後編
その三角定規の謎に気がついたのは、七夕が明日にせまった七月六日の日曜日の夜だった。
ついに昨日、我が川村家にも笹が登場した。
私の背丈よりもちょっと大きいくらいの笹なのだが、幸太が折り紙で作ったたくさんの飾りをこれでもかと身にまとって、大きさの割にかなり賑やかないでたちになっている。
あとは、短冊に三人の願い事を書いてぶらさげれば完成だ。
今年の願い事は何にしようかなあ。
またしても進まない算数の宿題を広げて、ぼんやりと考えていた私の背中に、
「おねぇちゃん、ねぇねぇ。」
と、小さなかたまりがどしんとぶつかってきた。
小学一年生とは言え、その重みと衝撃に私は思わず目を白黒させた。
何とか背中から幸太を引っぺがすと、
「なに、どうしたの?」
と振り向いた私の目の前に、白い三角定規がにゅっと突き付けられた。
私は突然のことに驚いて声が出なかったのだが、すぐにその近すぎる三角定規に焦点を合わせようと努力してみた。
しかし、やっぱり近すぎてどうにもピントが合わない。
私は寄り目になりながら、
「何?どうしたの??」
と聞いた。
すると幸太は、
「裏になんか書いてあるの。ぼく、ちょっとしか読めない。」
と言った。
「え?」
私はその白い三角定規を小さくて柔らかい幸太の手からそっと取ると、裏返してみた。
そこには少し小さめのきれいな字で何かメッセージのようなものが書いてあった。
私はその字を見た瞬間はっと息をのんだ。
「うそ…。どういうこと?」
私はあまりの驚きにすぐには声が出なかった。
それは忘れもしない、お父さんの字だったのだ。
三日前、私がヒステリックに叫び幸太がわんわん泣いたあの日の夜。
ようやく炊けたご飯を三人で食べていると、ふとお母さんがこんなことを言った。
「そうだ。幸太にプレゼントをあげようかしらね。」
私はお母さんの突然のその発言に、正直「?」という感じだったし、何で幸太だけとつまらなく思う気持ちもあった。
幸太は相変わらず無邪気に、
「プレゼント、プレゼント!何?」
とはしゃいでいる。
その笑顔を見ていると、さっき自分が泣かせてしまった引け目もあり、
「幸太、良かったね!」
と、私はつまらなく思う気持ちをしまい、お姉ちゃんらしく声をかけた。
幸太はそわそわしながら、「うん!」と叫んだ。
お母さんは箪笥の一番上の引出しを開けると、ごそごそと何かを取り出した。
そこは私も開けないし、幸太はまだ手が届かない引き出しだ。
一体どんなプレゼントが出てくるのかと期待に胸を膨らませる幸太と、それを見守る私。
二人の視線がお母さんの取り出した「それ」に注がれた。
しかし、それは思ったよりもずっとずっと小さくて、薄べったかった。
一体なんだろう?
興味津々の私と幸太に、お母さんはそれを手渡した。
幸太の小さな手に預けられたそれは、三角定規とコンパスのセットだった。
三角定規の入った不透明なビニールケースの上に、プラスチックケースに入ったコンパスを乗せて、えんじ色の上品なリボンで結んである。
でも、プレゼントっぽいのはリボンだけだった。
何の変哲もない三角定規とコンパスだ。
一つ変わっていることは、その三角定規が白いということ。
私の持っている三角定規は透明だし、友達もみんな透明のものを使っている。
こんな色の三角定規、あったんだ。
幸太は無邪気に、
「あ、この三角の、ぼく知ってる!おねぇちゃんが持ってるやつだよ!」
と元気な声で叫ぶ。
私は、
「なんだあ、三角定規かあ。つまんないの〜。」
とは言ったものの、本当は肩の力が抜けたというか、ちょっぴりほっとした気分だった。
私には面白くも何ともないプレゼントだったが、幸太はなぜか大喜びしている。
でも、幸太はまだ一年生だ。
三角定規とコンパスを使うにはまだ早い。
なのに、お母さんはなんで今これを幸太にあげたのだろう。
しかも誕生日でも何でもない今日、突然。
私の頭はハテナでいっぱいだ。
当の幸太は、三角定規とコンパスを何に使うのかもわからないくせに、
「おねぇちゃんと一緒。一緒。」
とにこにこしてはしゃいでいる。
全くのんきなものだ。
「幸太。その三角の定規とコンパスは先が尖っていてとっても危ないから、振り回したり人に向けたりしちゃ絶対にだめよ。」
お母さんが使用上の注意をする。
幸太は神妙な表情でこくこくと頷いている。
その妙に真面目な顔がおかしくて、私は思わず噴き出してしまった。
結局その日はリボンを解くことなく、三角定規とコンパスはそのまま幸太のお道具箱の中にしまわれた。
そして、その三角定規が私の目の前に突き出されたのはつい先ほどの出来事。
裏には何と、懐かしい懐かしいお父さんの字で何かメッセージのようなものが書き記されている。
簡単だけど漢字も少しだけ混じっている。
幸太がまだ読めないわけだ。
私はドキドキした。
予期せぬ何か秘密めいた気配を感じて、胸がわくわくと弾んだ。
幸太が、
「おねぇちゃん、なんてかいてあるの?よんでよんでぇ!」
と大きな声で騒ぎ出したので、私は焦った。
まだお母さんにはこのお父さんからの秘密メッセージのことは、何故だかもう少しだけ内緒にしておきたかった。
ちらっと台所に目をやると、お母さんは夕飯の仕度に忙しそうで、私と幸太のやり取りには気が付いていないみたいだった。
私はホッと小さく息をつくと、そのメッセージを読み始めた。
― 幸太の三角定規と幸乃のペンダント。
ふたつの力が押入れのすみで合わさったとき、あらたな宝ものが見つかるだろう。
パパより、愛をこめて。 ―
何これ・・・。
これはメッセージというよりまるでなぞかけだ。
お父さんからの温かいメッセージのようなものを期待していた私は、風船のように膨らんだ胸がしゅんとしぼんでいくのを感じた。
一体これはどういう意味なの?
ふたつの力?押入れ??
この謎を私は解けるのだろうか。
解けなかったら、お父さんからの時を越えたこのメッセージは何の意味もなさなくなってしまう。
私は何だか緊張してきて、さっきとは違う感じで胸がドキドキし始めた。
「なあに、なぁに!」
とさっきから私のTシャツの裾を引っ張りながらしきりに説明を求める幸太に、私は小声で言った。
「お父さんからのなぞなぞだったよ。どういう意味かなあ?」
幸太はどんぐりのような目を真ん丸に見開いて、きゃーと嬉しそうに手足をバタバタさせた。
はしゃぐ幸太に、私は神妙な顔で説明する。
「幸太のこのじょうぎと、おねぇちゃんのペンダント。このふたつの力があわさると、宝ものが見つかるんだって。」
「えーっ、たからもの!!なに〜?」
幸太はすっかりはしゃいでしまっているので、声がどんどん大きくなっている。
私は慌ててシーッと人指しゆびを口に当てた。
お母さんが、
「どうしたのー?」
と台所から声をかけてくる。
「何でもない!幸太となぞなぞして遊んでただけ!」
私は手をぶんぶんと振ると、何でもないのジェスチャーをしてごまかした。
お母さんは「ふうん、そ。」とだけ言うと、また夕飯の準備に集中し始めた。
私は胸をなで降ろすと、お父さんからのメッセージの謎について考えた。
幸太が、
「おねぇちゃんのぺんだんと、ぺんだんとっ。」
と私の机の上をゆび指す。
そうだ。
私のペンダント。
お父さんに貰った、大事な大事な三角形のペンダント。
夏の大三角形をイメージしたという三角の銀のプレートに、真ん中より少し下、ちょうどはくちょう座のおしりのあたりに流れ星が彫ってある。
お父さんが知り合いの芸術家に頼んで作って貰ったものらしい。
お父さんは私が小学校に入学した年の夏、このペンダントを私にプレゼントしてくれた。
「これは幸乃ために作って貰ったんだ。この三角形はお父さんとお母さんと幸乃。真ん中の流れ星は幸太だよ。」
そう説明すると、私の首にそのネックレスをそっと掛けてくれた。
だからこのペンダントは私にとって、唯一のお父さんの忘れ形見なのだ。
幸太の三角定規と、私のペンダント。
取りあえずその二つを目の前に並べて置いてみる。
この二つが押入れのすみで合わさった時。
よし、次のステップは押入れだ。
私と幸太は押入れを勢いよく開けた。
押入れのすみ、押入れのすみ…。
イメージでは上の右はじ?いや、左はじ?
ええい、全然わかんないから取りあえず右はじだ!
で、押入れのすみでどうすればいいの??
そこまで来て私は一気に勢いがなくなってしまった。
やっぱりわかんない。
二つの力を合わせるってどういうことなのかな。
う〜ん。うう〜ん。
すると幸太が「おねぇちゃん!みてみて〜!」と私の横腹をべしべしと叩いた。
「ちょっと待って、今考えてるから。」
と幸太の手を軽く払う私に、なおも幸太は「みてってばあ!」としつこい。
「なに!」
と半ば怒り気味に見ると、幸太が三角定規とペンダントを組み合わせていた。
三角定規の真ん中の三角の穴の部分。
その穴の中に、私のペンダントがほぼぴったりにはまっていた。
二つの力を合わせたときっていうのはこのこと?
ということは、これを押入れのすみに当ててみると何かわかるかも…。
私は三角定規の直角になっている部分を、押入れの角にはまるように当ててみる。
すると流れ星が右下に向かって流れ落ちた。
もしかしてこの流れ星が秘密を解くカギかもしれない!
そうひらめいた私は、流れ星をたどってみた。
しかし、流れ星の先は押入れのただの右壁で、何もあるようには思えなかった。
これは何か違う気がする。
そうか。
この流れ星がちゃんとそのままの向きで流れるように三角定規を置ける場所。
もしかするとそれが答えにつながるのかも…。
そして、その場所はこの押入れの中に二つしかない。
上段下側の右はじか、下段下側の右はじだ。
私は、まず上段の右端に当ててみた。
すると、ぴったりと当てはまった三角定規の真ん中の私のペンダントの中の流れ星が、うまく右上から右下へ流れるかっこうになった。
よし、これでどうだ!
どこに宝ものがあるの?
幸太も横で目をらんらんと輝かせている。
流れ星をじっと見ていた幸太が突然叫んだ。
びっくりした私も思わず「わっ!」と叫んだ。
幸太が流れ星の流れの軌道を、指で描いていった。
それは下段の布団の中に消えていった。
その下段にきれいに畳まれてしまわれている布団。
それは、お父さんの使っていた布団だった。
去年の大掃除の時、私がその布団を干そうと提案したがお母さんはこう言った。
「いいの。そのお布団はまだお役目を終えていないから。」
私は、お母さんがまだお父さんが死んでしまったことが悲しくて、干す気になれないんだと思っていた。
でもまさか。まさか…。
お母さんが言っていた『お役目』とは、このことだったの?
私と幸太は顔を見合わせると、えいっという掛け声と同時に布団の底に潜り込むようにして、布団の下を手でまさぐり始めた。
小さな幸太はもうほとんど布団の中に埋まってしまっている。
私も暑くて苦しくて、息が出来ない。
その中で、私と幸太は死にものぐるいで何かないか手をあちこちに伸ばして探しまくている。
すると、私の手の先に布団でも床板でもない感触があった。
もしかして!
私はその何かをつかんで引っ張りだした。
それは、青い空色の封筒だった。
封筒には、
「幸乃へ」
そう書いてあった。
私は言葉を失った。
それは三角定規と同じ、お父さんの字だった。
お父さんが、私に手紙を…?これが宝物?
一体いつ書いたもの?
何が書いてあるの?
いいこと?それとも悲しいこと?
何でお母さんでも、幸太でもなく、この私に。
頭の中に色んなことが浮かんできて、喜んでいいのか良くわからなかった。
でも、なんでだか涙が出そうになった。
気がつくと、お母さんと幸太が横にいた。
幸太は「おねえちゃんにお手紙!なあに?よんでー!」
と興味津津だ。
するとお母さんが幸太を諭すように言った。
「幸太。これは、おねえちゃんにあげるプレゼント。幸太はこの間あげたでしょう?だからこれはおねえちゃんにあげよ!」
私はゆっくりと顔をあげると、お母さんを見た。
その顔は普段テレビで恋愛ドラマを見てきゃぴきゃぴしたり、乙女チックな洋服を着て鏡の前に立ち「どう幸乃!かわいいかな?」とか言っているお母さんとは全然違った。
全てを分かっていて、そして私を包み込むような優しい目をしていた。
きっとお母さんはこの手紙のこと、全部知っていたんだ。
でも私たちに一言も言わず、その時が来るのを待っていた。
ただ黙って。静かに。
その事実は、お母さんがちゃんと大人なんだってことに思えた。
だって私だったらそんな秘密、絶対黙ってなんていられない。
それも何年もなんて!
静かにただ見守るように優しい秘密を守り続けたお母さん。
それは、やっぱり私なんかにはまだ絶対出来ないことで、私はお母さんをすごいと思った。
いつもお母さんのこと、子供で、私の方がずっと大人なんだって思ってた。
そんな私の方がずうっとずうっと子供だった。
私は一体何を思いあがっていたんだろう。
お母さんが私の肩を抱いて、
「幸乃。それはお父さんとお母さんからのプレゼント。いつ読むかもどうするかも、幸乃の自由だからね。」
と言った。
私はもう胸が温かさでいっぱいになって、不覚にもまたうるうるしてしまった。
その後の夜ごはんの間中、私はまるで上の空だった。
幸太が色々話しかけてきたが、何と答えたのか全く覚えていない。
お風呂に入って、幸太が寝た後。
静かになった部屋で私は手紙を読むことにした。
お母さんはちゃぶ台で家計簿をつけている。
私は自分の勉強机の引出しを開けると、さっき大事に閉まった空色の封筒をそっと取り出した。
はさみで中の手紙を傷つけないように封筒の端をていねいに切ると、手紙を取り出した。
封筒とお揃いの、青い便箋が数枚出てきた。
私は少し緊張した。
ドキドキしながら折りたたまれた便箋を静かに開いた。
― 幸乃へ
幸乃。おまえはもう何歳になっているのだろうか。
もう中学生かい?それともまだ小学生かい。
幸乃の成長をお母さんと一緒にずっとずっと見ていたかったけど、
どうやら無理そうです。
こんな弱いお父さんでごめん。
本当にごめん。
幸乃。おまえはしっかり者のお姉ちゃんだからこそ、お父さんは
伝えておきたいことがたくさんあります。
だからお父さんは、おまえに三つの約束を残したいと思います。
守るか守らないかはおまえの自由だよ。
でも、読むくらいはしてほしい。
お父さんからのお願いだ。
ここで一枚目が終わっていた。
体調が良くない中一生懸命に書いたせいだろうか、文字がところどころ震えたように乱れていた。
お父さんがあの病室で、一人でこの手紙を書いている姿が目に浮かんできた。
私は切なくなって、何かに耐えるように目をぎゅっと閉じた。
一呼吸して目を開くと、二枚目を読み始めた。
まずはその一。
しっかりしないこと。
その二。
家族を大事にすること。
その三。
自分を大事にすること。
他にもたくさんあるんだけれど、この三つは守ってほしい。
おまえはお姉ちゃんだからって、しっかりしようとし過ぎている。
でも、お父さんもお母さんも、おまえにしっかりしてほしいなん
て思っていないんだよ。親にとって子供はいつまでたっても子供
だ。おまえが大学生になっても、お嫁にいってもだ。だから、い
つまでも甘えればいい。それはちっとも恥ずかしいことなんかじゃ
ない。当り前のことなんだから。
おまえはそのうち、お母さんや幸太のことをうっとうしいとか、
放っておいてほしいとか思う時が来るだろう。もしかしたら、今
そうかもしれない。これも誰でも皆が通る当り前の道だ。だから、
もしおまえがそう思ってしまったとしても自分を責める必要はな
い。だけど。お母さんがどれだけおまえのことを大事に大事に思っ
ているかは、お父さんは本当に良く知っている。それに、幸太は
おまえのことを必要としているだろう。
だから、家族のことをうっとうしく思う日が来ても、絶対に傷つ
けるようなことはしないでほしい。言葉は言った本人も、言われ
相手にもトゲのように刺さって傷つけてしまうことがある。
だから幸乃。注意するんだよ。
おまえがもっともっと大人になったら、きっと大切な人が出来る
だろう。お父さんはぜひともその人と会ってみたかったけれど、
出来なくなりそうなのでおまえを信じるしかない。
大切な人ができると、自分のことよりもその人のことを優先させ
てしまうことがあるかもしれない。
だけど、幸乃。けして自分を見失わないでほしい。
おまえが自分を大切にすることは、お前を大切に思うお母さんや
幸太を大切にすることにもなるんだから。
最後に、幸乃。お願いがある。
お母さんと幸太に伝えてほしい。
パパはいつまでもずっと、みんなのことを見守っているからと。
パパは大好きな空にみんなより一足先に探検しにいって来るよ。
困ったとき、悲しいとき、うれしいとき、つらいとき、空を見て
ほしい。
お父さんはいつでも空からお前たちを見守っているから。
大好きだよ、お母さん。幸太。そして、幸乃。
いつまでも家族仲良く、幸せに。
それがお父さんの一生の願いです。
毎年天の川に願うのはそのことだけでした。
それでは幸乃。
また会う日まで。
父より ―
最後の方はもう涙でほとんど読めなかった。
お父さんからの手紙。
ほんの紙切れ何枚なのに、ここに詰まっている優しさと厳しさ、そして愛はなんてたくさんなのだろう。
それに、お父さんのこの手紙の内容は、私がもう少しで失ってしまうところだった大事なものを思い出させてくれた。
本当に、何て素敵なタイミングでこの手紙は私のもとに届いたのだろう。
お父さんは本当に空から見守ってくれているんだ、私はそう思った。
企画締め切りの7日中に書ききれなかったために、エピローグをつけたいと思います。本当に申し訳ありません。ご迷惑をお掛け致します。