束の間の休息を壊す者
人質の交換が開始された、二日目のことだった。自由を待つだけだと思われた人間達から、想定外にも面白い提案があった。
『ミイア、こんな身体のおれと結婚してくれてありがとう……。セリオ、お母さんのことを頼んだぞ。二人共、今まで本当にありがとう……』
病衣姿の中年男が、画面の向こうでそんなことを言いながら涙をぼろぼろと流した。首には天井から降りる輪っか状のロープが絡まっており、巨体で腕力自慢の人外が男より少し低い位置でニヤニヤと笑っている。男は背もたれの無い丸椅子の上に立っている為、人外よりも頭の位置が高いのだ。
さようなら。そんなありきたりのお別れを言うと、人外が嬉々として椅子を蹴飛ばした。一瞬の内にロープが男の首を絞め、足場を無くした足が必死にもがく。首をばりばりと引っ掻くも、ロープを血に染めただけ。呆気なく死んだ。
「人間はもっと、生に執着する生き物だと思ってたんだケドなー……」
もごもごと。ハンバーガーを頬張りながら、テュランが言った。ヴァニラも、人間の行動には驚いた。
『自分は身柄の交換には応じたくない。何でもするから、家族にそのことを伝えて欲しい』
主に、先の短い老人。それと、助かりようが無い程に重病の患者が、身柄の引き換えには応じたくないというのだ。短い命の為に、誰かを困らせたくないという美しくもバカバカしい自己犠牲というヤツだ。
そんなワケで、今のような放送が始まった。端的に言うならば、『大切な誰かに別れを告げる権利を得る代わりに、その場で苦しみ死ぬ姿を国中に垂れ流す』というものである。最初は面白かったものの、もう二十人以上が似たような台詞と似たようなリアクションで死んでいくのだ。
「飽きたな」
「飽きたね」
二人の声が綺麗に重なった。流石に飽きる。
「次はガソリンでも掛けて火ダルマにするか……でもガソリンが勿体ないしな。毒ガスは扱いが厄介だし、銃弾もこんなことで無駄遣いしたくない。いっそ高いところから突き落とすか、でもあれって意外と生き残ったりするしな」
ぶつぶつと、テュラン。隣に自分が居ることを忘れているのだろうか。リーダーとしては立派だが、恋人としては如何なものか。
カリカリに揚がった白身魚のフライとか、皮がパリパリでも中は肉汁たっぷりな焼豚とか、ホクホクのコロッケとか。彼が食べていたハンバーガーは、昨日色々と食べ歩いて見つけたヴァニラが一押しの品だった。
で、あるにも関わらず。テュランは特に美味いとも不味いとも言わずに、食べることが苦行だとでも言いたげな表情で無理矢理胃に押し込んで、ジュースで流し込むだけ。
正直、殴りたい。
「はあー……」
溜め息を吐いて。一体どうしたら、何をしたら彼の為になるのだろうか。喜んでくれるのだろうか。テュランはヴァニラにとって初めて出来た恋人だし、異種族の青年なのだ。
何もわからない。いっそ、自分は彼にとって相応しくないのではという自虐にさえ走ってしまう。
「オマエな、カレシの隣で溜め息吐くなよ」
「……誰のせいよ、誰の」
もう、今日はこのまま帰ってしまおうかな。自殺志願者はまだ残っているだろうか、この手で嬲り殺したら少しは気が晴れるかもしれない。そんなことを考えて、立ち上がろうとカウンターに手をついた。
その手を、一回り大きい手が掴む。
「ちょっと、来い」
「え……ちょ、ちょっと!?」
ヴァニラを引っ張って、店を出るテュラン。彼の背中で揺れる大剣を戸惑いの瞳で見つめながら、大人しく従うしかない。
テュランは何も言わない。怒っているのだろうか、具合が悪いのだろうか。いつもの軽口を叩いてくれれば、こちらも言い返せるのに。
何も言わないから、どうすれば良いかわからない。
わからないから、彼に従うしかない
好きだから、嫌われたくないから。
「……ッ」
やばい、泣きそう。熱くなる目頭に、思わず唇を噛んで堪える。いつの間にか、冷やかしどころか喧騒さえも聞こえない廃墟の通りへとやって来た。
そこでようやく、テュランが立ち止まる。
「……ヴァニラ」
名前を呼ばれて、びくりとヴァニラの肩が跳ねる。
しかし、振り向いたテュランの表情は怒ってなどいなかった。
「オマエ、何か俺に言いたいことあるだろ?」
困ったような、そんな顔で。きょとんとしたのは、ヴァニラの方だった。
「……え?」
「いや、何か……無いのか?」
「いや……ある、けど」
食べ物はもう少し美味しそうに食べろ、とか。イチャイチャする場合は時と場所を弁えろ、とか。色々と文句はあるけれども。
「……言っても、怒らない?」
「内容による」
「じゃあ、言わない」
「冗談だって。言ってみろ、怒らねーから」
苦笑して、テュラン。訊いてみたかったことは、確かにある。この襲撃をしてからずっと、気になっていたことだ。
訊いたら、絶対に怒ると思って黙っていたが。彼の方から促したのだから、意を決して訊いてみることにした。
一度、深呼吸をして。
「その……『おねえちゃん』って、誰?」
ハルス病院を奪ってから、今日までずっと。ヴァニラが知る限り、夜はもちろん昼寝の時でさえテュランはずっと魘うなされていた。恐らく彼自身も気がついていないだろう。
案の定、テュランがきょとんと見返してくる。
「……おねえちゃん?」
「そ、そう……おねえちゃん」
「お前には言ってなかったっけ?」
テュランが苦笑した。怒り出す様子はないが、訊かれたくない話だったのは確からしく。彼の足が廃墟と化した街の、更に奥へと向かう。荒々しく吹きすさぶ空気が埃っぽく、あちらこちらに瓦礫が転がっている。
しばらく、無言が続く。枯れ果てた噴水が目印の、ちょっと大きな公園へとやってくると、ようやくテュランが口を開いた。
「……俺が研究所で生まれ育ったコトは話したよな?」
テュランの問い掛けに、ヴァニラが頷く。無事な姿で残っていたベンチに腰掛ける彼の隣を、横取りされないようすかさず陣取る。最も、今は邪魔をする者など居ないのだが。
「おねえちゃんは、俺がまだガキの頃に一緒に居た女の子だ。ちょっと年上の、血は繋がってない」
「その子のこと……好きだった?」
恋人を横目で見ながら、つい訊ねてしまう。そんなヴァニラに呆れたのか、テュランが溜め息を吐きながら肩を落とした。
「おいおい、子供の頃の話だぞ」
「子供の頃でも! ほら、テュランって結構引きずる方じゃん!?」
「そうでもねぇと思う、ケド……」
いや、絶対に引きずる方だ。いつまでも根に持つタイプなのは、付き合い始めてから数か月で嫌というくらいに思い知った。
「んー……好きっていうよりは、憧れてはいたかもな。よく覚えてねぇケド」
顔も、名前も。どんな声で話したか、何が好きかも全然覚えていない。そう話すテュランは、どことなく寂しそうで。
「……その子は、どうしたの? まだ生きてる?」
「さあな」
素っ気ない返事。そして、再び沈黙が二人の間に流れる。
何も話さないまま、彼と過ごす時間は嫌いじゃないが。この静寂は、少々気まずい。
「……裏切られたんだ」
やがて、ぽつりとテュランが言った。それは冬の香りを纏い始めた風に掻き消されてしまいそうな程に小さなものだったが、耳が良いヴァニラにはちゃんと聞こえた。
「裏切られた?」
「一度だけ、二人で研究所から逃げようって話になったわけ。でも、結局はその子だけが逃げた」
「その子だけって……テュランは?」
「情けねぇコトに、途中で転んで立てなくなった」
己の手に視線を落とすと、テュランが自嘲気味に言った。そういえば、彼は情緒不安定なところがある。その中でも特に、手を痛がることが非常に多い。ジェズアルドが言うには、ファントムペインという原因不明の痛みであるらしく、薬などは気休め程度にしかならない。
悔しいことに、ヴァニラにはどうすることも出来ない。
本当に、悔しい。
「あー、でも……裏切られたってのいうのは、流石に被害妄想だな。俺が逆の立場でも、多分同じコトするし」
「あ、アタシは裏切らないから!」
気がついた時には、そう叫んで立ち上がっていた。テュランが驚いた様子で、ヴァニラを見上げてゆっくりと瞬きをした。
「アタシは、テュランのことを絶対に裏切らないから! いつでも、どこでも一緒に居るよ? テュランのこと護るから。テュランが怪我したら、おんぶしてでも護ってあげるから!」
「いや……流石にそれは無理だろ」
「だいじょうぶ! テュランはひょろひょろしてるから、アタシでもお姫さま抱っこ出来ると思う。なんなら、練習する!?」
「お前は俺の心の傷を抉って楽しいか?」
どうやら、ジェズアルドにお姫さま抱っこされたことが余程堪えているらしい。倒れたところをわざわざ運んでもらったくせに、変にプライドが高い。
でも、今はそんなことはどうでも良くて。
「とにかく、アタシはテュランを絶対に裏切らないから」
テュランの両手を掴んで、彼の目をじっと見つめる。冷えたのだろうか、彼の手がひんやりと冷たい。
「アタシは、テュランを裏切らないから。ウザイって言われても、ずっと一緒に居るから。テュランの為なら、何でもする。絶対に、独りになんかさせないから!」
彼が喜んでくれるなら、何でもしてあげたい。いや、何でもしてみせる。そう決めたのだ。
テュランの隣は誰にも譲らない。
「……なんか、さ」
「ん?」
珍しく、テュランの目がヴァニラを見ていなかった。気まずそうに、明後日の方を向いてぼそぼそと喋っている。
「プロポーズ、みたいだな」
「へ……?」
あ、確かに。そう思った時には、既に遅く。幸いなことは、周りに誰も居なかったことだろうか。
そこまで冷静に考えていた思考が、一瞬で沸騰した。
「ぷ、プププロポーズって! そそそ、そんなんじゃないから!!」
「……ヴァニラ」
「て、ていうか! プロポーズって普通、男の方からするものでしょ!? 今のは、なんていうか……とにかく、そういうことじゃ――」
なくて、という言葉は声にはならなかった。今度はヴァニラが、金色の瞳に捕らえられる。
「ありがとう」
擽くすぐったそうに、テュランが笑う。滅多に見せることのない、十七歳という歳相応の表情に耳まで熱くなる。いつもは下ネタやらセクハラやらを駆使していじってくるくせに。
どうしたら良いかわからず、慌てて誤魔化すしかなくて。
「あ、その……アタシだけじゃないからね! ちゃんとジェズさんも一緒だからね? あと、この国に居る人外は皆、テュランの味方だからさ!」
「……そうだな、あいつら皆お人好しで心配性だし。今は独りになる方が難しそうだな」
苦笑して、テュラン。しかし次の瞬間、真顔になってはっきりと言った。
「でも、ジェズはどうでも良い」
喧嘩でもしたのだろうか。
「そ、そういえばさ。そのおねえちゃんって種族……何?」
手を握ったまま、再びヴァニラがテュランの隣に腰を下ろす。擽ったい空気が耐えられず、咄嗟に話題を変えようとして。
深くは考えなかったから、心の底から気になっていたことがそのまま口から飛び出してしまった。
「種族?」
「そう、種族」
果たして、テュランが憧れたという少女の種族は何だったのか。それはもしかすると、彼の好みのタイプということになるのではないだろうか。
流石に生まれ持った血筋をどうこうすることは出来ないが。参考に、あくまで参考にだ。
「あー、種族か……」
「うんうん、覚えてない?」
「確か……人間だったかな」
「そっかー、人間かー……は?」
あれ、空耳だったのだろうか。しかし、混乱するヴァニラに構わず、というか全く気がついていない様子でテュランが続ける。
「うん、人間だったな。耳も牙も無かったし、お前みたいに変身出来なかったし」
「ちょ、ちょーっと待って。な、なんで人間?」
実際に見たことはないが、テュランが生まれ育ったというアルジェント国立生物研究所は人外の収容所であった筈。
科学者や警備員だったのならわかる。でも、彼が言うには件の人物はテュランより少しだけ年上の女の子だったという。
「……な、なんで人間が研究所に?」
「さあ?」
「いや、さあってアンタ」
「別に、種族とかどうでも良くね?」
「良くない! 超絶重要だから!!」
恐らく、テュランがよく覚えてないだけに決まっている。ということは、そのおねえちゃんは恐らく人間に近い姿をした種族であったのだろう。
いや、でも。もし、おねえちゃんが本当に人間だったとしたら。彼が人間に抱く憎悪は彼女のせいだと解釈出来る。
どちらにせよ、今となっては確かめる方法がない。何より、ヴァニラはあまり考えることが得意ではないわけで。
「まあ、何でも良いかー。今のテュランの彼女はアタシだもんね?」
大事なのは過去ではなく、今なのだと思うことにした。傍らにある金髪に手を伸ばして、触れる。きっと彼は気がついていないが、こうする度に目を細めて気持ちよさそうにするのだ。
本当の猫のようで、非常に可愛らしい。
「ていうか、黙ってれば格好いいのに」
うん、テュランは線が細いものの見た目はなかなかに良い。じっ、と整った容姿を見つめていると、突然目の前の猫が不敵に微笑した。
「何だ、惚れ直したか?」
「へ? わ、わわ!」
明らかに何事か企んでいる腕が、ヴァニラの肩を抱き寄せる。直に触れる彼の温もりに、不覚にも心臓が大きく跳ねた。
「そ、そういうところがイヤだって言ってるのよ! この変態トラ! 時と場所を考えろー!!」
「なんだよ。もっと格好良い俺、見たくねえの?」
どんな自信だ。しかし、彼の言うこともあながち間違ってなかったりするので性質が悪い。しかし、廃墟と化した街とはいえここは屋外である。
「いや、でも……や、やっぱり」
「ヴァニラ」
「そ、そのぉ……ど、どうしてもって言うなら……考えてあげなくもないけど。いや、別に誘ってるわけじゃ――」
「……誰か、居るな」
へ? と間抜けな声が出た。テュランより数秒程遅れて、ようやく気がついた。
――何者だれか、居る。
「……人間、かな」
抱き寄せられたまま、ヴァニラ。囁くような声色は、テュランにだけ聞こえれば良い。丸みを帯びた耳が、ぴくぴくと動いた。
「多分な。一人……いや、離れたところにもう一人居るか」
「どうする、逃げる?」
「そうだなー、俺は病み上がりだし。でも、こんな場所で何してやがるのか気になるよな」
ヴァニラとテュランは、人外の中でも特に五感が優れている。人間がどれだけ気配を顰ひそめようとも、ほぼ無音状態である街並みでは意味を成さない。
息遣いや足音、銃の安全装置を外す僅かな音でさえ聞き逃すことはない。
「そんなに派手な装備はしてないみたいだね。でも……なんか妙な音が聞こえるなぁ」
ヴァニラの耳に届く、奇妙な音。無機質な、しかしそれでいて断続的な音だ。今はまだ、正体が特定出来ない。
……気になる。
「よし、ちょっとからかってやるか?」
口角を上げて、テュランが言った。戦闘は想定していなかったが、テュランは相当気に入ったらしい大剣を背中に担いでいるし、ヴァニラも、人間を一人二人殺す程度なら問題ない準備はしてある。
「距離が結構離れてる……知り合いじゃねぇのかな。変な音の方が距離があるから、こっちから迎えに行った方が良いだろうな。得体が知れない以上、単体を相手にした方が良い」
「テュラン、大丈夫?」
「俺が人間に負けると思うか?」
「あはは、そうだよねぇ」
思わず笑いを零して、ヴァニラがテュランから離れる。そして、意識を頭のてっぺんから爪先まで巡らせて、人から狼へと姿を変える。
駆けるなら、この姿の方が断然速い。
「じゃ、ちょっと行ってくる。テュラン、やばくなったらアタシに構わず逃げてね?」
「バーカ、誰に対して言ってんだよ。それは、こっちの台詞だ」
お互いに顔を見合わせ、笑う。相手がどれだけ強く、容赦が無いかはよくわかっている。
彼を信頼して、ヴァニラは駆け出す。しなやかな足で地面を蹴り、瓦礫を飛び越える。
疾風の如き速さ。純白の狼は廃墟の中を駆け抜け、辺りに意識を向けて集中する。静寂の中に、奇妙な音が聞こえた。
「――見つけた!」
相手が瞬時に銃をヴァニラに向けて、発砲する。引き金を絞る指と銃口を見極めれば、弾丸を避けることなど容易い。
一発、二発そして三発。白い狼は全て避けた。銃を向ける敵も馬鹿ではないのか、それ以上無駄撃ちをすることはなかった。
「……お前は、ヴァニラだな?」
おお、結構イケメンだ。ヴァニラは改めて自分の名前を呼ぶ人間を見上げる。
亜麻色の髪を持つ男はテュランよりも背が高く、肩幅も広く黒いスーツの上からでも逞しい体躯が伺える。精悍な顔付きで銃を構える姿は、人間のくせに中々絵になる。
「そうだけど、アンタは何者?」
少女の姿に戻って、ヴァニラが言う。年上だが、まだ二十代前半というところだろうか。着ているスーツは似合っているが、戦闘に対応出来る優れものであることは間違いない。
ただ、銃以外の装備が見当たらない。
「人間が何でこんな所に居るの? 立ち入り禁止の筈なんだけどなー、殺されても知らないよ?」
挑発的に言いながら、考える。もしかして、身体に爆弾でも巻き付けているのだろうか。そうだとしたら、むやみやたらに攻撃するのは危険だ。
男は臆することもせず、ヴァニラを空色の瞳で睨み付ける。
「……ヴァルツァー大統領の命により、襲撃の首謀者であるテュランを始末しに来た。お前に用はない、すぐに立ち去るなら見逃してやる」
「はあ? あのねぇ……そんなこと言われて、へーそうなんだー。はい、お好きにどうぞー……なんて、言うわけないでしょ」
この男、真面目過ぎていっそ滑稽だ。しかも、どうしてこう人間は人外を格下に見たがるのか。
「アタシ、こう見えて強いよ? 殴り合いケンカだったら、テュランにも負けないんだから!」
その綺麗な顔、ぶちのめしてやる。ヴァニラが言い放つと、男が静かに銃を下した。怖気づいたのだろうか。否、違った。
銃を胸元に戻すと、黒皮の手袋に包まれた両手を軽く握り締め、開く。そんな動作を繰り返す男に、逃げ出す様子は無い。
「……奇遇だな」
「は?」
「俺も、喧嘩で誰かに負けたことは一度もない」
挑戦的な微笑。片手を軽く上げて、ヴァニラに向けて手招きをする。
「かかってこい。身の程知らずがどちらであるか、教えてやる」
「む、むっかつくー!!」
何なんだ、この男は! ここまで馬鹿にされて、黙っていられるヴァニラではない。
「ボコボコにして、二度と女の子を口説けない顔面にしてあげるんだから!」
地面を強く蹴り、一気に距離を詰める。狙うは顔、絶対に顔! だが、流石にそのまま殴られるつもりはないらしい。
ヴァニラが堅く握った拳で頬を殴るより先に、男が右腕で顔を庇う。それでも、ヴァニラの腕力は人間の男なんか遥かに超える。
片腕なんか、顔面ごと簡単に粉砕出来る筈。
「なッ――」
激痛に蹲る男の情けない姿まで想像したのに、出来なかった。痛みを受けたのは、ヴァニラの方だった。
握った指が痺れている。咄嗟に後ろへ飛んで、距離を取る。よろめきはしたものの、大したダメージを受けた様子は無い。
「……なる程、大口を叩くだけはある。これが、ワーウルフか」
「いったーい……アンタ、どんな身体してるわけ!?」
明らかに筋肉の感触ではない。服越しでもわかる、この男は普通じゃない。何かがおかしい。その時、ふとヴァニラの脳裏にあの奇妙な音を思い出した。
金属が擦れあうような、断続的な機械音。一体どこから?
「今度はこちらから行くぞ」
そう言って、男が駆け出す。
「ッ――!?」
身を捩って、間一髪で横に飛ぶ。ヴァニラを狙っていた拳は外れ、コンクリートの壁へと叩き込まれる。はは、ざまあ見ろ。手首が折れるか、拳が粉砕するか。人間ならば、これで右手はもう使えなくなるだろう。
人間ならば。そんな甘い考えは鼻を掠めた異様な金属の臭いと、凄まじい爆音で完全に否定された。
「え……なっ何で!?」
立ち上る土煙に、ヴァニラが噎むせる。砕け散ったのは男の手首などではなく、コンクリートの壁の方だった。鉄骨ごと吹き飛ばすという荒業を見せつけた男は、何事もなかったかのようにヴァニラを見た。
「言っただろう、どちらが身の程知らずか教えてやると。だが……人外と言えど、年下の少女を痛めつけるのは流石に気が引けるな」
そう言って、何を思ったのか男がおもむろに袖を捲り始めた。金属の臭いと、音。不自然なその音の正体が、ようやくヴァニラの前に晒された。
「うげっ!? な、なに……その、腕」
そこにあったのは、金属だった。ヴァニラは機械が苦手だ。だから、彼女にはそれが金属の塊にしか見えなかった。背筋に冷たいものが走る。
金属の塊が、男の腕になっていた。
「俺は、幼い頃に事故で両腕を失った。これはその代わりだ」
ジェズアルドから聞いたことがある。人間は、何らかの原因で四肢を欠損した際に代替品として義手や義足をつける。アルジェントではその技術も最先端であり、一見では生身の腕と見分けがつかない程に精巧なものも存在する。
しかし、男の腕は人の腕に近い形状はしているものの、美容目的の代物だとは到底思えない。材質や強度から見ても、明らかに戦闘に特化させたものだ。
「まさか……サイボーグ、ってやつ?」
テュランが言っていた。研究所では無理矢理に四肢を切断された人外が、人工の腕や足を取り付けられ、更には脳や内臓までも移植させられるという実験が行われていたと。
サイボーグ実験、そう呼ばれていたらしい。
「知っていたか。テュランから聞いたのか?」
「まあね。でも、認めることってことは……アンタの身体、腕だけじゃなくて中身も相当弄ってるんじゃないの?」
「治療費を払ってくれたのはヴァルツァー大統領だ。あの方は、腕を失い両親にまで捨てられた俺に腕と役目を与えてくれた。あの方が望むなら、俺は何でもする」
「ははーん、その辺りは気が合うなぁ」
この男は、ヴァルツァー大統領に恩がある。だから、彼の為なら自分の身体などどうなっても良いというわけか。恋愛感情は絡んでいないが、そこはヴァニラと通ずるところがある。
「でも……こっちも、引くわけにはいかないんだよねぇ!?」
ヴァニラが地面を蹴る。腕力は敵いそうにないが、速さはヴァニラの方が上だ。一か八か、男の懐に飛び込み思いっきり肘を打つ。
感触は固いが、機械のものではない。男が息を詰まらせ、ヴァニラを薙ぎ払おうとする腕を瞬時に狼になることで回避する。
「ふうーん? 胴体は生身みたいだねぇ。足はどっちも機械っぽいけど、これならなんとか勝てるかなぁ」
距離を取って、ヴァニラが嘲笑う。狼と少女の姿を使い分ければ、かなり有利に戦えそうだ。
顔面を歪めた男に、舌舐めずりする。
「どっちが身の程知らずか、教えてあげるよ」