから」
そんなことを感じながら歩いていると、不意にミレイがとある扉の前で立ち止まって言い聞かせるような口振りでこちらを窺っていた。
そして気を張った面持ちで、扉を睨む。一拍おいて、ガーゴイルを模したドアノッカーに、健康的な色合いを持った肌の細腕が掛けられる。
こんこんこん、とノックを三回。
「カタリナ。ミレイだ。いるか?」
呼び出された側とはいえ、もう少し何か言うことがあるだろうとは思わなくもない簡潔さである。
呼び水となり得たはずの問訊は、そのまま薄暗がりの煉瓦造りの冷ややかな室内に溶けて波紋のように薄れて、消えていく。
後には、響いた妙齢の女性の声が暗い久遠から響いて消えていくだけである。
「……いないな」
「いませんか」
「呼んどいてこれだ。人騒がせな……まあ良い。かえ──」
「お待ちになってっ」
どこか安堵したように「帰ろう」と続けたミレイの言葉を遮るように、扉が大きめの衝撃音と軋む悲鳴を伴って開かれた。
急いでいたのだろうか。昨日と同じ人物とは思えないほど、カタリナは容姿が違っていた。着る物もとりあえずと言った様子で、化粧っ気のない顔は青白さが前面に出ていて正直なところ不気味さの方が目立っている。
緩く巻かれた赤い癖毛は所々が自由に遊んでいて、梳るという最低限の手入れすらされていない。
アーシェの目の前で、庇うように立っているミレイとはえらい違いである。
「……身支度が終わってないのなら出直すが?」
「いえっ、待って! 用があるの。絶対よっ! やってもらうからっ」
剣呑で棘のある声と冷ややかな視線を送るミレイとは裏腹に、息も絶え絶えといった様子でカタリナは主張する。そのいい加減さとよく言えば粘り強い態度に、ミレイは呆れ返ったように溜め息を吐いた。
昨日今日で一番大きく、長い溜め息である。
「もうやめろ。そろそろ始業の鐘が鳴る。急がなくたって時間はあるんだし、放課後になったって別に……」
「いいえやってもらうわよ! やっと好機が巡ってきたんだもの。……それに、その子には早急な魔道の勉強が必要なんでしょう? いいじゃない、多少他の勉強が遅れたって」
「百歩譲って魔道を教える必要があるとして、これ以上学生生活が送れるのは見過ごせないな。カタリナ、お前も担任なんだし──」
「すぐに終わるわ! 大丈夫よ、時間はかからないもの。それに、担任の仕事は貴女でもできるでしょう?」
言い終えるのよりも早く、カタリナの細腕がアーシェの右腕を掴んだ。
ブラウス越しに枯れ枝のような骨張った細い指が食い込んで、穴を開けるのではないかと思うほど幼子の皮膚を歪める。
流石のアーシェも、鈍い痛みと圧迫感に顔を顰めた。
だからだろう。気づいたときには、その軽い身体は安穏の証であるミレイの背から離れて、扉の中に引き摺り込まれていた。あまりに急すぎることに頭の整理が追いつかず、アーシェはミレイを見上げる。
ミレイが青い顔をしているのが見えた。焦りを帯びた目で、アーシェを見ている。
「待てっ──!」
「色々やることがあるもの。子供たちの相手は貴女に任せるわ。できるでしょう? ミレイユ先生」
勝ち誇った笑みを浮かべたカタリナが、ミレイの腕が入り込む隙などないと言わんばかりに素早く扉を閉める。扉に挟まれないようにと手が引っ込められたのもあって、ミレイが入ってくる気配は既になくなっていた。
「さあ、お話ししましょう。魔女様の恩恵があるのでしょう? それに魔力症。色々事情があるみたいねぇ。楽しみだわ」
暗い光を宿した眼は、アーシェの方を向いているのにアーシェじゃない『何か』を映していた。それだけで既にアーシェには、これから待ち受けることが予測もし得ないほど恐ろしいものなのだと分かってしまうのだった。
心細いという感情の表しようを、彼女は漸く理解できたのだった。




