この世の全てを知る犬は、たまに寂しそうな顔で私を見る。
その犬は全てを知っている。
全てというのは誇張表現ではない。過去、現代、未来のありとあらゆることを知っている。らしい。
「本当になんでも知ってるの?」
「もちろん知っていますよ」
私が初めて犬に会った日、犬は「つまらない事をわざわざ聞くなよ」と、顔にこれでもかと出しながら言った。
その犬は私の家の近所に住んでいる。
家の横の小道を抜けて、小さな公園の角を曲がり、スーパーの裏手の少し暗い道を通り抜けて、小さなビルとビルの間にポツンとある、猫の額ほどの空き地の真ん中に立っている、大人が二人ぐらい立って入れるぐらいの小屋に住んでいる。
犬はいつ見てもお洒落だ。お洒落と言っても服を着ている訳ではない。いつ見ても毛並みがよく艶々しているのだ。
「いつ見ても綺麗な毛並みね」
「ありがとうございます」
「やっぱり小まめにお手入れしているの?」
「そうですね。定期的なシャンプーにブラッシングは欠かせません。紳士たるもの身なりには気をつけているつもりですので」
自信満々に答えるドーベルマンはなんだかかっこよかった。一方私は量販店で買ったどこにでも売っていそうな安いシャツによれよれのデニムパンツ。少し自分の服装が恥ずかしくなった。
私は犬とたわいもない話をするのが好きだ。近所にできたパン屋さんの評判、スーパーのタイムセールで買うべき品と好きなお惣菜について、昨日見たテレビの話など、だらだらと時間を気にせず話すのが好きだ。そんな話の合間に、犬はたまに天気予報を教えてくれる。
「そういや明日は雨が降りますよ」
「いやいや、今朝の天気予報では明日は晴れるって言ってたわよ」
「じゃあ天気予報が外れます」
犬が言う天気予報は外れる事がない。
降水確率が0%だったとしても犬が雨だといえば雨が降る。逆も然り、晴れだと言えばどれだけ降水確率が高くても晴れる。梅雨でも晴れる。まるで天気を操ってるかのようだ。
引っ越したばかりで知り合いが少ない私は、毎週土曜日になると犬のもとを訪ねた。誰かと話したいと思った時に話し相手になってくれる存在はありがたい。
「話し相手がまだ犬の私以外いないんですね」
「ズケズケ言うわね。そんなデリカシーのない事を言う犬は嫌われるわよ」
「よく言われます。そもそも最初から知っています」
「そりゃそうでしょうね」
「私と話した人間の7人に4人がそう思うようです」
「残り3人は?」
「デリカシーがないところも魅力の一つと思ってくれるようです」
「なにそれ」
「なんでしょうね」
犬はころころと笑った。
犬と出会って6ヶ月が経った。
特にこれといって犬以外に仲良くなった人はいない。仲良くなった動物もいない。この街に来てから私は少しずつ変になった。私が住むアパートの他の住民も、近所の人も、スーパーの店員も、みんなの顔が「へのへのもへじ」に見えるようになった。そして気がつけば前よりも人と話すのが苦手になった。
長年勤めた職場の人の顔もいつの間にか区別がつかなくなり、とうとう私は先月会社を辞めた。お世話になった上司も、嫌いだった営業のおじさんも、少し恋心を抱いた同期もみんな「へのへのもへじ」。誰が誰だかわからず仕事がしづらくなり辞めることにしたのだ。この街に来るまではそんなことなかったのに。
「ここに来るまでそんなことなかったのに、私は変になったのかな」
仕事を辞めた週の土曜日も犬に会いに行った。そして顔がみんな同じに見えること、会社を辞めたことを話してみた。
「そんなことありません。私からすれば人間なんてみんな同じ顔に見えます」
「どうやって区別してるのよ?」
「声と匂いですね」
「…………匂いって言われるとなんとなくいい気はしないわ」
「そう言われても事実は変わりません」
「そうかもしれないけれど……」
私は黙ってむくれるしかなかった。
犬はたまに哲学のような事を言う。幸せとは、愛とは、平和とは、犬は淡々と語る。犬に語られるとなんだか不思議な気持ちになる。でもなんでだろう、偉そうな顔をした人に話されるより、淡々と犬に話される方が聞きやすくて面白かった。
犬は私が普段考えないような事をつらつらと話す。私はつらつらと話されるのが好きだ。
「どうして犬はなんでも知ってるの?」
「みんなが教えてくれるからです」
「みんなって?」
「風や、空気、雨、通りすがりの人間の声、見えない何かの声、あなたを含めた全ての生き物がたくさんの情報をくれます。なんでも知っていると言っていますが、みんなが教えてくれる声に耳を傾けているだけなんですよ」
「自分だけが特別じゃないって言いたそうね」
「そうです。私はただの犬ですから。あなたもその気になれば全てを知る存在になれますよ」
「そんな訳ないでしょ」
「いいえ本当です。やる気になれば空だって飛べます」
「飛べないわよ」
「飛べるんです」
「絶対に無理よ」
「人間はそうやって自分の可能性を自らドブに捨てるのが好きな生き物ですね。『私は痩せられない』と痩せる努力すらせずに諦める人間もたくさんいますし」
「何その嫌味。耳の痛いこと言わないでよ」
「私はあなたを含め人間はもっと前向きにいろいろな可能性を信じるべきだと思いますよ」
私は正論という暴力を浴びながら犬の話が早く変わらないかなとぼんやり考える。つらつらと正論を話されるのはなんだかしんどい。つらつらと話されるのが好き? 前言撤回だ。
犬はいつも私が話に飽きてくると簡単に話をまとめて終わらせてくれる。ありがたいと思う反面、私が飽きることが分かっているならそんな話はしないでくれたらいいのに、とも思う。そう思うのは我儘だろうか?
ある日、犬の寿命についてすごく気になったので聞いてみることにした。
「犬は自分がいくつまで生きられるか知っているの?」
「ええ、もちろん」
「私が何歳まで生きられるかもわかる?」
「もちろん。でも教えませんよ」
「どうしてよ。知ってもどうもしないわよ」
「そう言ってもあなたに死期を伝えると必ず落ち込むので」
「それも犬が知っている未来?」
「そうです。私には未来は変えられません。必ず起こる事を知っているだけです。あなたは自分が死ぬ日を知ると暗い気持ちになるようです」
「それって私だけじゃないと思うけど」
「たしかにそうですね。でも、人生って何が起こるか分からない方が楽しみがあっていいじゃないですか」
「そんなものかしら」
「そんなものですよ」
そう話す犬は遠い目をしながら笑った。
「犬はいつからここにいるの?」
私は犬と出会って1年ほどした時に聞いてみた。ずっと気になっていたがなんだか聞きにくくて今まで我慢していたのだ。
「生まれた時からずっとここにいますよ」
「ここで生まれたの?」
「ええ、ここで生まれました」
「家族はいないの?」
「10年前まで私の父も母もここで一緒に暮らしていました。ある日父が『おれは地球の端っこを見てみたい』と言ってここを出て行きました。母もその3日後に『心配だから行ってくる』と言って父を追いかけて出て行きました。それからは私だけですねここに住んでいるのは」
「寂しくないの?」
「寂しいと思った事はありません。いろんな人間がお話ししに来てくださりますので」
「そんなものなの?」
「そんなものですよ」
犬は何故か愉快そうな顔をしていた。
犬と会って3年が経った。相変わらず私は毎週土曜日に犬のもとを訪ねている。
最近、近所に軽く立ち話をする人ができた。まだ人の顔は区別がつかない。犬と同じではないが声で人を区別することができるようになってきたおかげだ。
犬は相変わらず老けもせず小屋に佇んでいる。
「犬はどうしてずっとここにいるの?」
「ずっとではありませんよ。出かけることもあります」
「そうなの? 私が来るといつもここにいるじゃない」
「それはあなたが来る事がわかっているからここにいるんですよ」
「なによ忠犬ぶっちゃって。この街を出て違う街に住みたいと思う事はないの?」
「ありませんね。ここが私の居場所なので」
「犬、実は私引っ越そうと思うんだ」
「そろそろかと思っていました」
「やっぱり知ってるんだ。私次は海が見える街に行こうと思うの」
「海、いいですね。私は潮風を感じながら散歩をするのが好きです」
「あら、気が合うじゃない。一緒に来る?」
「行きたいのはやまやまですが、でもやっぱり私の居場所はここなので」
「そっか。私、犬と話していると落ち着くから一緒に来てくれたら嬉しいなと思ったんだけどな」
「嬉しいことを言ってくれますね。ありがとうございます。ですが私は犬なので何もしてあげられませんよ」
「なにも期待してないわよ」
「そうですね」
「そうよ」
「寂しくなりますね」
「そうね」
「お気をつけて」
「ありがとう、今日はもう帰るわ」
「そうですか。ではまた明日」
「何を言ってるのよ。明日は来ないわよ。今まで二日連続で来たことなんてなかったでしょう」
「そうでしたっけ?」
「わかってるでしょう?」
「そうですね。失礼しました。お気をつけて」
犬と話した帰り道、私は引っ越し先の街の風景を思い浮かべていた。潮風に吹かれながら夕日が沈む海を眺める。きっと美しいに違いない。どうせならやっぱり犬と一緒に美しい海を見てみたい。その方が楽しい時間が過ごせる気がする。そんなことばかり頭に浮かぶ。
やっぱり明日もう一度誘いに行こうかしら。そんな事を考えながら横断歩道を渡る。周りの景色なんて目に入っていなかった。
ふと大きな音に気がつき横を見た。すると信号無視をしたトラックが私の目前まで迫っていた。私は避けられなかった。
「どうして言ってくれなかったの?」
「前に言ったじゃないですか。伝えても未来は変えられないって。あ、でも『お気をつけて』とは言いましたよ」
「いやいやもっとさ、車に気をつけてとかさ、具体的に言ってくれてもいいと思うけど」
「そうかもしれませんが私が何かを言ったとしても未来は変わりませんよ」
「そんなのわかってるわよ。でもさあ、それでも言って欲しかったなあ…………車に気をつけてぐらい言ってくれてもよかったと思うけど」
私は大きく溜息をついた。
「車に気をつけたとしても車に轢かれる未来は変わりませんよ。轢かれる場所が少し変わるだけです」
「でも、でも……なんだかなあ。帰りに車に轢かれて死ぬってわかってたらもっと気をつけられたと思うのになあ…………」
そう、私は昨日横断歩道でトラックに轢かれて死んだ。即死だった。犬はそうなる事を知っていたはずだ。
「まあまあそう落ち込まずに。ところで今日はどうしたんですか?」
「どうしたってあんたねえ、小言を言いに来たに決まってるでしょう。言われなくてもわかってるくせに」
「聞きたくなったんですよ。それにしても驚きました」
「なにがよ?」
「実は今日あなたがこうして会いに来てくださる事はわからなかったんです」
「嘘つき。昨日『また明日』って言ったのは誰よ」
「そうでしたっけ? 無意識ですね。でも本当に今日来られるとは思っていませんでした」
「え、なにそれ本当? 犬は全てを知ってるんじゃないの?」
「そう思っていたのですがどうやら違うようです。こんな事初めてです。思いがけない事が起こるというのは楽しいですね」
犬はころころと笑った。それはそれは楽しそうに。
私はなんだか呆れてしまい溜息しか出なかった。犬との暮らしはまだまだ続きそうだ。