009 誘い
かさついて、そこだけは厚ぼったく硬くなった皮膚に、緑や紫をドドメ色に落とし込んだような色と色の濃い褐色が混ざっている。触れればざらざらとして、指先が一見しただけでは分からないような細く小さな窪みがいくつもあることを知らせてくる。
人目を避けられる場所があって良かった。
心の底からアーシェは安堵した。今現在の彼女の心の拠り所は、カーテンという仕切りで周囲から区切られるベッドの枠の中になった。
絶するような『悪夢』の所為で昏く凍てついた心には、交わした約束とこの穏やかな空間だけが彼女の心の支えとなった。この先もきっと、穏やかに寄り添う防波堤となるのだろう。
(……あった)
枕元の巾着から取り出したのは真っ新な包帯だった。——否、包帯に見えるように作られた腕輪のような布装飾と形容したほうがいいだろうか。
アーシェは慣れたように左腕に通すと、そのまま肘窩のところまで伸ばして引っ張った。
矯めつ眇めつ確認する。
自分で見ても顔を顰めたくなるほど、えぐい色に爛れた肌は白さに隠れて見えなくなっていた。
「……よし」
ブラウスに、袖を通す。
校章と所属が金具部分に刻まれたループタイを首に通して、昨日下ろしたばかりのジャケットを羽織れば準備は完了だ。太腿を覆うほど長い靴下も、ふわりと裾が広がり動きづらい下衣も既に着用している。
身に付けなければいけないものがこれ以上ないかを頭の中で考えて──思い出した。
反対の枕元に置いていた革製のベルトに手を伸ばす。
本来は寝ているときも身につけなければならないのだが、どことなく動きづらい気がしてアーシェは外すことも多かった。しかし、忘れてはいけないのだ。
これは、恩人から与えられたこの腕輪は大切な彼女の『命綱』なのである。
そんな重大なことは露知らず、アーシェは慣れた手つきで広がった穴に針を通してベルトを締めた。
もう一度、自分に身につけるべきものはないか、忘れていることはないかを確認して、一度深呼吸してみる。同時に、鬼胎を心の奥底へと押し殺した。
「──終わりました」
「ああ」
アーシェ自身を隠してくれていたベッドのカーテンを開けて、そのまま降りる。ミレイは既に支度を済ませていたようで、腕を組んで壁に寄りかかっていた。
その格好は昨日のものよりもややカジュアル寄りなものだった。
彼女の髪色よりもやや暗いタン色のベルボトムが、膨らんだ足首とは対照的に脚をすらりと長く見せている。ゆったりとして、首元に大きく切れ込みが入っているブラウスは鎖骨までをも剥き出しにしている。
防御が昨日よりも薄くなったというのが、アーシェの率直な感想だった。コートも羽織っていない分、余計に心もとなく感じられる。敵襲に遭ったらどうするのだろうか。
そんな少女が脳内で繰り広げる思考のズレを覗いて、常識を教えてられる者はここにはいなかった。
「……本当に髪に結ばなくていいのか?」
「え」
「だから、リボンさ」
壁に凭れたままのミレイが両手の人差し指で、自分の耳の上をこつこつと叩いた。漸くといった様子で、アーシェも気づいたように自身の髪の毛に触れる。
「結べませんし」
「結んでやろうか?」
「……いいです。もう必要ありませんから」
ばっさりと切り捨てるように言うアーシェに、ミレイが悲しげな言葉に詰まったような表情を浮かべた。そんな彼女の様子など露知らず、アーシェは枕元にあった巾着袋を手繰り寄せる。リボンには思う所も色々あるが、そもそも耳元を揺れて掠めてくるため気が散るのだ。しかも、付けてる間は渋い顔で養父が「引っ掛けないようにね」と言い聞かせてくるのが何度も脳裏に浮かぶ。
だから本当に良いのだと、アーシェはそこで思考を切り上げた。中から出したのは、粉薬の包みだった。薬液の小瓶とスポイトも共に転がってきたが、そちらは今は必要ない。小動物を巣穴へ帰すように戻す。
しかし、目的の包みを衣嚢へ忍ばせる前にはたと手が止まった。
(……多い)
昨日の昼と夜の分を飲んでいないためだ。目に見えて分かる程度には包みの量が多い。それは恐らく薬液のほうも同じだ。あちらは夜にだけ飲めば良いため量の変化など微々たるものだが。
毎日飲まなければならないのだと口酸っぱく言われている身として、アーシェは若干の翳りを心中に感じた。しかしだ。ここ数年ものあいだ、これらの薬剤とは付き合いが続いているのである。時には、今ある数より種類や量も多く処方されることもあった。
つまり、比例して飲み忘れた回数も多い。
これまでの薬抜きの失態に比べれば、昨日の分を摂り忘れたなど訳ないことである。そう思いたい。
だからアーシェは、仕方ないと自分に言い聞かせて包みだけを持ってそのままミレイの待っている扉の前まで駆け出して行ってしまった。
今までに幾度となく、薬を飲み忘れたことはあったのだからと。
それが、後に重大な問題を引き起こすことになるなど、このときは彼女も予想だにしていなかったのだ。
***
「基本的に、私たちは寮の食堂で食事をすることになる」
アーシェの隣を歩くミレイの背は真っ直ぐに伸びている。そして、早歩きだ。昨日の置いて行かれるんじゃないかと思うような速さで歩かれているわけではないが、ミレイとアーシェ自身の歩幅を考えると中々に辛いものがある。
「朝もそう。昼は休憩時間に寮に帰って来て昼食を摂ることになるし、夕飯も時間が決まってるからその時間には食べに行かなきゃならん」
「……時間」
「追って教える。暫くはお前と私で行くことになるから安心していいぞ」
不安げに疑問を呟いたアーシェに、ミレイが日輪の如く鮮やかな笑みを浮かべる。
「本科生になると忙しくなるから、無の日には食堂を利用しない奴も多い。就職先で通用させるために料理の技能を上げたい奴が作ってくれることもあるしな。ま、予科生にはまだ関係のない話だ」
階段を降りて、少し先にあった角を曲がる。そうすると、男子寮と女子寮を繋ぐ広々として長い廊下に出た。
「全員が全員、同じような時間に食事を摂ることになる。だから、来る時間は考えろ。一応自分の部屋でも食べられるが、食べ終わった食器を下げに行くのは結構面倒だぞ。早めに席を取ってできるだけこっちで食べるようにした方がいい」
ちょうど廊下全体の距離からいって、中間地点に当たるところだった。木製の観音開きの扉が、ミレイとアーシェの目の前に聳え立っている。
ミレイが扉の取っ手に手をかける。古めかしい金属性のそれは、ミレイの手の何倍もの大きさがある。
「遅くなるとメニューも売り切れ始めて、ありつけなくなるからな」
開かれた先の世界は、眩しく圧倒される世界だった。
ごった返す学生たちに一人分の席などを残して殆どのテーブルは埋まってしまっている。そして何よりも『声』がその賑やかさを物語っていた。戦技科の学生の半分以上は貴族の子弟で構成される訳だが、食事時だからだろうかそれとも教室ではないという解放感があるからだろうか、そこらで上がる明るい声が止まない。
寄せ波と引き波のように強弱をつけながら、室内に遍く広がっている。
今までにあまり経験したことのない感覚に、ミレイに手を引かれながらアーシェは辺りを見回してしまった。そもそもこんなに子供がいることが初めてだ。市場になら、何度か連れて行ってもらったこともあるが、それでも外れの方だった。行き交う人の数はここまで多くなかった。
「こら、何をぼさっとしてるんだ」
ミレイが呆れたような声と共に長方形のトレイを寄越してきた。
「ついて来い、パンとスープを貰いに行こう」
そう言って注文口に並ぶミレイにアーシェも付いていく。よく見れば、テーブルの上には大皿に盛られたおかずが数種類あって、各々が思い思いに好きなものを好きなだけ取り分ける方式のなっているようだった。
なるほど、それはいいと内心アーシェは思う。
食事が食べきれないかもしれないという心配も、食べきれずに残して怒られることもないのだから。
これからの自分を取り巻く自分の食事情が安泰なことにアーシェは安堵の溜め息を漏らした。
そんな彼女がお節介焼きな食堂のおばちゃんたちに世話を焼かれて食べ切れんばかりの量を盛られたり、過保護な元義兄の少年から主に食生活面で世話を焼かれることになったりするのは──恐らく神のみぞ知ると言って良いほどには先の話である。
***
やや流れの悪い列に並びアーシェがスープとパンを手に戻ると、ミレイの言葉通り案の定席は殆どが埋まってしまっていた。
まだ校舎の方に行かなくても余裕がある時間帯だからか、学生たちが離席する気配は感じられない。
「仕方ないな。少し遠くの方へ行こう」
「はい」
個人の荷物が置かれて狭まっている廊下を、何とかつんのめらないように進んで行く。すると、一気に人が集まるテーブルが少なくなったのが目に見えて分かった。座る人影がまばらなせいで、本当に同じ食堂の中なのかと錯覚してしまいそうになる。
流れる雰囲気はこちらの方が緩やかだ。おまけに喧騒が遠くに聞こえる。落ち着かずに、密かにそわそわしていたアーシェにとっては、こちらの空間の方が好ましかった。
これからはできるだけこちらに席を取ろうと彼女は固く決意した。
「あ」
そんな決意に促されて、ふと顔を上げると少年と目があった。
どこかで見たことがある顔だ。ふわふわとした癖の強い猫っ毛の金髪に、柔和で穏やかな顔つきの少年だ。恐らく、少年だ。
制服が男物だから少女ではない筈である。
彼はアーシェとミレイに気付くと、穏やかに微笑んで口元に手を遣りながら彼女たちに向かって口を動かした。何となく、こちらに来て欲しそうだと感じてアーシェはミレイの服を引っ張る。
「ん? アーシェ」
「先生。あれ」
「──ああ」
指を指して状況を説明してみれば、ミレイは察したように席の方へ進んでくれた。その背を追いかけると、少年はお茶を口にしたまま薄らと笑って手を振ってくれるのが見えた。
どこかで見た顔ではあるが、アーシェにはとんと検討の付かない顔だった。
「ルイじゃないか。どうした、随分早いな。グレンに叩き起こされたのか? それとも、雨でも降るのか?」
「おはようございます、先生。……開口一番それってひどくありませんか? 僕だって朝早く起きますよ。起きられるときは」
「それが珍しいから言ってるんだよ。……アーシェ」
先に席に就いたミレイが、向かいのルイと呼ばれた少年と軽口を叩きながら左隣の椅子を引いた。座面を軽く撫でられれば座れという合図なのが理解できて、アーシェは遠慮なくその席に座ることにした。
「ルイスだ。昨日会っただろう? 同じ学級の奴だ。お前と席も近い……ルイって呼んでやれ、そう呼ばれてる」
「よろしくお願いしますね」
「……よろしく」
差し出された白手袋の嵌められている手を握り返す。和かな笑い方がどこかアロイトに似ていた。軽やかなボーイソプラノが耳に心地よい。
「君のこと、グレンから話は聞いてますよ」
「私も……グレンも、知ってるの」
「ん、ええ……と」
「ふっはは」
困惑して言葉を詰まらせたルイが、取り繕ったように再び笑った。その深められた笑みを見たミレイが堪えられないと言うかのように吹き出す。
眦に涙が浮かんでいるのはきっと気のせいじゃなかった。
「アーシェ。そいつはグレンと同室なんだ。それに、昨日お前が自己紹介したときにグレンの隣にいたよ。席の変更を提案したのもこいつだ」
だから見覚えがあったのかと、アーシェは再び目の前の美少年に目を向けた。確かに、昨日見かけたかもしれない。正直、覚えていないし記憶にもないが。
「良かったな、ルイ。お前と良い友達になれるよ、きっと」
「久しぶりに、面白いものを見させて貰った」と言うミレイの声は、いつになく上機嫌だった。




