王妃様はお強い
なろうに初投稿です。
王妃は本日中に組まれていた王妃教育を終えた未来の義娘をにこやかに応接室に迎え入れて、女官にお茶を用意させる。規模は小さいが、未来の娘とお茶会をするのを王妃は毎回楽しみにしていた。二男二女を産んでもその美しさは消えることなく、何年経っても夫である陛下からの愛を一身に受け、二人は仲の良い夫婦と言われ、多くの人達に慕われている。
「アメリア、今日も疲れたでしょう?私も王妃教育には苦労したわ」
「勿体ないお言葉です」
元侯爵令嬢の王妃は陛下の婚約者に選ばれて以降、目の前で優雅な所作でティーカップを持ち上げる公爵令嬢と同じように長年に渡り、王妃教育を受けて来た。ここ最近は学園にも通っているため、今まで以上に大変な思いをしていることだろう。やりたいことも出来ず、監視の目に囲まれて、一瞬の油断も許されない。少しでも所作が美しくなければ叱咤され、その日の王妃教育が倍に追加される。随分と散々な目に遭ったと遠い目をする王妃の苦労を少し緩和された内容で第二王子の婚約者であるアメリアにも降り掛かっていた。
「……王妃様。実は今日、ご相談が…あります」
「何かしら?何でも言って頂戴」
紅茶を一口飲んでソーサーの上にそれを戻したアメリアは躊躇い、迷いながらも覚悟を決めた顔をしてテーブルを挟んだ先に居る王妃を真っ直ぐに見つめる。強い意志を宿した藤色の瞳に王妃は何事かと嫌な予感が頭を掠めたが、表情にはおくびにも出さずに穏やかな顔で問いかけた。
王族の婚約者、王太子妃、王妃と責任が重くなって行く階段を上って約二十年の間に色々なことがあった。束の間のお茶会で語るには時間が足りないほどに、色々、と。
子が出来てからは国のために働くだけではなく、子供達の教育にも力を入れてきた。自分の王妃教育で苦労した分、王子達の婚約者にも寄り添う時間を作って話を聞いて、少しでも彼女達の気持ちが軽くなるように努力している。今日のお茶会もその一環だった。お腹を痛めて産んだ子供達も心の底から愛しているが、未来の娘のことも同じぐらい大切にしている。
そんな可愛い義娘からの相談。彼女がどれほど悩んで、王妃である自分に相談することを決めたのか、強張った顔からはっきりと読み取れる。次の夜会のドレスを悩んでいる、そんな可愛い相談なら良いのにと思いながら次の言葉を待った。
「………クリス様が、」
「……」
「学園で半年ほど前から、ある男爵令嬢と仲良くしているようなのです。それが、その…、友人と言うには距離が近いように思えて…」
「そう…」
「一度私の方で注意をさせて頂いたのですが、あの、聞く耳を持ってくださらなくて。お父様にも相談したのですが、学生の火遊びぐらい大目に見ろと言われてしまって……」
しどろもどろになりながらも、はっきりと言いたいことを最後まで言い切ったアメリアの肩が微かに震える。周りに迷惑を掛けないように自分で解決しようと頑張っても婚約者のクリスは話を聞いてくれない。実の父には多少の心変わりには目を瞑れとあしらわれた。そこまで追い詰められて、自分の無力さに打ちひしがれながら、やっとの思いで王妃に助けを求めた。
王妃はアメリアからの切実な訴えを聞いて激昂で叫び上げたくなった。
悪阻や陣痛に苦しみながら産んだクリスに、王子の教育を任せていた教師に、その報告を聞いているはずの陛下に、何よりもこんなに苦しんでいるアメリアの状況に気付けなかった自分自身に。
言い訳にはなるが、ここ最近のアメリアの様子がおかしいとは思っていた。普段から主張が強い子ではなかったけど、優しげな菫色の瞳と視線が交わる回数が減り、何かを隠しているようだった。だからお茶会の回数を増やし、会う度に困ったことはないかと尋ねて様子を窺ってきた。そして今日、ようやく事が発覚した……が、こんなことになるのならもっと早く動くべきだったと奥歯を噛み締める。
殿下の心を引き止められず、自分で解決出来ないのかと責められる覚悟を抱えながら俯いているアメリアに心を痛めて王妃はそっと立ち上がった。アメリアにゆっくりと近付き、震えている華奢な肩を引き寄せると胸元まで伸びる栗色の髪がふわりと揺れる。この小さな身体に背負わせてしまった重責に後悔が募った。
「ごめんなさい、アメリア。貴女を辛い目に遭わせたわ」
「王妃、さま……」
「少し時間をくれないかしら?私の方で色々と調べてクリスとも話し合う。その間にアメリア、貴女がどうしたいかも考えておいて」
「え…?」
「この問題が解決した時にクリスと婚約を続けてくれるのか、それとも……」
最後まで言えなかった。
アメリアの訴えだけを聞いて、クリスを一方的に叱ることは王妃としても母としても許されない。しかし、アメリアは幾度となくクリスの裏切りを直接見て、傷付き、耐え切れなくなって王妃に相談を持ち掛けたのは彼女の様子を見ていれば分かる。クリスに愛情も、親愛すらも抱けないと言われてもおかしくはない。
二人の婚約は王家から打診したもの。お願いしているこちら側に不義があるのなら、婚約を白紙に戻したいと言われても反論が出来ない。それでも引き止めたいと思う気持ちが王妃にはあった。五年以上、愚痴も零さずに王妃教育に応じてくれて、数年後には義娘になると信じて、実の子のように可愛がっているアメリアを手放したくなかった。
王妃に相談したことで肩の荷が下りたアメリアは少しホッとした様子でお茶会を後にした。
すぐに王妃は自分に与えられている部屋に移動し、執務が押すことも気にせずに早速、陛下の補佐官を呼び出した。名指しで呼ばれた男は怯えながら王妃の執務室に入り、ビクビクした動きで王妃が執務に使っている机の前に立つ。目の前で己を睨み上げる王妃のワインレッドの瞳は怒気を帯びていて、気の弱い男は悲鳴を上げそうになった。
王妃は陛下に続いてこの国で二番目に強い権限を持つ。ただ、権力を盾に横暴な振る舞いをすることなく、民が国に納める血税を使って贅沢をすることもなく、陛下の後ろで補佐に回り、決して前には出ないために貴族からも平民からも支持を多く集めている。
しかし、陛下と王妃の周りの側近達には王妃には別の顔があることをよく知っていた。
この国では男の立場が強く、女の立場は弱い。爵位を持つ貴族が多くいる中で、当主となった女は一人もいない。それは法で禁止されており、この国の女に対する扱いをはっきりと示していることに王妃は随分と前から嘆いている。それはもう、何十年も前から口煩く陛下や側近達に女の意義を主張して、口論になっていることを補佐官は知っていた。
控えめな女性が多いこの国の中で、王妃は一番気が強い女と言っても過言ではない。
女の出世を認めない国の在り方の話にならなければ、陛下と王妃はとても良い夫妻なのになぁ……と周りの人達が呆れているのを当人達は分かっていない。
「聞きたいことがあるのだけど、良いかしら?」
「な、何なりと!」
「クリスの学園での振る舞いについては定期的に報告を上げさせているわよね」
「はいっ」
「では、その報告書に陛下はもちろん、目を通しているわよね?当然よね?当たり前よ、そうよ。そうだと言いなさい!」
「はひ!?」
「嘘おっしゃい!」
理不尽だと訴えたい。
しかし、両拳を勢いよく机の上に振り落としてドン、と執務室に音を響かせた王妃に文句を付けられるわけがない。胃が痛み出すのを感じながら、補佐官はピリピリした空気から逃げるように王妃の傍に控えている女官に目を向けたが、冷めた目を向けられて、そろりと視線を逸らした。
ここに居るのは王妃を慕う女性達ばかりで、ここに補佐官の味方はいない。
はぁ、と深く息を吐き出した王妃は平静を装うと肩下まである美しい漆黒の髪を片耳に掛ける。そして補佐官に正確な情報を報告するように命令すると男は青白い顔で、震える唇を動かしてどうにか口を開いた。
「クリス様の学園での素行やその他の様子は月に二回、陛下に報告書が上がって来ております。…しかし、陛下は執務を優先し、王太子であるロジャース様の教育は問題ないからと報告書には目を通しておりません」
「それは……クリスが第二王子で、国王にもならないから多少好き勝手をしても良いだろうということかしら?」
「…私には分かりかねます」
次の王になるロジャースは既に結婚もしていて、外交を主な公務としている。今は妻と共に隣国の王族の結婚式に招かれていて、この国にはいない。ロジャースを次期王とするために陛下は彼が幼い頃から力を入れて厳しく育てていたが、クリスとは親子とは思えない距離感があった。愛情がなかったわけではないが、王として、父として、クリスともっと向き合う気持ちが陛下にあればアメリアからあんな相談を受けることはなかったかもしれない。
王妃は陛下の足りない分の愛情をクリスに注ぎ、言葉を尽くしたつもりだった。しかし、母親からの言葉は鬱陶しいとしか思えなかったようで、ある時から顔を合わせることも少なくなった。反抗期なのね…と甘く見積もっていたのが今回、仇となった。
「……陛下と一度話す必要があるわね。時間を調整してくれるかしら?」
「は、はい…」
「では、なるべく早急に。クリスの学園での素行調査の結果を私の方へ回して頂戴。これは国を揺るがす重要案件よ」
「承りました!」
補佐官はクリスの報告書を読まない陛下に王妃がお冠になっているのは理解出来たが、重要案件というほど重い事案なのかは判断が付かなかった。しかし、王妃に時間を作るように言われれば、逆らえるわけもなく、頷く。
陛下の予定はいつだって押しているんだけどな、という心の声は決して口には出さない。
・◇・◇・◇・
陛下の時間がとれたのは、王妃とアメリアのお茶会から二日後のことだった。お茶会の夜から寝室を別にしていたことで、陛下は王妃が自分に対して怒っていることに気が付いていたし、補佐官から急に予定変更を言い渡されていたため、何かあると思って話し合いの場に臨んだ。
陛下の執務室に常に用意されている妻専用のソファには不機嫌な王妃とその様子を窺っている金髪碧眼の陛下がテーブルを挟んで対峙する。完全に人払いをしているわけではないが、執務室にいるのは側近の極わずかで、緊迫する空気に陛下の時間を何とか捻出した補佐官は震える足で陛下の後ろに立っている。王妃の後ろにもこちらを冷たい表情で見つめ返す女官がいるのが、また辛い。
「陛下、お時間を頂きありがとうございます」
「いや、いい。話を早く進めてくれ」
「クリスのことです」
「……クリス?何かあったのか?」
気に障る返答に王妃は表情が崩れ落ちそうになるのを堪えながら、若い頃に王妃教育で身に付けた淑女らしい完璧な微笑みを作る。
取り繕った顔の王妃に陛下は片眉を上げて不愉快だと表情で示したが、直す素振りを見せないために諦めて視線で次の言葉を促す。陛下は王妃の機嫌を損ねた記憶がなく、実の息子のクリスが何かをやらかし、王妃を怒らせたのだと悟った。
「アメリアから相談を受けました。クリスがアメリア以外の女に現を抜かしている、と。陛下には報告書が上がっているはずですが、クリスにその件について話したことはあるのかしら?」
「何故私がそのようなことをする必要がある?それに、クリスの心を引き止められなかったアメリアにも問題があるのではないか」
「……本気でおっしゃっているの?」
「ああ。クリスだってもう子供ではない。己のことは己で責任を取るだろうし、学生時代の多少の火遊びぐらい多めに見てやれ。私達が口を挟むような案件ではない」
「……そう」
陛下の口から出たアメリアに対しての批判、火遊びを許容する口振りに王妃の我慢の糸がプツンと切れた。
爪先が手のひらに食い込むぐらい強く拳を握り締めて勢いよく立ち上がると陛下を憤怒の形相で見下ろす。陛下の後ろで控えていた補佐官が小さく悲鳴を上げるほどに冷酷で、激しい怒りを込めたワインレッドの瞳に陛下は目を見開いた。並みの剣士を凌ぐ威圧を感じながら、陛下は王妃を更に怒らせたことに遅れて気付く。
これほど妻を怒らせたのは何年振りだろうか。出会ってから一番かもしれない。焦った陛下は弁解しようと口を開くが、それをいつもより早口で王妃が遮る。
「陛下のお考えはよく、よぉーく、分かりました!次は陛下と私とアメリアと…公爵も招いて更に詳しい話をしましょう!クリスは暫く謹慎させますわ!では、失礼!!!」
「…っ、」
陛下から制止する言葉が出る前に王妃はさっさと執務室を後にした。
今回の話し合いだけで終わると思っていた真っ青な顔の補佐官は陛下と共に睨み付けられて、また陛下の執務を調整して時間を作るように命じられたのだと認識した。そして、次の話し合いはこの程度では収まらないだろう。王妃の怒りは更に加速し、陛下でも抑えられないほどに膨れ上がっている。そして、どうやらその引き金を引いたのは陛下自身のようだ。
補佐官は思う。時間を整えるのは確かに自分の仕事だが、話し合いに立ち会う義理はない、と。自分に出来るのは無事に話し合いが終わり、仲の良い夫婦に戻れるように精々祈るだけだ。
・◇・◇・◇・
クリスに文句をグチグチと言われたが王妃権限で、クリスには学園を休学させ、見張りも付けて外との関わりを遮断させてロジャースがいないために止まっている執務を任せた。
王妃は陛下に代わってクリスの素行調査に目を通して、アメリアの主張が正しいことがはっきりとした。更に調査を行っていた者は陛下に何度かクリスの不誠実な態度について進言したが、陛下は聞く耳を持たなかったと追加の報告がもたらされ、王妃は酷く嘆いた。
王女二人はまだ手が掛かるから、王妃は執務以外の時間の多くを王女達に使っている。そして、ある程度育った王子に関しては陛下に任せていた。国民達にとっては良き王なのに、子供達にとっては全く良い父親ではなかったらしい。
情報収集が終わり、クリスの処罰、アメリアの将来、陛下の態度、公爵の娘に対する発言、全てを横に並べて王妃は深く悩んだ。その間も淡々と王妃は執務をこなして、陛下が訪ねて来ても追い払い、当然寝室も別にしているために陛下と顔を合わせない日々が続いた。陛下の機嫌が悪くなっていると小耳にも挟んだが、王妃はそれを完全に無視している。
そして、二週間後、その日はやって来た。
王妃が宣言していた通り、“国を揺るがす重要案件”。
「私の呼び掛けに応じて下さって感謝するわ、公爵、アメリア」
「いえ、とんでもございません」
呼び出された心当たりのない公爵は王妃教育のために毎日のように王城に通っている娘が、何か失礼なことをしたのではないかと危惧している。公爵は王城に来る前にアメリアに「心当たりはないか」と訊ねたが娘は口を噤んで首を横に振った。
一方、アメリアには王妃に呼び出された心当たりが実はある。
婚約者であるクリスのことを王妃に相談し、時間が欲しいと乞われ、今後のことを一人で静かに悩んでいた。その間にクリスは王太子のロジャースを補佐するため、という理由で学園を休学した。クリスが男爵令嬢に現を抜かしているのは多くの生徒が見て見ぬ振りをしていたために色々な憶測を呼んだが、真実を知る者はいなかったし、アメリアも沈黙を貫いた。
唯一、件の男爵令嬢だけは「クリス様と仲良くする私に嫉妬して、アメリア様がクリス様を休学に追い込んだんでしょう!?」と突っかかって来た。浮気相手としての自覚、失礼極まりない言い分にどう返そうかと頭を悩ませていると女教師が偶然、通りかかった。そして、男爵令嬢に「挨拶もせずに目上の相手に話し掛けるのはどういうつもりか」「根拠もなく言い掛かりをつけるなんて人として恥ずかしくないのか」と容赦ない言葉を放ち、最終的には三歳児に施す教育から受け直した方が良いと学園長に進言すると男爵令嬢を連れて消えてしまった。
女教師が本当に偶然通りかかったのかと疑問が浮かんだが、気付かない振りをした方が利口だと判断した。
「二人とも座って頂戴」
明るい声で王妃に促された公爵とアメリアは戸惑った。無理もないだろう。
陛下と王妃が肩を並べて横に座り、その反対側にある対のソファにアメリアと公爵が座るのが正しい位置。しかし、アメリア達が着席する前から陛下と王妃は何故か向かい合って座っている。空いている席は陛下の隣と王妃の隣の二か所。そのどちらかを選ばなければならない。
どこに座ればいいのかと目を彷徨わせている二人に王妃はアメリアに隣に座るように促し、公爵に陛下の隣を勧める。臣下が陛下の隣に座るなど、何事だと公爵は王妃の発言を諫めるように「陛下の隣へお座り下さい」と促した。しかし、昔から変わらない美貌を持つ王妃に「今、私と陛下の意見は対立しているの。公爵は陛下と同じ感覚をお持ちのようだから、隣に座って差し上げて」と微笑まれて、戸惑いながらも王妃の言葉通りに陛下の隣に浅く腰を落とした。
公爵もアメリアも居心地の悪さを感じていたが、誰よりも陛下の後ろに控える補佐官が肝を冷やしている。今回、王妃に話し合いの記録を残すように命を受けていたため、この場から逃れる理由を失っていた。自分と同じように控えている女官に任せれば良いのに、と考えているとあることに気付いてしまう。
陛下側には男性陣、王妃側には女性陣が集まっている。偶々このような形になったのか、それとも王妃が意図してこの陣形を組み上げたのか、気の弱い補佐官にそれを問い掛ける勇気は───ない。
女 VS 男 開幕である。
「さて、私が皆を呼び出した理由に見当が付いていると思うのだけど…、公爵、改めて貴方の意見が聞きたいわ」
「わ、私の?」
「あら?アメリアから公爵にも相談したと聞いていたのだけれど。ああ、そうだったわ。貴方は可愛いアメリアの話を碌に聞かずに適当にあしらったから何故ここに居るのか、心当たりが全くないのね」
「……アメリア、から…」
呼び出しの理由が分かっていて当然と言われた公爵は悟られないように一瞬焦りを浮かべた。しかし、それを王妃に簡単に見抜かれ、子の話を真面目に聞かない最低な親だと烙印を押される。話し合いが始まったばかりだというのに、最初から攻撃的な王妃の様子に裏の顔が剥き出しになっていることを察知した。公爵も王妃が実は気の強い女性だと知っている一人である。
己の正面で、やや視線を落とすアメリアに目を向け、娘と交わした会話を思い出す。
「……クリス様のことでしょうか」
「ええ、そう。我が息子がアメリア以外の令嬢にふらふらとしているという最低な話よ」
「確かにアメリアからそのような話を聞きましたが、男には多少他に目を向けたくなる時期があるといいますか……、クリス様の婚約者はアメリアですし、最終的には戻って来られるのですから少しぐらい大目に見ても良いのでは……と」
女性の王妃には分からないだろうと遠回しに言われて、血管が切れそうになる。二週間と二日前から溜まっている怒りは発散されることも、落ち着くこともなく、自分の若い日の苦労にアメリアの心情を重ねてますます苛立ちが募っていた。
王家の都合により選ばれた貴族の娘。目を付けられることがなければ、王妃教育に五年間も費やすことはなかった。王妃教育は出来て当たり前が前提で、おかしくなりそうなほどの知識を頭に詰め込んでも、礼儀作法を完璧にしても、誰も褒めてはくれない。
それでも、王家に名を連ねることへの誇りと生涯を共にする相手への想いで乗り切る。王妃は少なくともその二つがあったから、何度も逃げ出したいと思案し、義母には婚約者を辞退したいとお茶会の度に愚痴を零しながらも王妃という座に就いた。
しかし、アメリアはどうだろう。
彼女をクリスの婚約者に選んだ一人に王妃は含まれるが、アメリアは控えめな性格で、第二王子の妃への座に執着もなく、権力を欲してはいない。
ロジャースは陛下が力を入れていたこともあって昔から優秀で、クリスが国王陛下となる可能性は限りなく低かった。だからアメリアの王妃教育はもっと緩和すべきだと訴えたけど、ロジャースにもしものことがある可能性を考えるのが当然だと国の上層部が訴え、王妃が望んだよりも遥かに厳しい王妃教育が与えられた。
アメリアから王妃教育やクリスに対する愚痴は沢山聞くつもりでお茶会を度々開いていたが、彼女は王妃に頼るのは烏滸がましいと思っているし、心の声を零すことはほとんどなかった。アメリアが重ねてきた努力がどれほど大変で辛いものなのか、誰よりも分かっているのは同じ時間を経験している者だけだ。
そして、学園で盛大に行われているクリスの裏切り行為。
昔の若き自分が王妃教育を乗り越えられた二つの理由すら、アメリアの中に残っていない。一体何のために厳しい王妃教育を受けているのだと馬鹿らしくもなるだろう。王妃教育に費やした長い時間は二度と戻ってはこないのだから。
健気で、一生懸命なアメリアに対してクリスが行った行為は許されるものでは、断じてない。そして、そんなことも分からない男達もまた、断罪の対象である。
「男が婚約者以外の女と仲良くするのが許されるのなら、女のアメリアがクリス以外の男と仲良くしても当然許されるわよね」
王妃の反論に目を丸くしたのは公爵だけではなく、アメリアもぎょっとして隣の王妃を見つめた。自分がクリスと同じように、婚約者以外と仲良くしたいと思ったことは一度もないし、そんな話を王妃にした覚えもない。
「なっ!そんなはしたないことを容認出来るわけがない!」
「それは女性を差別する発言よ、公爵。どうして男は許されて、女は許されないの?説明して頂戴」
「そ、それは…………、王家に嫁ぐ者は純潔でなければならないと決まっております」
「確かにそうね」
王妃があっさりと認めたことに公爵は前のめりになっていた身体を元に戻したが、背中に流れる汗は止まらない。国一の気の強い女がこの程度の反論で終わるだろうか。否、終わるわけがない。
「では、その法を変えましょう」
「何をっ!?」
「女性側だけにそれを求めるのは不平等ではないの?男が婚約者以外の女と肌を重ねても法に触れないのは何故かしら?どうして女だけが法に縛られなければならないの?」
「……どこの誰かも分からない男の子供を宿すと大きな問題になります」
「男だってそうでしょう?他の女に自分の子が出来る可能性は十分あるわ。それとも相手が平民だろうと、完璧とは言えない礼儀作法を身に付けた貴族女性だろうと、王族の子を宿したら側妃として迎え入れろと言うの?そんなことをすれば国が荒れるわ」
「そこは相手を選ぶでしょう」
「では、女性も相手を選べば好きにして良いということね」
「ですから……!」
言葉が詰まって思うように声に出せない。何を訴えても王妃は女性差別だと訴え、話は平行線のまま終わらないだろう。王妃の一存で法は変えられないし、現状では法改正など厳しいと分かっているのに己の考えが間違っているのではないかと疑いさえ持ってしまっている。
「…公爵、そして陛下。二人がクリスの火遊びを許すと言うなら、アメリアが同じ行動を取ってもおかしくないと自覚して頂けたかしら?」
「……」
「それと……ああ、アメリアがクリスの心を引き止められなかった、でしたね。では、陛下、お聞きしますが、アメリアがどうしてクリスの心を引き止めなければならないのでしょう?」
「愛している相手の心を離さないのは当然だろう」
「あら、最初の前提で間違っているのね。アメリアが何故、クリスを愛していると思っているの?王族だから?陛下に似て容姿が良いから?」
「……」
「この婚約は王家から打診して受け入れて貰ったもの。アメリアがクリスを愛しているなんて、誰が言ったの?王族の婚約者に選ばれなければもっと自由だったかもしれないのに長年、厳しく辛い逃げ出したくなるような王妃教育を受けているアメリアにこれ以上何を望むの?王家の人間なら国の頂点に立つ責任は受け入れて当然だけど、彼女はクリスの婚約者に選ばれてしまったから、その責任を背負わなければならなくなったのよ」
「……ああ」
「もう一度聞くわ。貴方達は、アメリアにこれ以上何を望むの?」
王妃の熱の入った言葉が止まるとシン、と応接室の中は静まり返った。男達に言いたいことの八割を伝え終えた王妃は目の前に座る陛下と公爵を交互に見つめてワインレッドの瞳で強く訴える。
アメリアに責を背負わせた側の王妃が言うのは間違っている。その自覚はあった。本来なら辛い思いをしているアメリアを擁護する立場にいる公爵から「クリスに大事な娘を預けられない!」と叱咤されてもおかしくなかったのに、公爵は王家側の意見を持つ人だった。それならば、同じ女性で、同じ経験を積んだ自分が味方になろうと思った。何よりも未来の娘が頼ってくれたことが嬉しくて、実の息子の不甲斐なさが頭にきた。
アメリアは今にも零れ落ちそうな涙をグッと我慢する。
王家から第二王子の婚約者に打診された時、父には断って欲しいとお願いした。自分ではその荷は重過ぎるし、王子の婚約者など務められる自信がない、と。それでも父は王家との繋がりを欲して娘にその役目を押し付けた。
公爵家でも家庭教師が付き、令嬢として恥ずかしくないように学んできたが、王妃教育の厳しさは予想を遥かに上回るほどの辛さだった。何度も婚約破棄したいと思ったし、王城に行くのを躊躇した。どれほど頑張っても、教育係は悪い所を指摘するばかり、父は口癖のように「失礼のないように」とアメリアに言うだけ。
五年前にクリスの婚約者として引き合わされた時は、クリスはアメリアに対して優しかったし、甘い言葉だって掛けてくれた。これからよろしく、と笑ってくれた。だからまだ、頑張れる理由があったのに。
それも気付けば泡となって消え、クリスの瞳がアメリアに向けられなくなった。
父に相談しても目を瞑れと言われ、母は耐えなさいと抱き締めるだけ。苦しくて、辛くて、逃げ出したくて、そんな時にやっと王妃に胸の内を明かした。王妃はいつだって優しくて、気遣ってくれたけどクリスの母親で、咎められるのではないかと怖かった。
しかし、王妃はたった一人だけアメリアに心を寄せて真摯に向き合ってくれた。こうやって時間を作り、父にも訴えてくれた。その気持ちが、行動が、心に沁みて嬉しくて仕方ない。
アメリアが必死に涙を隣で堪えている姿をちらりと見て、これで少しは報われると良いと目尻を和らげていると陛下の口から王妃の名前が静かに紡がれる。真剣な碧い瞳に王妃とアメリアを批判する様子はない。ただ、受け入れがたい事実に今やっと気が付いた、そんな顔をしていた。
「お前も、昔、王妃教育から逃げ出したくなっていたのか?」
「…ええ、そうです、陛下。義母様に何度も貴方の婚約者を辞めたいと愚痴を零したわ」
「王族の責任を背負いたくなかったか」
「私には荷が重いと思っていたの」
気付くかもしれないと思っていた。気付いて欲しいと思っていた。
アメリアと昔の経験を重ねて、自分が王妃教育を受け入れていた時に何のフォローもしなかった夫に二十年の時を経て、意趣返しをしていることに。
貴方の妻になりたくなかったと暗に言われた陛下は自然と視線を下げて、過去を振り返った。目の前の愛する妻が婚約者であった時、己はどのような態度を取っていたのか。クリスのように婚約者を放って他の女に現を抜かすようなことはしなかったが、自分のために、または自分の所為で辛い王妃教育を受けている相手に対して感謝の気持ちを伝えた覚えはなかった。
一目惚れしたとただ付き纏い、権力を盾に婚約者になれと脅しのように乞い、強引に妻の座に押し込んだ。隙あらばずっと隣に居て、こちらの感情だけで彼女を振り回して気遣いさえ出来ていなかった。
陛下は二週間前、王妃に「クリスの心を引き止められなかったアメリアにも問題がある」と言ったが、自分が愛する相手の心を引き止めるために使ったのは、王家の絶対的な命令。追い掛ける側の己とアメリアとでは立場が違うことを心の傷と共に教えられ、過去の発言を大いに悔やんだ。
「陛下、私は王妃教育がどんなに辛くても乗り切り、貴方の妻となった。それが何故だか、分かる?」
「……いや」
「貴方が私だけを愛してくれたからよ。陛下のことが好きでもなかったらずっと昔に音を上げているし、四人もの大切な宝物は授からなかったわ」
「愛して、いるのか」
「ええ、もちろん」
陛下のように過激な愛ではなくても構わない。ただ寄り添い、支え合える関係になることが出来たなら王妃教育から逃げ出したいと思っても自分を引き止められる。しかし、クリスは一方的に、感謝の一つもなく、婚約者の責任だけをアメリアに押し付けようとした。
愛も感謝も褒め言葉もない。重い責任だけが残る席に一体誰が座りたいと言うのか。
「陛下、そして公爵。二人にそれぞれお願いがあるの」
ここまで説教され、自分の態度がどれほど愛する相手を傷付けていたのかを自覚した二人に王妃のお願いを断る権利はない。何を言われるのかと身構える二人に王妃は怒りを鎮めた穏やかな笑みを向ける。
女性の立場を強くするのも、法を変更するのも、難しいことは王妃が一番良く分かっている。それでも近くで理不尽な理由で心を痛めている人がいるのなら手を差し伸べたい。その輪が広がって、いつか男女平等な国になるように王妃はこれから先も尽力していくつもりである。
たとえ陛下が、女性の地位向上に努める王妃と自分が一緒に過ごす時間が少なくなるのではないかと危惧してその活動を私欲のために阻止しようとして喧嘩になっても。
たとえ陛下が、早急に優秀な王太子を育てて王を退き、王妃を永遠に独り占めしようとしていても。
「陛下にはクリスと話をして頂きたいの。王として、父として、婚約者の大切さと他の女に余所見をすることがどれほど罪深いことなのか、教えてあげて。クリスは陛下に期待されたいと思っているし、父親に構って欲しい子供なのよ」
「分かった」
「公爵はアメリアの話に耳を傾けるようにして。叱るだけではなく、褒めて、認めてあげて。貴方は爵位を持つ貴族でありながら、彼女の父親でもあるのよ。反省して欲しいわ」
「…はい、申し訳ございません」
二人の返事を聞いた王妃がすっきりとした顔をしている。その様子に気の弱い補佐官は記録を取り終えて、ホッと胸を撫で下ろした。これでまた、平穏な日々が戻って来る。二週間と二日の間、陛下は王妃に会えないことでどんどん不機嫌になっていくし、王妃とは目が合うだけで何故か睨まれる胃の痛い地獄の時間だった。
もう二度とこんな事案が起こらないように願いたいと基本的には仲の良い夫妻を見てふと思い出す。
王妃が言っていた“国を揺るがす重要案件”とは一体何だったんだろう。
「良かったわ、二人が分かってくれて。もし、納得してくれなかったら、陛下とは離縁してアメリアと王女二人を連れて国外にでも行こうかと思っていたから」
「───!!!」
とても素敵な笑顔の王妃が言った大胆発言に絶句したのは、陛下だけではない。公爵も、名前が挙がっていたアメリアも、控えていた女官も補佐官も大きく目を見開いて、にこやかに笑っている王妃を凝視する。
離縁の危機が迫っていたことに陛下の心臓は激しく動き、娘が知らぬうちに奪い取られる可能性があったことに公爵は冷や汗を流し、何の相談もなく国から連れ出される予定だったことを聞かされたアメリアは驚きで感動が吹き飛んだ。
周りの反応を正面から受け止める王妃に唖然としながら、最後の言葉だけは記録に残せないと気の弱かった補佐官は勇気を持って王妃の命に背くことを決めた。記録に残せば、陛下に物理的に首を切られる可能性さえあるのだから。
その後、クリスは陛下から話と説教を受け、いかに自分が最低なことをアメリアにしていたのか、理解した。本気ではなかったと陛下に弁解していたようだが、王妃は疑っているし、国から追い出す選択肢も残している。
クリスは男爵令嬢の関係を清算し、アメリアともう一度向き合うことを決め、手紙や花を贈り、態度を見直した。一度離れた気持ちを取り戻すことが出来るのかはクリスの力量に掛かっている。
アメリアは王妃の懇願もあり、クリスが不誠実な態度を取っていた半年間だけ婚約者に猶予を与えることにした。もし、アメリアが婚約破棄を選んでも新しい婚約者の推薦や王妃教育を活かせる王太子妃の補佐官の座を約束した。
これでようやく、事が片付いたように思えたが、王妃への愛を陛下が更に募らせて、しつこく付き纏い、王妃に張り倒されるという事件が起こるのがそれから三日後のことである。
最後までお読みいただきありがとうございました!
※裏設定※
ロジャースは陛下に似て愛妻家です。クリスの婚約者が決まった時に陛下から婚約者に対する心得を聞く予定でしたが、陛下が忘れたためにアメリアが犠牲者になりました。クリスもある意味、被害者なので陛下が一番悪者かもしれません。