アヤカと兄の最後 ②
入社式の日、私は驚きました。同期に、兄にとてもよく似た人物がいたからです。私は一瞬だけ戸惑いました。でも、彼はあくまでも兄によく似ているだけ。中身は全くの別人です。私は、すぐに彼にも今までの兄以外の人のように接することを決めました。
・・・・・・決めたのですが、彼の顔を見ると兄を思い出します。私はなるべく彼に話しかけないように、目立たないように、彼の顔を見ないように過ごしていました。
ある日の業務後、私たち新入社員と先輩方との仲を深める、という目的で飲み会が開かれました。一般的な対応として、もちろん私も参加することにしました。唯一の誤算は、兄によく似た彼が私の隣に座ってきたことでした。彼が隣にいると、まるで兄が隣にいるようで、でも彼は兄ではないので、そんな気がするだけです。やはりここでも私は、なるべく黙っていることに決めました。それでも隣に座っている以上、限界があります。私は彼に話しかけられてしまいました。
「ミツゾノさんは、週末は何して過ごすの?」
私はできるだけ平然と、なるべく彼の顔を見ないようにして答えました。
「週末は、兄の家が近いので、そっちに遊びに行ったり、料理したりしてますね」
料理という言葉に、女性の先輩が反応してくれました。
「へー料理! なに作るの?」
「この前は、ローストビーフを作りました」
「えーすごい!」
そこから私は、しめたとばかりにそちらの先輩方とお話することに決めました。黙っていると、彼にさらに話しかけられてしまうような気がしたからです。ただ、先輩方と話していても、どうも彼が私を見ているような、そんな視線を感じていました。気のせいだと思いたかったのですが、今考えると気のせいではなかったようです。
その飲み会以降、やたらと彼は私に絡んでくるようになりました。それに対応していると、ずるずると関係が進展していってしまいました。兄の顔をした男の人を拒むのは、どうにも私には難しいことでした。兄を裏切っているような気持ちはありましたが、何度も話をしているうちに、彼自身がとても良い人間だということがわかってきました。
私は考えました。こんなに良い人で、兄とほとんど同じ姿をしているのなら、兄の代わりになるのではないか。兄とは結婚できないが、この人と結婚すれば、きっと兄によく似た子供が生まれるに違いない。ただ、兄と同じような顔をして、兄とは違う人間が喋っているのを見るのは慣れなくて、彼の顔を見て話すのは苦手ですが、それもいつか克服できるはずです。彼と付き合って、きっと結婚しよう。
そう決めた頃、ちょうどよく彼に「付き合ってほしい」と告白されました。私はもちろんこれを受けることにしました。それから1か月、彼は私と過ごしているとき、とても幸せそうでした。私も、兄によく似た顔が幸せそうで、とても幸せでした。
それなのに、どうやらそれが終わるらしいことがわかりました。
今日は彼が初めて家に来る日です。兄が好きなローストビーフを、彼にも好きになってもらいたくて、一生懸命作りました。あらかた準備が終わって、もうすぐ彼が家に着く時間でした。町内アナウンスなんて聞いたことなかったのに、急にアナウンスが流れてきたのです。
――――あと7分で世界が終わります。みなさん、これは事実です。
私は何かのいたずらか、ドッキリかと思いました。こんなアナウンスが流れて、外の様子はどうなっているのやらと思って、私は窓の外を見ました。
夕空はいつも通りの色をしていましたが、そこに異質なものがありました。
それを見て、ああ、さっきのアナウンスは事実なんだと、直感的にわかりました。
あと7分しかないそうです。これは急いで兄に会いに行かなくては。そうだ、せっかくだからこのローストビーフも持っていこう。こうしちゃいられない――――
玄関のドアに手をかけて、私は今から彼が来ることを思い出しました。兄のところに行かなければならないのに、よくそんなことを思い出したものです。でも、彼は私に幸せな未来を夢見させてくれました。最後は、誠実に対応しなくては。スマートフォンを取り出し、彼にメッセージを送信しました。きっとこれで、この7分を私以外のことに大切に使ってくれるでしょう。
ドアを開けて、私は兄の家へ走りだします。兄の家までは徒歩で10分ほどです。走ればすぐに着きます。今日この時間は、兄は間違いなく家にいます。私はそれを知っています。いつだって、兄がどこで何をしているのか、知っていますから。
周囲がうるさい気がします。でもそれどころではないので、すべて無視して、私は兄の家に辿り着きました。いつもなら、チャイムを鳴らして開けてもらうのですが、そんな時間も惜しいので、合鍵を使いました。ガチャリ。ドアが開きます。
「兄さん?わたし、アヤカ・・・・・・」
兄は部屋の真ん中に立っていました。こちらを向いています。でも、逆光で表情が見えません。夕焼けと兄の影のコントラストは美しいです。何かが兄の手で光ったような気がします。
「アヤカ、もう終わるみたいだから、最後にずっとやりたかったことをしようと思う」
兄の影がそう言って、私に近づいてきます。私は、兄が何をしたいのかわかりました。たぶん、本当は今までもわかっていました。だって、私は兄のことが好きで、なんでも知っているんです。そして兄も、私のことをすべて知っていたのでしょう。
兄は黙って私の胸を刺しました。
あつい。
いたい。
あつい。
いたい。
兄は何度も私を刺します。急速に目の前が銀色に染まっていくのを感じます。
(ローストビーフ、食べてほしかったな……)
私の世界は、そのまま真っ白に変わっていきました。