彼は吸血鬼を憎む
「サヤ、居るか?」
控えめに叩いた筈なのに、グローブを外した剥き出しの義手によるノックはやけに大きく響いた。病院という場所は、どうしてこうも不自然に静かなのか。手足から漏れる金属音が自分の耳に届く程の静寂が、アーサーは苦手だった。
いや、そもそも此処は病院ではない。大統領府が存在するアルジェント第八区、そこに建てられた医療研究機関『セイヴィア』である。
セイヴィア機関はあらゆる薬剤や技術、機器を研究し開発を行うことを生業なりわいとしている。しかし、それはあくまでも表向きの顔であり、裏では最新の医療技術で不正な試験を繰り返す非人道的な実験場である。
どうして非人道的なのかと言うと、此処には被験体にマウス、そして人外さえも使用しない方針であることが理由だ。国の為、などという大義名分で好きなだけ人体実験が出来る。
そんな暗黒で、アーサーとサヤは育てられた。言ってしまえば、此処が二人の家なのだ。
「サヤ……入るぞ」
ドアには鍵がかかっていない。ゆっくりとドアを押しながら、室内の様子を伺う。病室のような、彼女の部屋。長年暮らしているとは思えない程に生活感が無い。
サヤはベッド横の床に直接座り込んでいた。抱えた膝に顔を埋めている為に、表情はわからない。
「大丈夫か?」
「……………」
返事はないが、眠っているわけでもないらしい。アーサーも隣に座って、差し入れに持参した菓子の小箱を置く。水羊羹は甘いもの好きな彼女の一番の大好物である。
いつもは何か大きな仕事をこなした後の労いに贈るのだが、今回は事情が違っていた。
「大統領から、その……例の件について再度出撃要請が出ている。だが……嫌なら、拒否して貰っても構わない。きみは体調不良だと言い張れば良い」
「…………」
サヤは何も答えない。無理もないか。彼女には悪いが、彼女の過去のことを調べさせて貰った。そして、サヤが幼少期に人外として生物研究所に連れ込まれ、テュランと出会っていたことを知ったのだ。
人間と人外の違いは、国によって基準が異なる場合が多い。アルジェントなどは数年前に漸くはっきりとした基準が設けられた程で、昔はその区分がもっとあやふやだった。
ゆえに、サヤは超能力という人ならざる力を持っていた為に、人外という枠に押し込められてしまった。
「きみがテュランに対してどういう思いを抱いているかはわからないし、それを咎めるつもりはない。親しかった相手を殺害せよなどという命令に従う必要も無い。だから――」
「彼が殺されるのを、黙って見ていろって言うのね」
ゆっくりと、サヤが顔を上げた。両目とも赤く腫れている。ずっと泣いていたのだろう、声も掠れていた。
「私……あの襲撃でトラちゃんを殺せたら、すぐに私も後を追おうと思っていたの」
ぼそぼそと喋るサヤに、アーサーは動揺した。いや、予想はしていた。彼女は責任感が高く、仕事でちょっとしたミスを犯す度に罰を受けようと自ら進言する程だ。
自分が助かる為にテュランを見捨てた結果、彼が殺戮に狂った。その責任を取って、否、彼に対するケジメとして命を捨てる。実にサヤらしい行動だと思う。
「彼を見捨てて、私だけがのうのうと生きるだなんて……そんなの、絶対に許されない。私が私を許せない」
「サヤ、落ち着いてくれ」
「彼を狂わせてしまったのは私のせい! 私が悪いの、トラちゃんは悪くない!!」
金切り声を上げて、サヤが髪を掻きむしる。ぎょろりと見開いた双眸は血走っており、その剣幕はまるで鬼のよう。尋常ではない様子に慌てて彼女の手首を掴み、止めさせる。長く艶やかな黒髪が数本、はらはらと床に落ちた。
「……トラちゃんは悪くないの。あの子は凄く気が弱くて、でも本当に優しくて……大好きだったのに」
両腕をだらりと下ろして、力無く項垂れるサヤ。そのことは、アーサーも改めて資料を読み返して来たから知ってはいる。
だが、アーサーが実際に対峙したテュランに気弱な面影は無かった。しかも、負傷しているにも関わらず、痛みを感じていないかのように凶悪な大剣を振りかざしていた。接近戦に置いて、彼のようなタイプが一番手強い。
左の義手を軽く握る。ヴァニラとの遭遇により、義手と義足にかなりのダメージが出た。約半日をメンテナンスに費やした上に、結果的に左腕は肩から取り替えることになってしまった為、何となく違和感が残るがこのまま暫くは我慢するしかない。
いや、違う。アーサーが感じている違和感は、自身の義手に対してではない。
「……臆病だったテュランが、どうして此処まで変わったんだ?」
テュランに向けられた仕打ちは確かに、アーサーから見ても目を背けたくなる程に醜悪なものだった。だが、資料によれば彼は自殺未遂やパニック状態には幾度となく陥っているものの、他者や物など外に怒りをぶつける行動は皆無であった。どちらかというとテュランは内側から壊れていくタイプなのだろうと思われる。
そんな彼が、此処まで攻撃的になることなんか有り得るのか。いや、人間に激しい憎悪を抱いていたのなら何かをきっかけにして感情を爆発させることくらい、何もおかしいことではない。しかし、それでもやはり今のテュランと資料に記された彼とは余りにも結び付かない。
では、一体何がきっかけとなり彼を豹変させた?
サヤと再会しても少しも心を揺らさなかった理由は何だ? 何が原因だ? 否、そうではない。
一体、『誰』のせいだ?
「……俺が思うに、テュランは確かに人間に憎悪抱いていた。だが、こんな復讐へと背中を押した存在が、彼の近くに居るんじゃないか?」
アーサーの言葉に、サヤが顔を上げる。人外には人間のような権利が与えられない以上、此処までの被害を出したテュランは捕まれば必ず殺される。だから、こんな考えは何の意味も無いのかもしれない。
だが、アーサーの中には仄暗い思考が渦巻いていた。
「ヴァニラは……恋慕の情はあるようだが、それゆえにテュランを変に焚き付けるよりは傍で見守る、もしくは護ろうとするタイプだろう」
拳を合わせてみて――なんて言ったら、流石にサヤも思うことがあるだろうから口には出さないが――ヴァニラは人間を憎んでいる、というよりはテュランを傷付ける人間を警戒していると考えた方が良さそうだ。
ならば、ヴァニラ以外にテュランの傍に居る者が彼を殺戮へと誘った筈。
――あいつしか、居ない。
「吸血鬼……ジェズアルド」
それは不老であり、長寿の種族。吸血鬼は強大な力を持つ上に狡猾で、特に恐れられている人外である。
そして、アーサーにとっては因縁の存在。
「ジェズアルド……指名手配もされていない吸血鬼なら、そこまで脅威とは思えないけれど」
ぼそぼそと、サヤが呟く。吸血鬼は自尊心の高い者が多く、世界に名を知らしめることが一種のステータスだという風潮がある。だが、それは精々二百歳程度の若い吸血鬼だ。
本当に恐るべき力を持つ吸血鬼は、その程度で喜んだりしない。
「サヤ、吸血鬼には年齢とは別に『階級』が存在することを知っているか?」
階級? サヤが力無く首を横に振った。吸血鬼は年齢を重ねるに連れ力を増していき、人外の中での格が上がっていく。だがそれとは別に、吸血鬼の間では古より続く階級というものが存在する。
「奴等の階級は、いわゆる『血の濃さ』で決まるとされている。現在、世界で広く勢力を伸ばしているのは『貴族』と呼ばれる上流階級。そして、貴族の下僕に当たる『隷属』の二つだ。隷属というのは、貴族が人間や他の人外との間で繁殖を繰り返した者。つまり、元々の吸血鬼の血が薄くなった者程、弱体化した隷属となる」
そして力の弱い隷属は、悪食化も早く吸血鬼の間でも差別の対象となる。無理もない。奴らにとって、隷属の吸血鬼が増える程自分達の力が衰えていると見せ付けられるものはないのだから。
「しかし、問題はこの二つではない。実は、貴族の上に『純血』と呼ばれる上の階級がある」
「純血?」
「純血は貴族や隷属に比べたら遥かに数が少ない。此処数百年に渡って目撃情報は殆ど無く、絶滅したと考える学者達も多い。だが、今でも存在するならば、その力は貴族を遥かに凌駕するだろう。悪食化は起こらないことから、不老不死であるともされている。不気味なのは、純血が直接的に起こした事件は少ないということだ」
どれだけ調べようとも、純血の吸血鬼は表立った動きを残さない。だからと言って、奴らが無害であるというわけにはならない。
「純血は狡猾に、間接的に人間を……いや、時には人外も巻き添えに破滅へと誘うんだ。洗脳なんて生易しいものではない。甘言で惑わし、快楽で誘う。そうして出来上がった玩具を使って、悠久に与えられた時間の暇潰しとして遊ぶ」
「……まさか、ジェズアルドは純血の吸血鬼!?」
アーサーの話に、サヤが瞠目する。その可能性は十分に考えられるものであった。
襲撃があってから、十数の人外を尋問した。テュランとヴァニラの情報は数多く入手出来たものの、ジェズアルドに関しては未知と言っても過言ではない状況であるのだ。
曰く、ジェズアルドは一度も殺戮に参加していない。彼は戦場に赴くことはあっても、銃を撃つどころか手に取ることすらしない。ただ敵の位置を見極め、それを指示したことはあった。それだけ。
曰く、彼は相当高齢で力のある吸血鬼であるにも関わらず、それを誇示しようとはしない。手柄は簡単に他者へ譲ってしまうし、むしろ他の者を立てるような振る舞いばかりしている。
それはまるで、舞台の演出を手掛ける監督のよう。あくまで目立つことはせず、事の成り行きを見守る者。
そう、これは――時を持て余した吸血鬼の、ただの暇潰し。
「そんな……それじゃあ、トラちゃんはジェズアルドに利用されている、だけ? 人形のように、遊ばれているだけだと言うの!!」
サヤの細い手が、アーサーの胸元を掴に怒鳴った。ぎちぎちと、シャツが鈍い悲鳴を上げる。こんなに取り乱すサヤは見たことがない。それだけ、テュランに思い入れがあるのだろう。
だから、アーサーは敢えて言い放つ。
「……状況的に、その可能性は有り得る」
「……ッ!!」
声にならない悲鳴を上げるサヤ。アーサーの胸元を掴む手が、ぶるぶると激情に震えている。彼女に突き付けられた可能性が、どれだけ残酷なものか。アーサーには想像するしか出来ない。
だが、捕らえようによっては、むしろこれは好機なのだ。
「テュランがジェズアルドに良いように操られている、今回の襲撃の首謀者はテュランではなくジェズアルドである。……これを決定付ける為には、もっと確かな情報が必要だ」
「……情報?」
「ジェズアルドが真の首謀者であるなら、テュランを始末したところで何の意味も無い。だから、テュランを生きたまま捕える必要がある」
ジェズアルドの近くに居る、という条件ならばヴァニラでも合致する。だが、彼女はきっと捕えることが出来たとしても、テュランや人外達の不利になるようなことは絶対に喋らないだろう。
ならば、テュランの『弱点』に賭けるしかない。
「捕獲した人外達は、ジェズアルドと一番行動を共にしているのはテュランだと言っている。ならば、テュランを捕らえて情報を聞き出すしかない。純血である可能性を残したまま、直接ジェズアルドに接触するのは得策ではないからな」
「で、でも」
「それに、もしテュランがジェズアルドの意のままに動かされているのだとしたら、全ての元凶はジェズアルドということになる。そう考えれば、テュランの罪はかなり軽くなると思わないか?」
アーサーの考察は極論である。しかし、道理でもある。それはサヤにも伝わったらしいが、彼女は自分の中に抱く罪に頑なであった。
「……トラちゃんは、きっと何も喋らないと思う。今の彼には、拷問も自白剤も何も効かないわ」
端麗な容姿を自虐的な笑顔に歪めて、サヤが吐き捨てる。それにはアーサーも同意するしかない。先日遭遇したテュランには、それだけの強さがあった。
でも、だからこそ。
「サヤ、きみがテュランを説得するんだ」
我ながら、なんて酔狂なことを言っているのだろうかと思う。人外を説得するだなんて、国民が聞いたら笑い飛ばすか激怒するだろう。
サヤは、どちらでも無かった。ただ、ぽかんと間の抜けた表情でこちらを見るだけ。不謹慎だが、こんな彼女の表情は初めて見た。なかなかに新鮮だ。
「……無理よ。もう彼は、私が知っているトラちゃんじゃない」
「今のテュランは確かに狂っている。簡単には聞く耳を持たないだろう……だが、それはヤツの心が弱いという何よりの証拠なんだと思う。ジェズアルドが関わっているのなら尚更だ。でも、きみの声ならば彼に届くかもしれない」
逆に言えば、サヤが説得出来ないのならテュランは間違いなく死刑だ。ここまでの被害を出したのだ、数日もしない内に掃討作戦が開始されるに違いない。
そうなれば、きっとサヤは壊れてしまう。
「俺は……テュランを心底恨んでいる。もう一度あの顔を見たら、怒りに任せて殴り殺してしまうかもしれない。だが、きみが悲しむ姿を見る方が……俺にはきつい」
「……アーサー」
「テュランがどれ程の極悪人でも、サヤにとって大切な存在ならば。俺は全力でサポートする。テュランを捕獲……いや、俺達で保護しよう。上手くいけば……上手くいったとしても、ヤツが二度と太陽の下に出るのは難しいだろうが、それでも命だけは助けられる筈だ。俺も大統領や各所に頼み込むから。一緒に頑張ってみないか?」
サヤの肩に手を置いて、その双眸を見つめる。彼女の肩は細い。一体これまで、この華奢な肩でどれだけの悲しみを背負ってきたのかはわからない。
それでも、彼女は僅かに笑って見せてくれた。
「……うん、わかったわ。私も、多分このままだと……きっと、後悔すると思う」
ぽつぽつと、喋り始めた彼女に相槌を打つ。
「正直に言うと、トラちゃんに会うのが怖い。彼の言葉が、今まで負ってきた傷のどれよりも痛い……でも、このままじゃ……駄目だっていうのもわかってる」
「……ああ」
「……ありがとう、アーサー。もう一度だけ、頑張ってみる。今度こそ、トラちゃんを助けたい」
「俺も出来る限りで協力する。頑張ろう、サヤ」
互いに励ましあって、気持ちを新たにする。事態は一刻を争うが、何はともあれまずは腹ごしらえから。差し入れを食べる前に顔を洗ってくると、サヤが立ち上がって部屋を出て行った。
足取りはまだふらふらとしているが、瞳には強い意志が戻った。もう彼女は大丈夫だ。
「……すまないな、サヤ」
だからこそ、アーサーの胸中は複雑だった。サヤとテュランの過去に、思わないことがなかったわけではない。ほんの少しだが、テュランを憐れにも感じる気持ちさえある。
でも、もう迷わない。
「すまない……きみ達を、利用させて貰う」
立ち上がって、窓際に歩み寄る。角度は違うが、見慣れた灰色の景色が広がっている。
彼女は、今までの言葉はアーサーの善意から生まれたものだと思っているだろう。
それは、違う。むしろ、正反対の悪意が根源だった。
「紅い髪……紅い瞳の、純血の吸血鬼。やっと、やっと見つけた」
呟く声色は、不穏な響きを纏って。サヤには断定を避けたが、アーサーが独自で調査した限りではジェズアルドは間違いなく純血だ。
いや、純血と言うと語弊がある。アーサーの読みが正しいなら、それは多くの吸血鬼の頂点であり始祖にあたる者。
そして、この世界に存在する中で最も強大な罪人。
「『真祖カイン』……絶対に逃がさない。貴様は俺が必ず殺す。失ったこの両腕と、家族の恨み。許さない……刺し違えてでも、殺してやる」
かの吸血鬼に、この手で復讐を果たす。その為なら、大切な相棒でも何でも利用してやる。最低だと罵られても構わない。罰なら後で幾らでも受ける。
ぎちぎちと、義手が軋むほどに握り締めて。アーサーは一人、眼下に広がる景色の中に居るであろう宿敵への憎悪を滾たぎらせた。




