真島吉香の使命~ココロノコドウ後日談~
とある初夏の早朝。
袴田道場師範代、袴田戸呂音が、珍しく神妙な面持ちで吉香に声を掛けてきた。
「吉香さん、吉香さん。いよいよ〝運命の日〟が、やってまいりますよ」
「ああ、北斗先生との結婚の日程、決まったんですか?」
特に感嘆もなく、さらりと返すと、戸呂音は頬を染めてテンションを上げ、吉香の背中をバシバシと叩いてきた。
「嫌だわ、結婚なんて! まだ早いですよぉ」
照れ隠しに否定してくるが、その嬉しそうな表情はまんざらでもない。
早いということはないだろう。戸呂音も、二六歳。いまどきの結婚適齢期を考えれば遅すぎる年齢とも言えないが、それでももう伴侶がいてもおかしくないお年頃だ。
主人が嫁に行き遅れて寂しい老後を送りはしないか。吉香の中では心配の種の一粒でもあった。
「まだなんですか? さっさと首輪をつけておかないと、そろそろ逃げられますよ」
「そうなんですよねぇ。最近は麻酔にも耐性ができてきたらしく、あまり長い時間捕まえておけなくなってきて……。まあ、そちらの心配は先送りにして。今は冗談やのろけ話をしている場合ではないのですよ。もうじき、ついに、あの恐れていた日が来るのです」
戸呂音の緊迫したオーラが伝わってきて、吉香も息をのんだ。
「あの日、ですね……」
「何をすべきか、あなたならば言わずとも、分かっていますね?」
「もちろんです。あらゆる手を尽くして、地球の危機を阻止してみせます」
「貴女だけが頼りです。よろしくお願いしますよ」
「お任せください。私も、主を二度も死なせるなんて、絶対に御免ですから」
いつも通り、冷静に。かつ、吉香の心の中は、強い使命感に燃えていた。
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話したところで信じてもらえないが、真島吉香はロボットだ。
というのも、外見は人間の持つ特徴に遜色なく、皮膚や髪、爪や産毛の触感まで、精巧忠実に再現された体を持つため、首を外して見せでもしない限り、誰も気が付かない。
人間の社会に入り込み、当たり障りなく人間と共に生活する。そういう用途を目的として作られたロボットだった。
吉香は、稀代の天才発明家、袴田戸呂音によってこの世に創り出された。
といっても、つい先ほどまで会話をしていた人物ではない。〝未来の〟袴田戸呂音だ。
吉香の生まれた世界では、超巨大地震が起こって地球が崩壊、滅亡してしまった。唯一、その危険を事前に察知した戸呂音だけが、命からがら月へと逃れ、生き延びた。
そして、最後の力を振り絞って作り上げたロボットこそが、吉香なのだった。
吉香に与えられた使命は、ただ一つ。
巨大地震が起こるより前の時間軸に戻り、その原因を取り除き、地球の滅亡を事前に食い止めること。
その使命を全うするために、吉香は戸呂音の作ったタイムマシンで時を超え、災害が起こる数か月前にやってきた。それが、今いるこの世界だ。
震源地は、東京と埼玉の境辺りにある閑静な町、彩玄町。
そこで出会った過去の戸呂音に協力を求め、未来を変えることによって未然に災害を食い止めようと奔走してきた。
その結果、滅んだ世界とはまた異なった未来を構築して、少しは運命を変えられたと吉香自身も実感してはいるが――。
実際のところ、まだまだ諸問題は山積みとなっていた。
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翌朝。
吉香は彩玄高校の制服に身を包み、通学路をてくてくと歩いていた。
吉香の外見は、十六歳の少女を模して造られている。いざという時に災害を食い止める力を発揮するためには、いささか不釣り合いな体格だとは感じていたが、制作者である戸呂音がこの姿がベストなのだと判断したのだから、文句を言うつもりはない。
この世界にやって来てから、吉香は戸呂音が師範代を務める武術の稽古教室、袴田道場の門下生としてお世話になりながら暮らしていた。
袴田道場は通いの門下生の育成だけでなく、事情があって親と暮らせなかったり、登校拒否などで日常生活が満足に送れなくなってしまった子供を預かって鍛錬を積ませ、自立心を鍛えさせることを目的に運営している施設だ。戸籍も親も持たない吉香が一人潜り込んでも、誰も不思議には思わないので好都合だった。
「吉香ちゃん、吉香ちゃん。もうすぐ遠足だよ! おやつ、何持っていこうかな。バナナはおやつに入るのかなぁ? 米斗くん、バナナ好きかなぁ?」
吉香の隣を歩く、小動物みたいに小柄な少女が、表情に花を咲かせてウキウキワクワクしながら、話しかけてきた。
同じ道場で生活を共にする、クラスメイトの少女。名前は、有栖千具良。
「本当に、お気楽ねぇ。あんたは」
無邪気で子供っぽく、おおよそ人を疑うという感情を知らなさそうな無垢な同居人に、吉香は呆れる。
これが本来の女子高生の姿だし、のほほんと暮らせるのは世の中が平和な証拠だから良いのだが、あまりに物事に対して危機感のない平和ボケした姿を見ていると、この歳になってこんなに幼稚でいいのかと、逆に心配になってくる。
鼻歌を歌いながら、軽やかな足取りで歩く千具良を横目に、吉香は表情を強張らせた。
「……ねえ、千具良。今度の遠足なんだけれど、欠席しない?」
意を決して、話を切り出す。吉香の張りつめた緊張感には気付いていないらしく、千具良はただ、不思議そうに問い返してきた。
「どうして?」
「だって、牧場なんて、つまらないでしょう? サボって、どこか別の場所に遊びに行ったほうが」
吉香が当たり障りなく説明を続けるも、千具良は納得するどころか、徐々に表情を険しく変えていく。
「つまらなくないよ。私、ずっと楽しみにしてたんだよ? 米斗くんも、自由時間は一緒に見て回ろうって、言ってくれたし」
「あいつとデートなら、どこでだってできるでしょう? 何も牧場じゃなくたって……」
必死の説得も空しく、吉香の思惑とは裏腹に、千具良の顔はみるみる曇り、目に大粒の涙を溜め始めた。
まずい。吉香の作戦は完璧に裏目に出た。
ズズズズ……。
足元から、微かな振動が伝わってくる。街路樹がざわめき、側のコンビニの駐車場に立てられた旗の先端が揺れている。
「約束、したんだもん。米斗くんと、牧場行くの……」
千具良が洟水を啜る度に、揺れが大きくなっていく。今でこそ、屋外に立っている人間には感じ取れないほどの揺れだが、これ以上酷くなると、大変な被害が出てしまう。
「ああ、分かったわよ。分かったから、もう言わないから、落ち着きなさい」
吉香は慌てて、千具良を宥めた。
何とか泣き止ませる。千具良の感情が静まるに従って、揺れも静かに引いていった。
吉香は安堵の息を吐く。
そう、吉香が生まれた世界で、地球を滅亡させるほどの大地震を引き起こした元凶は、目の前にいる何の変哲もない少女なのだった。
千具良は、心臓の鼓動が何らかの偶然によって地球の核の動きと連動してしまっているらしく、激しく高鳴ると、千具良のいる場所を震源に巨大な地震が引き起こされる。
吉香はその脅威を食い止めるために、千具良の側で状況を見守り続けてきたわけだ。
改善策として、千具良がちょっとやそっとの出来事で動揺しないために、精神を鍛えて強い平常心を持たせようと、努力してきた。
その努力も少しは実ったが、まだまだ思春期の千具良の心は、不安定だった。
今みたいな調子では、とうてい、来るべき〝運命の日〟を乗り越えるなんて不可能だ。
「困ったわね。千具良があんな浮かれた調子じゃ、水際対策ができなくなってしまったわ」
頬を膨れさせて、先を歩いていく千具良の背中を見つめながら、吉香はさらに不安を募らせていった。
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休み時間。
吉香は教室のベランダに出て、校庭を眺めながら途方に暮れていた。
千具良を説得して、行動を制御できれば一番話は簡単だったのだが、うまくいきそうにない。
別の方面からアプローチをしていくしかない。その方法を考えていた矢先、隣の教室のベランダから首を突っ込んできた輩がいた。
「おいコラ、真島」
隣のクラスの住民、落合米斗だった。
何事に関しても動じない、無感情で無反応、世界一の平常心男と称される、校内きっての変人として名高い男子生徒。こいつこそがロボットなのではないかと思えるほど、普段はやる気なく生気の感じられない男だ。
かつ、千具良の彼氏でもある。
「何で千具良が遠足に行くのを反対するんだ。意味の分からん嫌がらせは、やめろ」
相変わらずの無表情だが、死んだ魚みたいな目には、珍しく憤りが火を付けている。千具良が愚痴ったのだろう、今朝の一件について吉香を非難し始めた。
もちろん、千具良を強引に説得しようとして泣かせてしまったことは反省しなければならない。
だが、こいつに言われる筋合いはない。むしろ何にも考えていなさ過ぎて、逆に腹が立つ。
「意味が分からん、なんて、どの口が言うのかしらね?」
怒りを発散するべく、吉香は米斗が突き出してきた顔を両側から挟み込み、頬を思いっきり外側に引っ張った。
「痛いだろうが。何すんだ」
如何にも痛そうに文句を垂れているが、表情は完全に無であり、全然苦痛そうに見えない。そのあたりは流石と言える。
米斗の存在を千具良に教え、付き合ってみてはどうかと勧めたのは、他でもない吉香だった。この人間とは思えない、極められた平常心。その強い精神力を会得する方法が存在するのだとしたら、千具良の心臓を守るために大いに役立つ。何としても平常心を保つテクニックを盗み出せと、接近させたのだった。
結果としてはうまくいかず、さらに米斗までもが隕石誘因体質とかいう訳の分からない体質を持っている事実が明らかになり、より地球の寿命を縮めてしまいそうな事態にまで発展しかかった。
千具良や吉香たちと関わったことで、米斗ももちろん、千具良の地震を起こす体質については良く知っている。
その上で、今みたいな台詞を飛ばしてくるなんて、吉香から見れば軽率で浅はかとしか思えなかった。
「あんたは師範代の話を覚えていないの? 千具良が、もう一つの世界で大地震を起こし、地球を滅ぼすきっかけになった事件を」
諭してやると、米斗は思い出したらしく、少しだけ表情を硬くした。
「事件って、まさか……」
「そう。いわゆる『千具良の頭を牛がパックリ事件』よ」
「果てしなくネーミングセンスのない、そのまんまの事件名だな」
「お黙り。名前なんて記号、何でもいいのよ。大切なのは中身。千具良は、学校の遠足で牧場に出掛けた際に、牛に頭を食べられたショックで、大地震を引き起こすの」
そのお陰で、地球は大崩壊した。唯一、宇宙に逃げ延びることに成功した戸呂音一人を残して、文明も生命も、何もかもが滅びてしまった。
もう一つの世界で言うところの〝運命の日〟。
その日が、こちらの世界でも、もう目前に迫っていた。
「けど、その未来は、お前が過去にやってきて色々と干渉したことで、変わったんだろう? だったら、もう心配しなくても大丈夫じゃないのか?」
「確かに、私たちがいるこの世界は、いわば大地震によって滅んだ地球の並行世界――パラレルワールドよ。向こうの世界とは全く異なる未来を持つ、別世界であるという事実に間違いはないわ。だけど、この世界の結末が、私がやってきたもう一つの世界と同じにならないとは、限らないのよ」
並行世界とは、同じ時間軸、世界観をもっていながらも全く異なる場所に存在し、決して交わることのない世界、と定義されている。
だが、交わらないとしても、二つ存在する似通った世界である以上、起こる出来事さえも異なるとは、決して言い切れない。
たとえば、同じ環境の元に作られた地球がこの世に二つ存在するとしたら、そのどちらかに生命が誕生して、もう片方には何も生まれない、といったことは起こり得ない。似ているからこそ、全く同じ生命が生まれ、同じ進化を辿り、同じ方法で発展を遂げていくという事象が当然起こり得る。
まして、この世界と吉香がやってきた世界は、ほんの数日前までは全く同じ歴史をたどってきた、一卵性双生児みたいな存在なのだから、その誤差なんて微々たるものだ。
だから、向こうの世界で起こった悲劇が、こちらの世界では絶対に起こらないなどという考えは、安易すぎると吉香は考えている。
「もちろん今、私や師範代が足掻いたところで、地球の未来を救える確証なんてないわ。だけど、何もせずに指を咥えているなんて、嫌なのよ」
危険な目は早いうちに摘んでおく。そのくらいの努力しか、いまの吉香にはできない。
「俺だって、嫌だ。また大地震が起これば、千具良は自分自身を責めるだろう。そんな辛い思い、二度とさせたくない」
米斗も、気持ちとしては吉香と同じものを共有していた。ただ、吉香と違う点は、何の根拠もないのに堂々と構えていられるところだ。
何も考えていない馬鹿としか言いようがないが、その能天気さが少し羨ましくも思える。
「そう心配して、一人で気負うな。いざって時には、俺が千具良を守る」
米斗はポンと、吉香の肩を叩いてくる。
「要は、千具良を牛に近付けさせなければいいんだろう? ちゃんと見てるから、心配するな」
独自の結論を簡潔に出し、米斗は満足して教室に戻っていった。
取り残された吉香は、米斗の後姿を見つめながら、大きく息を吐いた。
「千具良も危ないけれど、あんただって十二分に危険因子なのよ……」
滅んだもう一つの世界以上に複雑な事情を含む、この世界。
吉香の力だけで守り切れるのだろうか。正直、不安だった。
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放課後。
吉香はまだ、千具良の遠足参加を阻止する方法を諦めてはいなかった。
千具良だけを欠席させることができないならば、遠足そのものを無に帰してしまえばいい。
そんな考えを巡らせ、職員室に向かった。
丁度、職員室から気配もなく出てきた、生気のない若い教師を見つけ、声を掛けた。
「北斗先生。今度の遠足、中止か、別の場所に変更はできないのでしょうか?」
教師の名は、落合北斗。米斗の兄であり、戸呂音の高校時代の同級生でもある。
昔から戸呂音のお気に入りであり、何かと捕まっては人体実験の餌食にされている。
そのため、最近はげっそりやつれて頬もこけ、いつも疲れ切った顔で幽霊みたいに学校を徘徊している。まあ、授業はきちんと行っているので、誰にも迷惑は掛かっていないから問題ないのだろう。
この男に学校行事を変更させるほどの力があるのかは謎だが、まずは小手調べに訴えてみることにした。
「……真島。どうして人は家畜を飼い、眺めて楽しむのか分かるか?」
「は?」
北斗は虚ろな目を吉香に向けて、よく分からない質問を返してきた。
「この雄大な地球に蔓延る人間どもは、己たちこそがこの世の支配者だと自惚れ、数多の他種族の生物を都合の良い奴隷の如く支配してきた。その最たるものが家畜であり、ただ人間たちが己の腹を満たすためだけに品種改良を繰り返し、田畑を耕すためにこき使い、金儲けのために鞭を打って走らせる、そんな愚行が遥か昔から繰り返されてきた。そして今も、ただただ人間の糧となるためだけに増やされ、生き続けている。そうやって、家畜は何の意思も尊重されず、ただ人間に弄ばれ、骨までしゃぶりつくされていく運命なのさ。今の俺みたいにな……!」
話が盛り上がるにつれ、北斗のテンションが急上昇していく。仕舞いには恐ろしいほどの奇声を上げて笑い始めた。
「人間のおぞましい欲望を満たすために作られた地獄の施設こそが牧場だ。そんな人の業を存分に堪能できる遠足を取りやめる意味がどこにある! さあ、思いのままに楽しむがいいわ、どす黒い未来を担う、愚かな高校生ども!」
「やかましい。全世界の酪農家さんたちに謝りなさい」
戸呂音が変な実験を繰り返したせいで、すっかり脳がイカれてしまったのかもしれない。完全に正気を失っている北斗にチョップを食らわせ、吉香は北斗の側を去った。まだ高笑いを続けていたが、無視だ。
「話にならないわ、ダメ大人」
その後、担任や学年主任などにもさりげなく掛け合ってみたが、牧場への遠足は昔からの伝統行事で、校長先生も楽しみにしていることから、中止にはならない、とのことだった。
起こるかどうか確証のない災害が起こる危機を持ち出して訴えかけても、恐らく信じてもらえない。
やむなくこの作戦も挫折し、吉香は引き下がった。
「やっぱり、人任せになんてできないわね。私が何とかしなくちゃ」
こうなったら、もう当日に千具良に張り付いて、あらゆる危険から守り通すしかない。
吉香は腹を括った。
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遠足の前日。
袴田道場の地下にある研究室で、戸呂音は吉香の整備に精を出していた。
「明日に供えて、メンテナンスは念入りにしましょうね」
手入れをする側もされる側も、気合が入っている。予測できる世界最大の災害を、万全の態勢で防ぐためにも、全ての準備に置いて妥協は許されない。
吉香はもう一つの世界の戸呂音が作ったロボット、といっても、実際に詳しい製造方法は今の戸呂音には分からない。世界の滅亡に直面し、孤独と絶望の中で知恵と技術を絞り出して、何とか作り上げた最初で最後の傑作だ。
幸いにも吉香が設計図を一緒に持ってきてくれたため、整備の方法だけは把握することができたのが幸いだった。
吉香の首の後ろを弄りながら、ふと、考える。
――明日以降、この設計図を基に、滅んだ世界でただ一人、吉香を作り出そうと奮闘する、なんて羽目にならなければいいけれど。
そんな不安と戦いながら、戸呂音はメンテナンスを完了させ、吉香を再起動させた。
「これでよし、っと。調子は如何です、吉香さん」
起き上がって首や腕を回しながら、吉香は体の調子を確認して、満足そうに頷いた。
「なんだか少し、頭が軽くなった気がします。明日は気合を入れて遠足に臨めそうですよ!」
「それはよかったですわ。頼みましたよ」
戸呂音は安心して、寝室に戻っていく吉香の背を見送っていた。
足元に、大事なネジが一本転がったままになっている事実に、気付かないまま――。
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そしてやってきた、遠足当日。
場所は彩玄町の北部に広がる高原内で経営されている、彩玄牧場だ。
それほど広い牧場ではないが、バリエーション豊富な動物が飼われていて、実際に触ったり餌をやったり、生き物と触れあえるサービスが充実した、親子連れに人気のスポットだ。
柵で囲まれた牧場の中では、家畜たちが種類に関係なく、のびのびと歩き回ったり、草を食んで寛いでいた。
「すごーい。牛さん、いっぱいいるね!」
到着するや否や、既に千具良は、はしゃいでいる。その隣で、吉香はあらゆる動物たちに注意を払っていた。
みんな、可愛いだのなんだのと家畜どもを愛でているが、吉香には目の前の牛や馬が、核ミサイルの発射ボタンと同等の存在にしか思えなかった。
牧場に着くと点呼をとり、その後は帰るまで自由行動だ。各々、思い思いの方法で動物と触れ合ったり、暇を潰して過ごしている。
牧場の中央にある建物の中はお土産屋やカフェになっていて、牧場お手製のスイーツや軽食も楽しめる。
千具良もどんなメニューがあるのか下調べしてきたらしく、一直線にソフトクリーム売り場に直行した。濃厚で新鮮なミルクを使用したバニラソフトは、牧場の一番人気メニューらしい。
だが、カウンターに貼られた張り紙を見て、がっくり肩を落とす。
「あー、牧場手作りのソフトクリーム、販売中止なんだ。残念」
「ここ数日、牛乳の出が悪くて。申し訳ありません」
売店の店員が、申し訳なさそうに謝っていた。
牛乳があまり絞りだせない。その異変に、吉香は真っ先に反応した。
大きな地震が起こる直前、一部の動物たちは奇妙な行動を起こす場合がある。
カラスが大群になって空を覆ったり、魚がみんな同じ方角を向いたり、ネズミが大移動を行ったり。
何の因果か不明だが、牛は大地震の前になると、お乳の出が悪くなる、といった報告もされている。
もしや、この牧場のホルスタインたちも、来るべき大災害を予知して体の変調を起こしているのではないだろうか。
嫌な予感が脳裏に広がり、不安が募る。
「そりゃ、生きてるんだもんな。調子の悪い時だってあるよな。お前たちも苦労してんだ、俺と一緒だよ……」
背後をうろついていた北斗が、チラシを見ながら憂鬱そうなため息を吐いていた。こんな背後霊みたいな奴が徘徊いては、遠足気分も台無しになる。今日が何の問題もない普通の楽しい遠足だったなら、吉香は北斗をぶっ飛ばしているところだ。
「兄貴、最近疲れているから。少しでも休息できると良いんだけどな」
そんな北斗を横目に、切なそうに見つめながら、米斗が呟いていた。
米斗も何も考えずにボーっと動物を見ているわけではなく、さり気なく千具良の側をキープして、様子を伺っているらしい。
殺気だっている吉香の側に寄ってきて、軽く背中を叩いてきた。
「お前も、もっと肩の力抜けよ。大丈夫だって。俺がついてる」
吉香は目を細めて、米斗を睨んだ。
「うっさいわね。あんたみたいなお気楽男には、何の期待もしていないのよ。そこの変人連中と牧場見学でも楽しんでいなさいよ」
吐き捨てて、吉香は顎で店の外を指した。牛がたくさん放牧されている牧草地の柵の側で、三脚とカメラを立てて鼻息を荒くしている男がいた。
富田とかいう、瓶底メガネのもやしっ子だ。
「徹夜で張り込んだ甲斐があった! いいアングルで写真が撮れそうだ」
「富田。朝見かけないから欠席かと思ったら、昨日から来ていたのか。写真撮るなら、みんなで撮ろうぜ」
米斗が歩み寄ろうとすると、富田は眼鏡を光らせて威嚇。凄まじい剣幕で牽制してきた。
「真昼間から寝言をほざくな。この素晴らしい高解像度レンズに、どこにでも徘徊している何の変哲もないホモ・サピエンスなんぞ、写し込ませてなるものか。僕は今日こそ、この牧場で未知との遭遇を果たして見せるのだ!」
続いて、柵の向こう側の一角を指さす。指の先では、穴の中から這い出てきたモグラが、ヨチヨチと草の上を前進していた。
モグラはずっと地中にいるから、太陽の下に出ると死んでしまう、という説もあるらしいが、半分正しく半分間違いだ。確かに日光や高い気温が苦手なモグラもいるが、日本に生息するモグラはたいてい平気だし、目が退化して太陽の眩しさなんて分からないのだから、地中にいようが地上にいようが、大して問題ではない。
「見たまえ、落合くん。モグラが地面を走っている! これはとてつもなく素晴らしい、何かが起こる前触れだ! 近いぞ、キャトルミューティレーションの起こる日は間違いなく今日だ! チュパカブラも来るかもしれん! 必ずや証拠写真を収めてやる!」
「おお、やっぱり高原のモグラは一味違うな」
このアホ二人は意味の分からん感動を露にしているが、吉香にとってはやはり、胸騒ぎの原因にしかならなかった。
確かにモグラが地上に出てきてもおかしくはないものの、その確率は非常に低い。かつ、地震が起こる直前に、モグラが頻繁に外に姿を見せるという現象が、過去に幾度か観測されている。
このモグラたちも、近く起こる大災害を予測して、地面の下から逃れようとしているのではないだろうか。
「ともかく、君たちは僕の一世一代の撮影の妨げとなる。いいか、僕が許可を出すまで、周囲五十メートル以内とカメラの正面に立つことを禁ずる! 規則を破ったものは罰として一人一万円ずつ、オカルト研究会の活動費を寄付させるからな!」
その言葉を聞くや否や、富田の周囲から人の姿は消えた。
場所を変えた吉香たちは、遊歩道を歩きながら、遠目に家畜たちの姿を見て回っていた。千具良と牛の間に距離がある分には問題ないが、吉香の心配とは裏腹に、千具良は好奇心旺盛に、やたらと牛に近付きたがる。
もし、牛がほんの僅かでも千具良に触れようものなら、即潰して肉屋に並べてくれる。
牛に殺気を放ちながら、吉香は家畜たちに睨みを利かせていた。
ふと隣に意識を向けると、側で、動物たちを眺めながら戦慄いている男がいた。
「羊、牛、豚、豚、山羊、馬、豚、豚、豚……」
その男は、手当たり次第に視界に入る動物を確認しながら、苛立ちを募らせている。やがて何らかの怒りが頂点に達したらしく、発狂した。
「うがー! 東西南北前後左右、家畜しかいねーじゃねえか! 汚らわしい! 何で牧場には醜い獣しかいねーんだー!」
「牧場ってのは、そういう場所なんだよ。武藤」
男の名は、武藤。またしても米斗のクラスメイトである変人第三号だ。
吉香にとってはどうでもいいが、プロレスが大好きなイスラム教徒らしい。
「俺は群れる奴らが大嫌いだ! 我が家はシーア派だからな、数が多いってだけで威張り散らすスンナ派なんぞの権力に屈してたまるか! 多数決なんてクソ食らえじゃ!」
「あいつ、何言ってんだ?」
武藤の喚きの意味が分からず、米斗は困惑している。面倒くさいが、吉香は説明してやった。
「イスラム教には大きく分けて二つの宗派があってね。スンニ派とシーア派ってのが教えの違いから対立とかしているのよ。信者の数は明らかにスンニ派のほうが勝っているけれど、あまり戒律の厳しくないシーア派のほうが幅広い地域で信仰されているわ」
「ふーん。お前は、イスラームのいじめられっ子なのか。大変だな」
納得しているのかしていないのか、米斗は頷きながら、武藤に同情めいた言葉を吐いた。
「なに、その幼稚な比喩……。舐めてんのかお前は!」
米斗の言葉が怒りの琴線に触れたらしく、武藤は米斗に突っかかった。
「よく分かったな。俺は今、千具良から貰ったペロペロキャンディーを必死で舐めているところだ」
「くわー! 腹立つ! そんな甘ったるい砂糖の塊、俺のスペシャルバーニングチョップで、へし折ってくれるわ!」
武藤の不意打ちの攻撃を、米斗は全て見切って、柔軟に躱す。
「たとえ背骨を折られたとしても、千具良がくれたこのキャンディーは絶対に折らせん」
特に反撃するわけでもなく、のらりくらりと米斗は逃げる。
米斗に避けられた武藤は、拳を振り回した勢いで足元の石に躓き、柵に頭を突っ込ませた。
するとあろうことか、目の前にいた牛が、武藤の頭をバクリと食べた。
「武藤が、牛に食われた……」
流石の米斗も、その光景に唖然としていた。千具良も、地震を起こすほど驚いてはいないが、慌てた表情をしている。
奇妙に牛と接合した、武藤の首から下を見つめていると、吉香の脳裏に、突如として妙案の神が降臨した。
「そうか、この手があったわ!」
牧場にいる全ての牛に別の人間の頭を咥えさせてしまえば、千具良の頭を食おう、などと考える牛は一頭もいなくなる。
つまり、千具良が牛に頭を食べられる心配はなくなり、巨大地震を引き起こす危険もなくなるわけだ。
「おい、真島。何か変なこと企んでいないか?」
吉香の様子が変わったと気付いた米斗が、制止にかかろうと声を掛けてくるが、もう誰にも、吉香は止められない。
「何とでもお言いなさい。私は地球の未来を救うためならば、どんな犠牲も厭わないわ!」
吉香は既に、戦闘モードに入っていた。
近くで牛と触れ合っていた生徒たちの首根っこを掴み、餌を貰おうと柵に近寄っていた牛たちの口の中に、次々と頭を突っ込んでいった。
「お前も、お前も、お前も入れー!」
吉香の勢いに逆らえず、次々と牛の餌食となっていく生徒たち。突然の奇行に、周囲から悲鳴が上がる。
「何を騒いでいるんだ、真島……」
「貴様も食われろ、ダメ大人!」
騒ぎに気付いてやってきた北斗の頭も、有無を言わさず牛の口にぶっこんだ。
「さあ、次は誰!? 牛はまだまだいるのよ、もっと生贄が必要だわ!」
吉香は高笑いする。自分自身が今、何をやっているのか、頭では何が何だかよく分からなくなってきていたが、妙に気分が高まり、楽しかった。
☆彡 ☆彡 ☆彡
急に暴走を始めた吉香を、米斗はどうすることもできずに眺めていた。
すると側に、息を切らした戸呂音が駆けてきた。
「米斗さん、吉香さんを止めてください! 人工知能の理性を制御する頭のネジが外れて、暴走しているのです!」
戸呂音曰く、昨夜に吉香のメンテナンスを行った際、誤ってネジを一本、閉め忘れたのだという。そのせいで、吉香は我を忘れて暴れはじめたらしい。
「だけど、あんなの、止められるのか……?」
原因は分かったが、穏便に解決できるかどうかは、別問題だった。
米斗は、吉香の背後をとって動きを封じようとするが、如何せん吉香に隙がない。近付こうとすればすぐさま捕まって、牛に向かってぶっこまれる。
うまく懐に飛び込むタイミングが掴めず、米斗は弱りきっていた。
その時、吉香の前に千具良が立ちはだかった。
「何だかよく分からないけれど、吉香ちゃん、落ち着いて!」
千具良は素早い身のこなしで吉香に掴みかかり、その小さい体のどこにあったのか分からないほどの怪力を発揮して、吉香を背負い投げた。地面に叩きつけられた吉香は動きを停止させ、微動だにしなくなった。
気を失ったらしい。
「ナイスです、千具良さん!」
その隙に戸呂音が駆け寄り、首の後ろに素早くネジを突っ込んだ。
「ひとまず、応急処置を致しました……。吉香さん、お気を確かに。大丈夫ですか?」
呼びかけに応じて、吉香はゆっくりと目を覚ました。
「師範代? なぜ牧場に……。あら、私はいったい、何を?」
起き上がった吉香は、何が起こったのか分からない、といった様子で、辺りを見回して顔を顰める。
「まさか、記憶がないとかいう、ありきたりなパターンか?」
問い質すと、吉香はゆっくりと頭を振り、切なそうな表情を浮かべた。
「いいえ、何をしたか、覚えているわ。どうやら、私らしくない、突っ走った行動をとっていたみたいね。何の罪もない牛さんたちに、謝らなくちゃ」
「何の罪もない兄貴や生徒たちにも、とりあえず謝っとかないか?」
その後、牛に食われた連中はみんな救出された。牛は前の上の歯がないから、噛みつかれてもそれほど大きな被害はなかった。
牛の涎まみれになった生徒たちや北斗に、吉香は順番に謝って回っていた。
☆彡 ☆彡 ☆彡
一通り謝罪を済ませ、吉香が米斗たちのところに戻ってくると、千具良が牛の頭を撫でて楽しんでいた。
牛も大人しそうだし、千具良の精神状態も安定している。
吉香の心配は、杞憂だったのかもしれない。何事もなく、一日が終わりそうだ。
少し、安心しかけた矢先。
千具良が油断した隙に、目の前の牛の口が、ぱっくりと開いた。
「千具良、危ない!」
吉香は駆け寄ろうとしたが、間に合わない。
千具良の頭が食われる。その衝撃に、千具良が冷静でいられるはずがない。
驚きのあまり、鼓動が爆発し、地面は崩壊し、地球は滅ぶ。
最悪の未来が、吉香の中でイメージを膨らませた。
だが、そんな最悪の瞬間は訪れなかった。
米斗が素早く、千具良を牛から引き離した。千具良を食べ損ねた牛は、バクリと空気を食べて、そのままモグモグと口を動かし続けている。
一瞬、軽く地面が揺れた。だが、震度1程度の弱い余震だ。大地震の前触れにも程遠かった。
「落合くん……」
「だから、大丈夫だって言っただろう? 俺だって、今まで兄貴に助けられてきたんだ。兄貴がどうやって俺に刺激を与えないように周囲で立ち回っていたか、だいたい見ていたつもりだ。だから、俺にだって、大事な相手のフォローくらい、できる」
米斗は乏しい表情ながらも、吉香に笑いかけてきた。吉香は体の力が抜け、地面に座り込んだ。
「米斗くん、ありがとう。危なかった。また、吃驚しちゃうところだった……」
「気を付けろよ。牛は大人しいけど、興奮すると危ないから」
米斗は、少し動揺している千具良の頭を、優しく撫でていた。千具良も嬉しそうに、微笑んでいた。
「あの二人は、もう放っておいても大丈夫だ」
二人の様子を唖然と眺めていると、側に北斗がやってきた。涎にまみれた頭を洗ってきたらしく、濡れた髪にタオルを載せている。
米斗たちを見る北斗の表情は妙に冷静で、生気に満ち溢れていた。
戸呂音に捕まる前の北斗に、戻ったみたいだ。
「先生も、なんだか憑きものが落ちたような顔をしていますね」
「牛に頭を食われたら、何だかすっきりした。清々しい気分だよ」
戸呂音に注入されまくった怪しい薬剤の成分が、牛の唾液によって中和されたのだろうか。戸呂音はさぞ、がっかりするだろう。
「真島。俺たちが過剰に心配するほど、あいつらは危なっかしい存在じゃなくなっているんだ。自分の本質や在り方を知ったことで、少しずつ成長している」
北斗の教師らしいまっとうな言葉は、妙に吉香の胸に突き刺さった。
「……そうですか。ではもう、こちらの世界で、私の使命は、終わったのですね」
世界の崩壊を防ぐために、未来の世界からやってきた吉香の使命は、無事に果たされたということなのだろう。
歴史の改変は成功し、あの二人は互いに成長しながら、平穏にこの世界で生きていく。
少し、寂しい気もした。役割を終えた吉香は、この先どこに向かい、何を為すべきか。
吉香が生まれた未来の世界に返っても、もう、作り主である戸呂音は死んでしまって、迎えてくれる人は誰もいない。
本当に、どうすればいいか分からなくなっていた。
ロボットのくせに、燃え尽き症候群なんて人間みたいな症状に悩まされるなんて、滑稽だ。
呆然としている吉香に、北斗が笑いかけた。
「使命ならあるさ。二人の友人であり続けるっていう、大事な使命がな。あいつらを面倒で厄介な奴らだと思わずに、温かい目で見守ってやってくれないか」
友人。
心に響く、心地よい言葉だった。
まだ、吉香にもやれることがある。居場所がある?
楽しそうに談話を続けている二人を見て、吉香の頬は綻んだ。
「悪くないかもね」
立ち上がると、吉香の制服のポケットに入っていた、携帯が振動した。
未来の戸呂音が作った、もう一つの世界との交信が可能な特別な携帯電話だ。戸呂音の死を伝えると同時に機能は停止したと思っていたが、今頃になって再稼働し、数か月遅れの主人のメッセージを届けてきた。
『平和な世界で、たくさんの人たちと幸せに暮らしなさい』
その文面を見ながら、吉香は温かい気持ちに包まれた。
戸呂音がなぜ、吉香を女子高生の姿を模して作ったのか。
今になってみると、少し分かった気がする。
もう、幸せな日常には戻れない戸呂音に変わって、この世界で平和に暮らす。
きっと、そんな願いを込めて、戸呂音は吉香を作ったのだろう。
なら、この先の生活もまた、主から託された、大切な使命だ。
「……はい、マスター」
真島吉香の新しい使命は、今日から始まった。
☆彡 ☆彡 ☆彡
一件落着した牧場。
騒ぎも治まり、大きな災害は回避できたと、戸呂音も安心して帰っていった。牧場の臭いが嫌いらしく、あまり留まっていたくないらしい。お陰で北斗は命拾いした。
帰りのバスの時間まで、あと僅か。残った少ない時間、生徒たちは動物たちとの触れ合いを楽しんだ。
米斗も、千具良と一緒に馬を撫でて楽しんでいた。
ペットショップにも足繁く通っているようだし、元来、動物好きなのだろう。扱いにも慣れていて、馬も嬉しそうだ。
二人の様子を、吉香は遠くから眺めていた。
「よーしよし、人懐っこいな。人参食うか?」
米斗は牧場で購入した餌の人参を、馬に差し出した。馬は喜んで、ボリボリと人参を齧る。
やがて勢い余って、なぜか米斗の頭にまでかぶりついてしまった。
米斗は微動だにしなかったが、やはり突然の出来事に、大きなショックを受けたのだろう。
突如として、空から隕石が、牧場に落下した。
尖りのある、楕円に近い隕石だった。そのため、衝突面積は少なく、地面を突き刺し、大きな亀裂を生じさせた。
隕石が降ってくると必ず円形のクレーターができると思われがちだが、落ちてくる隕石の形状に様々なものがあるという時点で、綺麗なクレーターを形成する確率は極めて低い。多くがいびつな形の穴を開けたり、亀裂を生じさせるという説もあるが、詳しい証拠は見つかっていない。
とにかく、今回、米斗が落とした隕石は、轟音と粉塵と共に、牧場の中を貫く地割れを生み出した。
人や家畜たちが、驚いて慌てふためく。
「隕石が落ちたぞー!」
「地面が割れた!」
みんなは突然の出来事に騒ぎ出すが、幸い、人も家畜たちもほぼ誰もいない場所に落ちたため、地割れに巻き込まれた被害者は一人もいなかった。
ただ一人を除いて。
「富田ぁー! 大丈夫かー!」
隕石の落下地点から一番近い場所にいたのは、人払いをして宇宙人を待ち構えていた富田だった。地割れの亀裂は、絶妙に富田の足と足の間を走り、地面を分断して一気に広がっていった。
逃げるチャンスを失った富田は、両足を限界まで開脚させて、地割れの上で踏ん張っていた。
「お股が裂ける! 誰か、助けてー!」
富田のヘルプを受けて武藤が駆け寄るが、あまりにギリギリのバランスを保っているため、下手に動かせない。
困った武藤は、遠巻きの野次馬たちよりも近い位置で亀裂の観察をしていた、吉香に声を掛けてきた。
「おい、お騒がせ無表情女! 黙って見てないで、富田救出を手伝え!」
だが、吉香はその場を動かず、笑みを浮かべた。
「いいの。私はこの世界の行く末を、温かい目で見守るって、決めたから」
「訳の分からんこと言うなー!」
吉香は全ての雑音を遮断し、晴れやかな気持ちで、空を見上げる。
今日も一日が、平和に終わった。




