010 呼び出し
「そういえば……ルイ、お前グレンは?」
「グレン、ですか? 先生たちが見える少し前に出て行きましたよ」
「……そうか」
朗らかに調子良く笑っていた笑顔は何処へやら。
突然話の風向きが変わって、真意の読めないルイは目を丸くして紅茶のカップに口付けながらミレイを見つめた。対するミレイは何か考えているのだろうか。ルイの返答に相槌を打ってから、何か思うところがあるように黙りこくってしまった。
「最近厩舎のおじいさんに色々教わってるみたいなので……ご飯食べるとすぐどこかに行っちゃうんですよ」
「そうなのか……それはそれで大丈夫なのか? お前は」
「別に平気ですよ。四六時中一緒にいろだなんて、ゲイルからは言われてはいないでしょうし」
「グレンの見えないところで、お前が何かやらかしたら大変だろうなぁと思ってな。グレンの奴が」
「大丈夫ですよ。というか、そこまでやらかしたりはしませんよっ」
「ははっ。どうだか」
揶揄われてむくれたルイに、ミレイがいつもの調子でけらけらと笑った。そんな、気心の知れた二人のやりとりを尻目に、アーシェはパンを一切れ手に取ってテーブルの真ん中を陣取る瓶を手に取る。
橙色の煌めきはオレンジのマーマレードジャムだったらしい。
パンに塗って口に含めば、程よい酸味と砂糖の甘さが相俟って口の中に『幸せ』を感じる。果物が元となる食べ物は、アーシェにとって数少ない好物と言える食べ物なのだ。
「グレンは騎士になりたいんだっけか。そのまま将来はお前のところに?」
「だと、思います。そのつもりでゲイルやギデオンも教育しているはずですから。……だから多分厩舎の方へ行ってるんだと思います。ここのところずっとですよ。馬好きでもありますし、本人は嬉しそうなのでいいんですけど……」
「おや、面白くないのか?」
「面白くないというより、朝起こされずに寝坊する可能性が高まるのが怖いと思いまして」
「それは仕方ない。というか、そこまで心配ならお前が克服するんだな」
濁すように苦笑するルイに、やれやれとミレイが呆れ返っていた。
アーシェはというと、そのまま変わらず手元を口元へ動かして食事を続けている。色々皿に一口分ずつ取ってみてアーシェが気に入ったのは、真ん中の大皿にあったじゃがいもとベーコンの炒め物だ。しかし、物が物だからか、腹もすぐに膨れる。少食には結構辛い一品だった。
「──アーシェはどうですか?」
「んっ」
突然ルイに話しかけられて、咽せそうになるのを堪える。そのまま少し間を置いている間に咀嚼して飲み込むと、こちらを見ているルイと瞳がかち合う。
不思議な色合いの瞳だった。
遠目に見ればただの金色に見えるのに、至近距離で見ると中心部が空の色のように青い。
青みがかっているのではなく、本当に青いのだ。
「えっと……何が」
「どうですか? この学校は。慣れそう、ですか?」
気遣うような視線だった。他意はない筈だった。
だのに、どこかぴりりとして『何か』がアーシェの勘に引っかかる。
「……良いところ、だと思う。大丈夫」
得体の知れない感覚である分、どこかそわりとして落ち着かない。余計に、目覚めが最悪だったのもあって、彼女の警戒心は徐々に高まりつつあった。
そんなアーシェの状態に気付いているのかいないのか、ルイが目を細めた。無邪気な、天使とも見紛う微笑である。
「それは良かったです。……大変なことがあったらグレンだけじゃなくて、僕にも言ってくださいね。ほら、教室だと席も近いですし」
「お前がちゃんと力になれればの話だけどな。ルイ」
「失礼ですね。ちゃんとできますよ……グレンほどじゃありませんけど」
「言えてるな」
これまでのミレイとルイのやりとりを見ていたアーシェの脳裏に、懐かしい記憶が浮かんだのはその直後だった。
今までに二人が話していた内容と、そのときの記憶が複雑に絡んで一本の線となる。
まだ、アロイトが彼女の養父になるずっと前の話だった。
『そのお屋敷に、俺より少し年下の男の子がいるんだ。アーシェのことを教えたら『今度、連れておいで』だって。父上にも言って許可を頂いたら、いつか会わせてあげるからな』
『兄』がベットで眠る前に、欠伸を噛み殺しながら言ってくれたことだった。
そのときは週ごとの休日以外に、彼が朝早くから夕方まで何処にいるのか気になって聞いた話それだけだったが、今になって歯車が噛み合った。
湧き上がった懐かしい思い出が、ささくれだった心に沁みていく。
先ほどまであった警戒を緩めて、アーシェは改めてルイを見上げた。
浮かんでいるのは、人の好い穏やかな笑みだった。
「ずっと君にも会いたかったんですよ」
「私に……どうして」
「グレンが言っていましたから。自慢の妹だって」
頭が真っ白になった。急に、暗闇から不意を突かれて殴られたような、そんな衝撃だった。
まさか、緩めた傍から心が冷え切ることになるなんて思いもしなかった。
口の中に残っていた旨味が、じゃりじゃりと味気のない砂のような無味になるのが分かる。
「……でも、もう違う」
「えっ」
冷たさが伝播したようなアーシェの声に、ルイが気後れを感じたように体を身じろがせた。呆気に取られたルイにアーシェは気にする風もなく、木製のカップに注がれたスープを啜っている。
「グレンは、きっともうそんなこと思ってない」
「そんな……だって、昨日は」
言葉を探しているルイを一瞥して、アーシェはそのまま目を伏せた。
(分かっているから)
嫌っていることも、拒絶していることも。
(でも、お願いだから。ウェイン様のようにならないで欲しいから)
傍にいられなくてもいい。恩人が最期に贈ってくれた言葉を果たすだけだから。
(私に、守らせて。グレン)
誓いを誰に言うでもなく胸の内に呟いて、アーシェはそのまま確かにその胸に仕舞い込んだ。この学校に入った、ただ一つの理由でもある誓いだった。
「アーシェ……」
「──いた。ミレイ先生」
気にかけるようなミレイの呼びかけを遮るように、突如、三人の輪の中に聞き慣れない声が降って湧いた。
「フォスか。……どうした?」
「カタリナ先生から言伝です。始業前に一度自分の部屋に来て欲しいそうです。そこの新入生を連れて」
「……何だってそんな、急に。用件は?」
「さあ。取り敢えず、ぼくは言いましたから。それじゃ、これで」
無愛想で突っつけどんに言い放った少年は、そのまま本を抱えて羽織った外套を翻して去っていってしまった。
その一瞬、彼と目が合ったような気がしたが、相手は気にした素振りもないまま遠く人混みの方に消えていった。
どうやら、アーシェの思い違いだったらしい。
「……溜め息も出ないな。これは」
「大丈夫ですか? 先生」
「ん? ああ。大丈夫だよ。多分、大したことない。多分」
そう言うミレイが纏う雰囲気は何処か重苦しい。傍若無人なカタリナにさしものミレイも辟易しているのだろう。その秀麗な顔は歪み、「疲れた。嫌だ」と書かれているのが見てとれる。
「……ということで、行くぞアーシェ。できるだけ食事はゆっくり摂れ」
「駄目ですよ先生。それだとフォスが怒られてしまいます」
「なーに。学級活動以外のことで呼び出してるあいつが悪いんだ。あいつが」
これから起こるであろう厄介ごとを見据えて、全てを投げ出したかのように投げやりにミレイがルイへ返す。
「もうこうなったら、全部担任の仕事なんてやってやるから全力で逃げるぞ。アーシェ。分かったな」
真剣味を帯びて光るミレイの瞳を見ながら、アーシェは青菜をぱりぱりと咀嚼する。奇しくも、それはこの朝食を終わらせる、最後の一口だった。




