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天国のプール

作者: 神戸将生

   日比野


 「テンプって知ってる?」瀬戸勇也は、本来とは反対の座り方で椅子の背もたれに両腕を重ねるようにつき、僕に向かい合うように座った状態で聞いてきた。「天国のプールを略してテンプって言うらしいんやけど」指で天国という文字を僕の机に書きながら、瀬戸は説明してきた。

「知らんなぁ。何なん?それ」天国のプール、と聞いて僕はどこかの美術館で見た、神聖な池のような場所で、貝殻の上に裸の女の人が立っている絵画をなぜか思い出していた。

「テルも聞いたことないかあ。なんかさ、この辺の川のな、ずっとずっと上流いったとこにあるらしいねん、テンプ。めっちゃ神聖なとこでな、名前の通りプールみたいなんがあって、そこに浸かりながらお願い事念じたら、何でも願い叶うねんて。でもそのプール、天国やから、長いことおったらこっち側に帰って来られんくなるらしい」

「なんやねんそれ。そんな場所あるわけないやん」

「いや、そら信じてるわけちゃうけど、なんか行ってみたくない?テンプ」

 言葉の響きを気に入っているのか、そのあと「テンプ・・」ともう一度小さくつぶやいてから瀬戸は、僕の「うん」という返事を待つように、こちらに目を向けた。

「都市伝説みたいなもんやろ。願い事叶うとか、古いわ」

「冷めとんなあ」

 「古い」と言ってはみたが、毎日学校に行き、授業という名の睡眠時間を過ごし、サッカー部の練習に行く、というプログラミングされたような日々の繰り返しは、充実してるといえば綺麗に聞こえるが、そんな毎日に少なからずうんざりしていた僕は、天国のプールに浸かっている自分を想像していた。

「そんなん言うて行きたい気持ちにもうなってるんやろ?」中学から学校も部活も同じだった瀬戸は、全て分かっていますよ、と言うような表情でそう言うと、「テンプ探し」の日程とメンバーを勝手に決め始めた。


 部活を終えて家に帰ってから、母親に今日の昼休みに瀬戸が言っていたことを話した。

「なにそれ?いいじゃない、テンプ。お母さんが高校生のときも、そういう噂話みたいなのがたくさんあって、よく友達と確かめにいってたなあ。携帯とかなかった時代だから、そういう遊びが流行ってたのよきっと。今の時代でもまだあるのね、そういうの」

 十五年以上も主婦業をこなしている母親は、といっても専業主婦ではなく、最寄駅の東口を出たところにあるカフェでパートとして働いてはいるが、今日の晩御飯に使うのだろう、人参やじゃがいもといった野菜たちを手際よく、包丁で切りながら言った。「見つけたら写真送ってきてね、テンプ」母親も昼の瀬戸と同じように、「テンプ」という言葉が気に入ったのか、わざとらしくその名前を使って言ってきた。

「願い事叶うってどう思う?」

「そんな場所あるならお母さんも行きたいわ」

「何を願うん?」

「親の願い事を聞いてどうするのよ」

 僕はそんなことあるはずないと思っていながら、「願い事が叶う場所がある」ということを信じたかったのか、母親にバカな質問をしてしまった、と聞いてから恥ずかしくなった。でも、聞いた相手が瀬戸じゃなくてよかった、とも思った。彼なら「お前叶えたい願い事あんのか?女か?なんや言うてみ。教えろや!」と三日は解放してくれないだろう。


   


   紺野


 目の前を、ごうごうと音を立てながら通り過ぎてゆく新快速列車をみながら、紺野由美は今なら自殺をする人の気持ちがわかる気がした。

 二年勤めた会社を、人間関係の疲れから退職し、とりあえずアルバイトをしながら、これから心機一転がんばるぞ、と思っていた矢先、まだ二十五という歳ではあるが真剣に結婚を考えていた彼氏に、四年という交際年月など存在しなかったかのようにあっさりと別れを告げられ、なにもかも失ったような気分だったからである。さらに今日は一日中雨で、神様が紺野の人生で起きる悪いことを全て引っ張り出して、この一日に持ってきたんじゃないかと思ってしまうくらいだった。

 ただ、あまりにもあっさりとした振られ方だったため、まだ涙は出ていない。あとからたくさん泣くんだろうな、と思い、自殺するなら家に帰って大号泣したあとにしよう、とする気もない自殺の予定を考えながら次に来る快速電車を紺野は待っていた。


 大阪の本町にある小さなアパートにひとりで住んでいる紺野は、誰もいないアパートに帰ると本当に自殺してしまうんじゃないかと自分で自分が怖くなり、高校生には珍しいであろう、一人暮らしをしながら神戸の私立高校に通っている妹の家に泊まらせてもらうことにした。


「振られたんでしょ」

「うん、そう。よく分かったね」

「お姉ちゃんが私の家にくるときは、サッカーの日本代表の大事な試合があるときか、振られたとき」

「振られてきたのは初めてなんですけど」

「ふーん」

 妹の、全く慰めようとしない態度が気に入らなかったが、まったくひとりのときよりも心が軽かったので、美沙の家に帰ってきてよかった、と思った。

「まあ今日は夜ご飯作ってあげるからさ、ゆっくり休みなよ」

 心が弱っているときは、こんな言葉だけで、妹が神様のようなありがたい人物にも思えてくる。

 気を紛らわせるために美沙の大学の話をききながら、その日の夜は過ごした。

「最近好きな人ができた」とか、「新しいホルンが欲しい」とか、紺野からすれば、なんでもないことではあるが、それが失恋でボロボロになった心を癒したし、なにより単純に高校生の話は懐かしい感じがして嫌いではなかった。

 紺野由美の妹、美沙は中学で吹奏楽部に入部し、ホルン、という貝がぐるぐる巻きになったような楽器を吹いていた。才能があったのか、その後メキメキと上達し、ブラスバンドで有名な神戸の私立高校に推薦をもらって、受験もしないでそのまま滑るように入学をした。

「お姉ちゃんそういえばさ、テンプって知ってる?最近学校で噂になってるんだけど」 

 妹の話を、半分聞いているようで聞いていなかった紺野はすぐに反応することはできなかったが、「テンプ」という言葉が頭のどこかにひっかかった。

「あぁ、私知ってる。去年の夏に会社の同期の子に連れて行ってもらったから。どっかの川のかなり上流のほうでしょ?」

「え!お姉ちゃん行ったの?」

「テンプに行くぞ、ってみんな言ってたから、多分そこだとおもうんだけど」

「何願ったの?」

「どういうこと?」

「だってテンプは願い事が叶う場所でしょ?」

「なにそれ」

「そうだって瀬戸が言ってたもん」

「じゃあ私が行ったところとは全然違うと思うよ。そこ」

「テンプなんて名前の場所、ふたつもないでしょー」

「じゃあテンプじゃなかったかも、名前」

 紺野は、たしか自然の中にある遊べる湖みたいな場所だから、「天然プール」と呼ばれていて、略して「テンプ」だったんじゃないかな、と去年の夏に異様に張り切って、同期たちをいろんな場所に連れて行っていた戸田という男が話していたことを思い出していた。

 ただ、美沙と話が食い違っているのか、彼女がわけのわからないことを言っているだけなのか、どっちにしろ相手にするのが面倒くさくなってきたため、それ以上テンプについては触れずに、紺野は曖昧に会話を終わらせた。妹も、そこまで興味はなかったのか、別の話を始めた。


 いつ眠りに落ちたのかは全く覚えていないが、次の日は意外にもすっきりと目覚めることができた。今日は日曜日だが、妹は朝から部活の練習のため、紺野が起きた頃にはもういなかった。代わりに、皿に乗ったベーコンと目玉焼きがラップで覆われ、机の上にあった。横にはメモがあり、「サニーサイドエッグ いつもそばに太陽を」と書いてあった。

 「サニーサイドエッグ いつもそばに太陽を」紺野はそれを意識せずに読み上げていた。よくわからなかったが、昨日のことに対しての妹なりのふざけた慰めなのだろうか。とりあえず、いただくことにした。少し、塩辛かった。


   


   日比野


 久々の部活のオフだったが、雨が降っていたので僕は家でだらだらと何をするわけでもなく過ごしていた。

「せっかくサッカーお休みなのに、家で過ごすなんてもったいないね」

「こんだけ雨降ってたら家おるしかないやん」

 7月も中旬を過ぎたあたりだというのに、まだ梅雨は明けない。じめじめするし、暑いし、雨は降るし、梅雨は嫌いだ。父親も、暇そうにしながら先週新しく買ってきたスピーカーに携帯を繋いで、ビリージョエルのピアノマンを聴いていた。その曲が

父のお気に入りだということはこの家の中なら誰もが知っている。

「そのスピーカー、音いいな」日比野は楽器こそ弾かないが、音楽が好きだったので、綺麗な音を流すイヤフォンだとかスピーカーが好きだった。

「スピーカーもそやけどな、ビリーの声がええねん」

「ビリージョエルの他の曲聴いてるとこ見たことないけどな」

「聴いたことはある。ただな、ピアノマンに全てがつまっとんねん。この曲には、愛も、教養も、人生も、すべてが詰まってる。ピアノマン好きに悪い奴はおらん。いや、いい奴しかおらん。この曲はな、」何度聞かされたかわからない、父親の「ピアノマン説教」が始まるところだったので、「おかん昼飯まだ?」と無理やり話をそらした。すると、「たしかに腹減ったな」と父親も意外にすんなりビリージョエルの話から引いた。


 さすがにオフの日を家の中で無駄にするわけにはいかないので、僕は美容院に来ていた。ただでさえ梅雨が鬱陶しいので、せめて鬱陶しい髪の毛だけでもどうにかしてやろうと思ったのだ。

 かなり雨が降っていたので、僕ともうひとりの男の人しか客はいなかった。中学生のときから来ている美容院なので、いつも対応してくれる美容師の相沢さんとは仲が良かった。仲がいいと言っても、こうして散髪をするときに話す程度だが。

「テルくん、髪の毛伸びるの早いねえ」

「ほんまにそうですよね。ひと月に一回は来てますもんね」

「仲間がおったで、一ノ瀬さん」

 相沢さんがもう一人の若い男性客のほうに顔を向けて言った。僕は、「あの人、一ノ瀬っていうんや。爽やかな名前やな」などと思っていた。

「なんですか?」

「いや、この子テルくんいうんやけどな、髪の毛伸びるんめっちゃ早いんよ。やから一ノ瀬さんと同じやな言うてん」

「あの人、三週間に一回はうちに来てくれるで。ええお客さんやね」と向き直りながら言うと、相沢さんは再び僕の髪の毛を切り始めた。

「僕は伸びるのが早いだけじゃないですよ。量もすごいスピードで増えますから」と笑いながら一ノ瀬という男は言っていた。

「お父さんは元気?最近来てないけど」

「いつもと変わりませんよ。今日もビリーの話してました。他の曲全然知らんくせに」

「ピアノマンの話ね、私は好きやけどね」

 父も数ヶ月前までは日比野と同じ美容院に来ていたが、会社の近くにオーナーが知り合いの美容院ができてから、ふたつの美容院を行ったり来たりしていた。


   


   一ノ瀬


 仕事が休みだった一ノ瀬和也は、友人からの誘いもなかったし、ひとりでゆっくりしたい気分だったので、家から歩いて15分くらいの駅前のカフェのお気に入りの席で、本を読んでいた。この席は、窓からの陽の光の入り方が特にお気に入りだった。本の内容は、大学生五人組が、学生生活でいろいろな事件に巻き込まれながらも、それぞれが少しずつ成長していく青春物語で、話のアップダウンはそこまでなく、落ち着いた調子で話が進んでいくタイプの小説だったが、一ノ瀬はそういう類のストーリーが好きだった。

 頼んでいたアイスコーヒーを、女性の店員さんが持ってきてくれたのだが、一ノ瀬の手が当たったのか、店員さんが手を滑らせたのかわからなかったが、グラスがテーブルの上に倒れてしまい、アイスコーヒーがこぼれてしまった。一ノ瀬はテーブルの上にリュックを置いていたので、コーヒーがリュックに少し浸みてしまったが、そこまで気にしなかった。強いて言うなら、リュックにつけていた、好きな映画に出てくるカウボーイのぬいぐるみが、コーヒー色になってしまったのを見て、少し気の毒だな、と思ったくらいだった。

「ごめんなさい!すぐ布巾持ってきます!」

「全然大丈夫ですよ。お姉さんはコーヒーかかってないですか?」

「私は大丈夫です、すみません。あの、リュック」

 一ノ瀬のリュックは防水仕様だったし、本当に気にしていなかったので、カウボーイのことを言っているんだと思い、「あ、こいつですか?コーヒー色になっちゃいましたね。洗濯してあげないと」と言うと、店員さんはリュックのことを心配していたらしく、「あ、本当だ。すみません、キーホルダーも」と、新しい自分の過失に気づいたように、再び頭を下げた。


 大量の布巾を持ってきて、テーブルを拭く女性店員さんが、「私も好きです、その映画。最初のやつがなんだかんだで一番良くないですか?」と柔らかく微笑みながら、急に一ノ瀬の方を向いて言ってきたものだから、一ノ瀬は一瞬ドキッとして、新しく持ってきてもらったアイスコーヒーを口からこぼしそうになったので、上を向いて飲み込んでから答えた。

「わかります。結局どの映画も、一が一番いいんですよ。二も三もいいけど、やっぱり最初の感動と、懐かしさには勝てないんですよね。たとえ一より良くても、意地はって一が一番いいって言っちゃいそうです」

 彼女は「ふふ、おもしろい」と小さく笑いながら、

「ウッディも意地っ張りですもんね」と冗談交じりに言ってきた。もちろんトイストーリーは好きだったが、このぬいぐるみは大学時代の友達が東京旅行のお土産にくれたもので、使わずに家に置いておくのは悪いと思ったからつけていたくらいで、そこまで熱狂的なファンではなかったから、「やめてくださいよ」と笑って返した。


 ちょうど読んでいた本を終えるころに、そのウッディをくれた友人の川島あきらから電話がかかってきた。

「おー和也。元気?」

「元気よ。どしたん?」

「いや、そろそろ夏になるやん?お互い社会人二年目なわけやけど、さすがに夏くらいはしっかり遊ばなあかんやん?」

 川島は就活のときから「スーツを着る意味がわからない」と最終の面接まで私服で行くようなやつで、去年も「社会人一年目なわけやけど」と同じ理由でキャンピングカーで一泊二日のキャンプにいかないかと誘われ、大学時代の友達五人で、平日にスーツを着てバリバリ働いていることも忘れて山で遊んだのだった。

「お前二十年後も、『お互い社会人二十二年目なわけやけど』とか言って川遊び行こうとか言い出すんやろな」

「え?」

 少し嫌味っぽく言ったことにすら気づいてないらしく、「はよ梅雨明けて欲しいよなあ」とか呑気なことを言っているので、一ノ瀬は少し意地になって、「そういえばさ、あきら。お前がくれたウッディさ、コーヒーでびしょびしょになってもうた」と言ってやった。すると、「おい!それはあかん。すぐ洗濯して!」と思っていた以上に必死に言ってきたので、一ノ瀬は満足して、「ごめんごめん、綺麗にしとく」と伝えた。

「それでなんの電話やっけ?」

「あ、そうそう!和也さ、テンプって知ってる?」


   


   紺野


 失恋ソングを片っ端から聴いていても悲しくなるだけなのに、妹の家で散々聴いたあと、紺野は懲りずにバイト先への移動中でさえも聴いていた。ただ、バイトのシフトを今月はたくさん入れていて良かったと紺野は思った。働いていれば、あまり考え込まずに済む。


「あら、由美ちゃん、今日はあんまり元気ないね」

「日比野さん、おはようございます。そうですかね?私はいつも通り元気ですよ」作り笑いしたわけではなく、自然に微笑みながら話している自分に驚いて、日比野さんと会うとやっぱり元気がでるな、などと紺野は思っていた。

 日比野さんは、紺野が働いているカフェで、二年ほど前から働いているパートのおばさんで、年齢的にはおばさんというのだろうけど、とても綺麗な人で、パートのお姉さんと呼んでもいいくらいだと紺野は思っていた。

「それより昨日の雨、結構ひどかったよね。今年はいつ梅雨明けなんだろうね」

なかなか失恋から立ち上がれない紺野は、センチメンタルな心に浸ることができる雨が少しの間、止んで欲しくないと思っていたが、「そうですね」と答えておいた。

「うちの旦那、いつもはゴルフに行くんだけど、最近雨が多いから家にこもってるのよ」

「嫌なんですか?」

「全然嫌じゃないんだけど、あの人ずっと同じ曲聴くの。今のはライブバージョンだ、とか、これはイギリス王妃の前で歌った時のやつだ、とか。こっちからしたら全部同じよ。あれは一種の地獄ね。同じ曲きかせ地獄」

 ずいぶんかわいい地獄だなと紺野は思い、どんな曲なのか、少し気になっていた。


 紺野が働いているカフェは、駅前にあるカフェにしてはおしゃれで、いろいろなところにオーナーのこだわりが見える。木を基調としたつくりで、天井も吹き抜けになっていて開放感があるし、流れる音楽や、コーヒーマシーンに貼ってあるステッカーなども、紺野のお気に入りだった。

 カフェの西っ側に面した、窓際の六番テーブルは、午後になると綺麗に陽の光が入る、いちおしの場所だった。今では他人となってしまった元彼氏も、紺野のバイト終わりを待つときはいつもそこに座ってお気に入りのアールグレイティーをよく飲んでいた。

 そんな元カレとの思い出に浸っていると、ぼーっとしていたのか、運んできたアイスコーヒーをお客さんの前に倒してしまった。謝罪のあと、テーブルを拭いていると、リュックサックにもかかってしまっているのに気がつき、再び謝ると、お客さんがリュックのことを「こいつ」と言うので一瞬変だな、と思ったが、彼が指差していたのはリュックについたカウボーイのぬいぐるみだった。顔にコーヒーが染みて、茶色い服装と同じような色になってしまっていた。


 次の日のバイト終わりに、紺野は日比野さんが「同じ曲きかせ地獄」と言っていた「ピアノマン」という曲を聴くために、CDレンタルショップに来ていた。日比野さんの旦那さんが好きなバージョンはYoutubeにはないらしく、どうせ聴くなら寄り道でもして、そのおすすめのやつを聴いてみようと思ったのだ、家に帰っても寂しくなるだけだし。

 意外とCDはすぐに見つかった。ジャケットはホラー写真のような加工だったので、少し抵抗があったが、さっそく試聴コーナーで聴いてみた。ずいぶん昔の曲ではあったが、全く色褪せることなく、いい意味で誰の心にも響くような美しい曲だった。三拍子とピアノと歌声、というシンプルなつくりではあったが、なんともいえない深みがあり、紺野はとても気に入った。失恋ソングのループから抜け出せるような気がした。


   


   一ノ瀬


 川島あきらとの約束は二十時だったので、一ノ瀬は会社を出てから時間を潰せる場所を探していた。川島は大学時代の同級生で、多くの同級生が東京配属になる中、彼は少ない大阪配属の友達だったため、社会人になってからも、高頻度ではないがたまに飲みにいったり、週末に一緒に出かけたりしていた。今回は、川島が行きたがっていた「テンプ」という場所にいつ誰と行くのか決めるついでに一杯飲もう、と電話で盛り上がり、月曜の仕事終わりであるにも関わらず、一ノ瀬は川島を一時間ほど待っていた。

 どこで時間を潰そうかなどと考えながら、駅からふらふら歩いていると、紺と黄色の看板のCD/DVDレンタルショップがあった。五年ほど前は、好きなアーティストのCDが出るたびに、一ノ瀬もレンタルショップに行っていたものだが、ここ数年でCDを見る機会は激減し、スマホでダウンロードする時代になっていた。他にやることもなかったので、一ノ瀬は久しぶりに入ってみることにした。一ノ瀬の地元にも同じチェーン店があるが、大阪の店舗は少し広い気がした。いろんな新しいコーナーがあったし、漫画やゲームもレンタルできるようになっていた。

 「試聴コーナー」という吊るしポップが目に入り、スマホもあるのにこの時代に誰が試聴するんだろう、と内心思いながら覗くと、若い女性が顔の小ささに不釣り合いな大きいヘッドフォンをつけて、試聴していた。アニエス・ベーのティーシャツとデニムを綺麗に着こなしていた。

 その女性が昨日行ったカフェの店員さんだと気づくのに少し時間がかかった。カフェの制服と私服だとこうも印象は変わるものかと驚きながら、声をかけるか迷っていると、彼女は試聴をやめて、そのCDを手に取りレジの方へ行ってしまった。わざわざレジまで追いかけて声をかける必要も感じなかったので、一ノ瀬はそのまま試聴コーナーに行ってみた。試聴の機械も昔とは違い、週ごとのヒットチャートや試聴された曲などが画面で見ることができ、それをタップすると、店内のどこにそのCDがあるのかがわかりやすく表示される機能もついていた。一ノ瀬は少しあのカフェの店員さんが何を聴いていたのか気になったので、試聴履歴のページを見てみることにした。ちらほら最近テレビで流れていた新しい曲も試聴されていたが、予想通り古い曲が一覧には多かった。今時の若者がヒットチャートを試聴コーナーで聴くわけないよな、と思いながら、さっきの女性が聴いていた曲を見てみると、「ピアノマン」という曲だった。一ノ瀬は知らない曲だったが、なにか聞き覚えのある曲名だった。少ししてから、先週美容院に行った時に、そこにいた青年と相沢さんがその曲について話していたことを思い出した。確か、彼のお父さんが曲の信者で、みたいな話だった。

「この曲には、愛も、教養も、人生も、全てが詰まってる」

そんな会話をしていたな、と思い出しながら、ピアノマンを目を閉じて試聴していたカフェの店員さんを、一ノ瀬は思い出していた。

 

 川島あきらは、手元にあった焼き鳥を口で串から外して食べながら言った。

「でな、今年の夏はじゃあ何して遊ぼうかなあ~って考えてたところに、めちゃくちゃ穴場の天然プールって場所を聞いてん。山の奥に自然にできたプールみたいなちっちゃい湖やって。河川敷にバーベキューしにいくって言うても、人多いし、暑いやん。テンプは山の中で涼しいし、ネットにも載ってないから人も全然おらんのやって」

「そっか。まあ休みにすること決まってたわけじゃないし、そこ行くか。智也とか来れるかな?」

「今電話してみるわ!」と川島は電話を取り出した。一ノ瀬は、昨日電話で話した川島が、次の日にはこうして居酒屋で向き合って座っている行動の早さにに少しの尊敬と懐かしさを感じていた。


   


   日比野


 先週の月曜日から夏休みが始まっていたので、僕は瀬戸とサッカー部のチームメイトである大川慎の三人で、テンプ探しに来ていた。僕が住んでいる地域にはふたつ大きな川が流れていて、片方は二日前に部活が終わってからかなり上流の方まで行ったが、ある程度行ったところでダムに突き当たり、それ以上先には行けなかったし、なにより神聖な空気はなかったのでそこで断念し、今日はもう片方の川に来ていた。

「なんかこっちのほうが森って感じやし、なんかありそうちゃう?」瀬戸の適当な口車に乗せられてテンプ探しに参戦した大川が言う。

「この辺まで上流に来たら水が綺麗やなあ」

「なんか、マイナスイオン感じるな」僕はマイナスイオンが何なのか、どんな効果があるのか、全く知らなかったがとりあえず感じるままにそう口にしていた。


 だんだん道がなくなってきて、獣道のような足場の悪い道を進んでいくと、少しひらけた場所に出た。小さな滝があり、滝の水は、綺麗な色をした池に落ちていた。池は四方を木に囲まれていたので、そこだけぽっかりと穴が空いているような形をしていた。

「ちょっと休憩せーへん?」

「そやな、ちょうど日陰になってるし、道も悪くなってきたから一旦休憩しよ。」


 それから三人で夏休みの話をした。

「今年の夏休みはオフ多いよなあ」それが嬉しいのか、ただただ話題を口にしただけなのか、よくわからない口調で大川が言った。

「なんか、学校側でルールが変わったらしいで。どの部活も、週に一日は完全オフの日を作らなあかんくなったらしい」

「去年とかやばかったもんな、オフとか夏休みに二日くらいじゃなかった?」

「たしかにそうやったかも」と日比野は思い出しながら、それでも去年もたくさん遊んだ覚えがあった。

 サッカー部は練習が早朝(それこそ朝の六時半ごろ)開始で、九時には全体練習が終わるようなスケジュールだったため、午後に遊ぶ時間はたっぷりあった。そのため、僕にとって部活漬けの毎日、というよりは学生ならではの思い出作りもいろいろとできる夏休みだった。


「みんなさ、テンプ見つかったらどうする?」僕は願い事のことや、ふたりがどういうモチベーションでテンプを探しているのかが気になったから聞いてみた。

「自慢するに決まってるやん。天国のプールに行ったんやで?なんか人気者なれそうやん」瀬戸は願い事が叶うとかはどうでもよく、みんなが知らない珍しい場所に行った、という話のネタが欲しそうなだけだった。瀬戸らしい。

「慎は?」

「俺は彼女くださいって頼む」

「そんなん叶うわけないやろ、自分磨かな。神様に頼ろうとするから彼女できひんねん。願ってる時点で負けや」

 瀬戸は「願い事叶うらしいぞ!」と大川を誘っていたくせに、大川の純粋な願いをすぐにバカにし始めた。

「お前もおらんやんけ。そんなん言える立場ちゃうし恋愛に勝ち負けとかないねん。考え方が貧しいわ、勇也は」

「俺はいま準備期間やねん。もうちょっとしたら、急にモテ出すから、びびんなよ」

 学校でもするような何でもない話なのに、こうやって森の中まで来て、小さな池のほとりに座りながら話しているだけで、非日常な感じがして、不思議な気分になった。僕は、自分たち三人を上から見ているような感覚になった。来年は受験勉強やらなんやらで、こんなとこに遊びに来たりできないんだろうな。だったら今年はほとんど高校生最後の夏休みか。上から見下ろしている三人は別々の道に進み、疎遠になるわけじゃないけど、毎朝サッカーの練習をして、大量の宿題を協力して片付け、どこか山奥の神聖なプールを探しに行くなんてことは、できなくなるんだろう。


「テルはさ、花火大会彼女といくんやろ?」瀬戸が聞いてきた、僕は急に起こされたような感覚になり、すぐに反応できなかった。

「あ、うん。まだなんも決めてないけど、行くやろなあ」

「ええなあ。彼女やっぱり欲しいなあ。慎は?どうするん?」

「俺も特に予定ないねんな。行こうや、花火大会」

「男だけで?はやない?諦めるん。なんか負けたみたいやん」

 瀬戸の恋愛にはどんなことも勝ち負けがあるのだろうか、と思いながら日比野は後ろで流れている滝の音を聞いていた。ずっと聞いていられる気がした。


   


   紺野


 紺野は占いに来ていた。占いに来る時は決まって嫌なことがあった時か、気持ちが沈んでいる時だから、もはや占ってもらいに来てるというより、慰めてもらいに来てるに近い。

「失恋したわね、あなた」

「はい、やっぱり分かるんですね」紺野はいつも(といっても半年に一回ほどだが)この占い師に占ってもらっていた。

「占い師じゃなくても分かるわね、これは。顔にかいてますもの」

「妹にも言われました。そんなに違うんですかね」

「ただ、今回の失恋はいい兆しよ。あなたここで別れてなかったら、その元彼氏となかなか厳しい人生を歩むことになってたわ。よかったわね」

 紺野は体からスッとネガティブな空気が抜けていく気がした。誰でも言えるようなことだが、この人に言われると、何か大きなパワーに引っ張られるように、海の海流に逆らえないような、あの感覚で彼女の言葉に自分の心が動くのを感じていた。

「私、これからの人生どうなりますかね?」

「タロットと、スティックと、粉があるけどどうする?」

 占いの種類のことだ。紺野は「スティックで」と、とりあえずお願いした。

 すると、占い師は十本ほどの束になった変な棒をシャカシャカかき混ぜながら、変な言葉を発し始めた。

 長い間占い師がそうしてるものだから、紺野はいろいろなことを考えた。妹の美沙は恋愛をしてるのだろうか。こんな大きい失恋なんかしたことないんだろうな。もし美沙がこんな状態になってしまったら私が守らないと。そういえば日比野さんは旦那さんとどういう出会い方をしたんだろうか。それなりの失恋もたくさん経験したんだろうな。私も頑張らないと。今度シフトが被ったら、日比野さんの恋愛の話を聞こう、きっと今の自分の悩みなんてちっぽけなものになるだろうな。

「水と音楽よ」

 急に占い師が早口でそう言った。紺野は自分の世界から抜け出してから、「水と音楽ですか?」と聞き返した。

「そう、水と音楽。あなたを繋げるもの、いや、導くものに近いわね。心当たりは?」

 水と音楽と言われて心当たりがある人などいるのだろうか、と紺野は思いながら考えてみた。水は全くわからないが、音楽で思いつくのは少し前に日比野さんが言っていた「ピアノマン」だ。あの曲は紺野も気に入っていて、CDをレンタルしてからもよく聴いている。

「ピアノマンですかね」

「それね。それは曲の名前?アーティストの名前?」

「曲の名前です」

「なるほど。そういうことね」

「そういうことって、どういうことですか?」

 それから占い師は何も話さなくなり、また束になった変な棒をかき混ぜだした。


   


   一ノ瀬


 「テンプ、ええなあ」

 川島は、自分が見つけ出したテンプという場所が思っていた以上にいい場所で大変満足気だった。

「たしかに涼しいし、水もめっちゃ綺麗し、最高やな!」居酒屋でここに行こうと決めた日に電話で誘った宮田智也も気に入ったようだった。

 バーベキューセットを運んでくるのは実際かなり大変だった。途中まで自転車で川沿いを登り、道が険しくなってから、四十分ほど歩いてようやくたどり着いた。途中で川島が「その俺があげたウッディさ、リュックに似合ってないから外しいや」と一ノ瀬のリュックにぶら下がって揺れているカウボーイを見て言ってきた。一ノ瀬は、せっかくこのぬいぐるみをくれた川島のためにリュックにつけていたのに、当の本人に「外せ」と言われたものだから、言われた通りに外し、代わりに自転車につけておいた。

 少し前にコーヒー色になってしまったそのぬいぐるみは、綺麗に洗われて、すがすがしい顔で自転車にくっついていた。


 「智也はさ、仕事どうなん?」最後につくった焼きそばを食べながら川島が言った。

「まあー、ぼちぼちやな。人事の子がかわいいから、今狙ってるんよ。それが最近仕事の楽しみになりつつある」

「なるほどな~。社内恋愛かあ、俺はなしやな。もし付き合って、そのあと別れるようなことがあったら、めっちゃ気まずいやん」

 そういえば、あきらは他校の子としか付き合ったことがない、と随分前に聞いた気がする。たしかに、付き合った時は毎日会えるからいいものの、別れたあととなると、一気に学校に行きづらくなったことを、高校のときの彼女がそうだったなあと一ノ瀬は思い出した。

「まあそれはあるけどな。逆にあきらはどうなん?女の子とか」

「俺はまったくないな。なーんもない。真っ白」

「真っ白ってなんや。和也は?」

「ないなー」

「なんやおもんないなあお前ら」

「あ、でも、カフェの店員さん、」

「カフェの店員?好きなん?」急に智也が身を乗り出して話を遮ってきた。

「別にめっちゃ好きってわけではないけど」

 それからコーヒーをこぼされた時の話や、レンタルCDショップでの出来事をふたりに話した。


   


   紺野


 車で流れているのは、ピアノマンだ。失恋ソングループから徐々に抜け出していた紺野は、休みの日に車で出かけていた。行き先は、天然プールだ。


   


   紺野


 占いに行った日の夜、妹の美沙が作ってくれたパスタを一緒に食べながら、占いの話をしていると、美沙が急に「テンプだ!」と言い出した。紺野は一瞬意味がわからなかったが、おそらく「水と音楽」のくだりで、テンプ、つまり天然プールがその占い師の言う水のことだ、と言いたいのだろう。そういえば先週も学校で話題になってるとかなんとかで、その話をしていたな、と紺野は思い出した。

 ただ、その天然プールの話も、紺野が失恋して妹の家に逃げ込んで来なければ、聞かなかった話だし、それ以外に「水」で思い当たるものは思いつかなかった。しいて言うなら、先日こぼしてしまったコーヒーだが、あれは水ではなくコーヒーだ。そういえば、あのカウボーイのぬいぐるみ、どうなったんだろう。


 車のなかで、振られてからの一週間を思い出していた。あの日、雨の中電車に飛び込んで人生を終わらせようかと本気で考えていた自分が今になって恐ろしくなる。それから妹や日比野さんに元気をもらい、なんとか持ち直した。そして占い師に言われた「水と音楽」。その時は何もピンと来なかったが、日比野さんに教えてもらったピアノマン、妹がしきりに話す天然プール。無理やりこじつけている感満載だったが、そのときの紺野にはピンときたのである。

 占い師の言葉を思い出す。

「そう、水と音楽。あなたを繋げるもの、いや、導くものに近いわね。心当たりは?」

 今は車に乗って、去年同期に連れてこられた天然プールに向かっている。もちろんピアノマンを聴きながら。こんなことをして、何になるんだろうと馬鹿らしく思いながらも、紺野はなにかあるんじゃないかと半ば本気で信じていた。

 車で進めるのは確かこの辺までで、ここから歩いた気がするな、と記憶を頼りに、風化してボロボロになったガードレールのそばに車を止めた。去年張り切って同期を連れ回していた戸田の得意気な顔が頭をよぎる。

 ふと左に目をやると、自転車が三台停まっていた。捨てられたにしては綺麗だったから、もしかしたら誰かが今日ここまで自転車で来たのかなと思った。ここからハイキングに行ったのか、それとも自転車をここに停めて車道から川に遊びに降りたのかわからないが、道路から川を見ても、誰もいないからここから山に入って行ったのだろう。


 「あ、」

 しばらくして、紺野はあることに気がついた。三台の自転車のうち、左端の自転車のハンドルに、何かがぶら下がっている。

「ウッディだ」


   


   日比野


 結局、テンプは見つからなかった。瀬戸から話を聞いた時、「そんなものあるはずない」とは言っていたが、どこかで自分に嘘をついていたのだろう、僕は少し落胆していた。願い事が叶う天国のプール。考えてみればそんな場所あるはずがなかった。

 ただ、瀬戸は全く諦めておらず「違う川なんかな?」と次に攻める川を探していたし、大川は、次の冒険先はどこなんだ、とワクワクした顔で瀬戸の携帯を覗き込んでいた。

 梅雨が終わり、まだ夏は始まったばかりだったが、帰りの山道ではひぐらしが鳴いていた。

読んでくださった方、ありがとうございます。

本が好きな方なら気づかれた方も多いと思いますが、この物語は私の大好きな伊坂幸太郎さんの作品に影響されて作成したものです。

心が少し温まる短編を描きたいという想いからつくった、初めての作品です。

小さな日常に幸せやほっこりは隠れていると思います。

あなたの人生にもたくさん隠れていると思うので、あなただけのテンプを探してみてください。

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