あなたと夜想曲を
「すまない、おまえを試したのだ」
なんて、突然言われたなら、そりゃ驚くわよね。
あなたは後足で破れた窓辺に立ち上がった。満月を背にして、生まれつきの黒い毛並みが銀色の月光で縁取られる。深い緑色の目が二粒のエメラルドのようだ。
「ちっとも気づかなかったわ」
なんとか眠れるベッドに、わたしは体を横たえた。苦しかった胸が少しらくになる。大厄災の後に生き残った人が使っていたのかも知れないベッド。数か所飛び出たスプリングと、ベージュ色に変わったかつての白いシーツ。毛布は埃っぽいけれど、夜露を凌ぐには十分でしょう。
「人類が滅びて、我らが地上を治めて幾星霜。じゅうぶんに平和に暮らして来たのだ」
そうね、とわたしは頷いた。人間がいなくなった世界は、とても静かだった。騒音がないの。車や電車の走行音も、宣伝のためのアナウンスも、これみよがしの音楽もなくて。聞かされる音がないのは、こんなにも穏やかなのだと気づいた。
「だから、そなたが目覚めたと知ったとき、我らは戦慄したのだ。祖先から聞いていた悪夢が再びおとずれるのではないかと」
「わたしも人間のいない未来に目覚めるなんて、なんて間が悪い。ごめんねぇ、お邪魔しちゃって」
収容されていたラボの天井は半分以上落ちていたのに、なんだか知らないけれど、わたしの冷凍睡眠装置だけ無事だった。病気の治療法が見つかるまで……なんて娘や息子たちは言っていたけれど、わたしが死んだらそれ相応の年金や役員報酬が入らなくなるから、無理やり生かされたようなものだったんだけど。
「起きたら、誰もいないんだものね」
相続問題も、年金も、税金も。面倒ごとは全部なくなった世界に来ていた。
「クロ、あなたしかいなかったんだもの」
クロの髭がぴくんと動いて、緑色の瞳が三日月になった。小さな頭に大きめの耳、すんなりした肩と優美な曲線を描く長いしっぽ。わずかの間に、クロは大きくなった。
目が覚めたら、どこからか猫の鳴き声がした。導かれるように外へ出ると、蔦が絡まる崩れた壁の草むらにクロがいた。
まだ片手に乗るくらいの、小さな体だった。親猫もきょうだい猫も、それから現実として人っ子一人みあたらなかった。
「最初はね、まだ誰かいるんじゃないかと思っていたわ」
どこかに隠れているのかも知れない。昔見たSF映画みたいに。けれど、夜は星と月の明りしかなく、煮炊きする煙はみえず。朽ちかけた建物のどこにも人の気配はなかった。
「あなただけで、暮らせばよかったのだ。わたしなど見捨てて」
クロはそういって横を向いた。猫は横を向いても美しいのね。
崩れた建物に住めなくはかった。商店街だった場所になら遺物もあったし、それを回収して、一人分の暮らしならなんとかなっただろう。
「どう見たって、わたしよりクロのほうが長生きするでしょ。あなたをひとり残すわけにはいかないじゃない。仲間のところへ届けなきゃ」
それは、クロからすれば予想外のことだったらしい。利己的で自己中心的で、地球の環境を破壊尽くした人間が……と。
「楽しかったわね。海まで行ったわ。海はあんなに青くて綺麗だったのね。山も綺麗だったわね。アブに追いかけられて、おばあちゃんなのに思いっきり走っちゃった。意外と走れるものね」
もっとも、その後はしばらく動けなかったけど。
あちこち、ふたりで旅をした。春から秋まで。そのあいだにクロはどんどん大きく、たくましくなった。
でも、どこを訪ねても、猫も人も、見当たらなかった。
「我らは見ていた。あなたがどんな存在か。我らの敵か味方か」
わたしはうなずいた。みんな隠れて見ていたのだ。
「杞憂に過ぎなかった、すまない。あなたの大切な時間を使わせた」
「残りの時間を、大好きなあなたと一緒にすごせたわ。もう一度、あなたを抱かせてくれる?」
クロが窓枠から飛び降りおり、わたしの枕元へひらりとジャンプする。
しなびた指でクロをなでると、そのまま腕の中に体を丸めた。
「ありがとう。やわらかいわね。あたたかいわね」
クロの背中はビロードの手ざわり。喉を鳴らしてクロが応える。
「今日はたくさん歩いたから疲れたわ」
わたしは大きく息を吐く。
とん、とん……。毛布に何かが飛び乗る。
体にそって微かな重みを感じる。毛布越しにぬくもりを感じる。
「クロのお友だちかしら」
クロがわたしの頬をなめる。ちょっとくすぐったい。
ひとりじゃないなら、もう安心ね……。
わたしの言葉は声にならなかった。
静かな夜。人間は、わたしひとり。最後のひとり。
にゃあ、とクロが鳴く。
こんな月夜、最後に聞くなら、鎮魂歌より夜想曲がお似合いね。
ね……クロ。