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天の川  作者: 青井ハナ
1/3

前編

ささのは さ〜らさら〜

ふんふんふんふん ゆれる〜

お〜ほしさ〜ま

き〜らきら

き〜んぎ〜んすなご〜


幸太が歌っている。

大嫌いな算数の宿題をやっていた私の耳に、そのたどたどしい歌声はいやがおうにも入ってくる。

なにせ6畳が一間と台所があるだけの狭い家だ。

どこにいたって親子三人が何をしているか、何を喋っているかすぐにわかってしまう。

友達はみんな「一人部屋」とやらを持っているらしい。

私も早く自分だけの部屋がほしいけど、そんなことは私にとっては夢のまた夢。

だいたいそんなわがままを言ってお母さんを困らせるほど私はもう子供じゃない。


「おねぇちゃん、おねぇちゃん。何やってるの?一緒にやろうよ〜」

幸太が私の横にべたんと座って覗き込んでくる。

手にはキラキラ光る銀色の折り紙を持っているが、指紋がべたべたついて鈍い銀色になってしまっている。

今年私と同じ小学校に入って来た幸太は、もうすぐ来る七夕のために折り紙でわっかだとか貝殻だとかを一生懸命に作っている。

まだ肝心の笹は我が家に登場していないが、そろそろお母さんが買ってくるのだろう。

幸太は七夕をすごく楽しみにしているから、待ちきれなくて飾りだけ先に作っているようだ。

一緒に作ってあげてもいいけれど、この算数の宿題もやらないといけない。

だいたいさっきからちっとも進んでないし…。


「幸乃〜、ちょっとお鍋かき混ぜて〜」


頭の中で算数の宿題と笹飾り作りを天秤にかけて「う〜ん」と唸っている私の耳に、今度は台所からお母さんの呼び声が聞こえてきた。

この狭い我が家では『聞こえなかった』は通用しない。

私はテーブル、いや、ちゃぶ台と言った方がいいかも、から動かず台所に向かって、


「今日はだめ!だってこの宿題やっていかないと明日ワニオに怒られるもん。」


そう叫ぶ。

ワニオというのはうちのクラスの担任のこと。

ワニみたいにごつくて怖い顔をしているから、みんな「ワニオ」って呼んでいる。

小学生のネーミングなんてみんなこんなものだ。


そんな私の主張を聞いていなかったのか聞かなかったことにしたのか、

「幸乃〜早く早く!焦げちゃう〜!!」

とマイペースな催促の呼び声。


「はぁ…。」


私は溜め息をつく。

やっぱり一人部屋、ほしいなあ…。

などと悶々と考えている私の眉間には知らず知らずのうちにしわが寄っている。


「はぁ〜。」


もう一度小さく溜め息をつくと、横で幸太が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。


「おねぇちゃん、どうしたの?」


「何でもないよ。ちょっとテツガクしてただけ。」


首を傾げる幸太の頭をぽんと軽く叩くと、私は算数のドリルをパタンと閉じて台所へ行き、少しだけ底が焦げた肉じゃがをかき混ぜて弱火にする。

横を見るとお母さんは真剣な顔で、キャベツの千切りをすべく包丁と格闘している。

白のフリフリのエプロンを愛用していて、いい歳してかなり夢見がちなところがあるうちのお母さん。

最近では私の方がよっぽど大人。

そんな気がする。


さてさて、算数の宿題はもうお風呂の後にしよう…。

そうあきらめた私は、お母さんが揚げているトンカツの手伝いをする。

幸太は嬉しそうに「ごはん、ごはん!まだ〜?」とお母さんのお尻にぺったりと張り付いている。


これがいつもの川村家の光景だ。




「いただきま〜す!!」


今夜の献立は母イチ押しのトンカツとキャベツの千切り、そしてちょっとだけ焦げた肉じゃが。あとはご飯とおみそ汁。

今日はお肉があるぶんいつもの献立に比べて少々豪華だ。

幸太は喜んでトンカツにかじりついている。

その必死な姿は我が弟ながらなかなか可愛らしい。


幸太とは5歳年が離れているので何かと私が面倒を見なくてはいけないし、正直うっとうしいと思うこともある。

でも、焦げた肉じゃがをお箸でまどろっこしくつかみ上げながら、

「おねぇちゃん、こげててもおいしいよぉ。」

とにこにこしている幸太はやっぱりかわいいな、と思う。


どれどれ、と私も焦げた肉じゃがを口に入れてみる。

うん、こげた肉じゃがも意外と香ばしくて美味しいじゃない。

なんて生意気を言いながら幸太と笑い合っていると、ふいにお母さんが私に聞いてきた。


「幸乃。天の川、本当に見に行かないの?」


私の胸がドキンと小さく飛び跳ねる。

私は口いっぱいにほおばった肉じゃがを一生懸命飲み込むと、何でもないふうを装いつつさらっと答える。


「うん。行かない。だって7日は全校集会だし、体育もあるし。」

「ふぅん、そっか。そうだよね。じゃあ仕方ないね。」

「うん、ごめん…。」


今年はお姉ちゃんが行けないからお家で七夕パーティーしようか、と幸太に話しかけるお母さんの顔はやっぱり寂しそうだ。

胸がズキンと痛んだ。

でも、でも、仕方ない。

だって今年は学校を休むわけに行かないし、いつまでも家族行事だけを大切にしていくわけにいかないんだから。


私は自分の決断を頭の中から慌てて消すように、ご飯を必死にかき込んだ。





三年前にお父さんが死んだ。

天文学者だったお父さんは、空と星が大好なロマンチストだった。

大学の星空研究会とやらでお父さんとお母さんは運命的に出会って、ダイレンアイをして結婚したらしい。

お母さんもお父さんに負けず劣らずのロマンチストだから、我が家はいつも素敵なことや素敵なイベントで溢れていた。

その一つが、毎年七夕の夜には必ず天の川を家族みんなで見に行くことだ。

七夕の日が平日の時は、私も幸太も学校と幼稚園をお休みした。

もちろん理由は誰にも内緒で『風邪』、ということになっている。

天気が悪くて星が見えないことも多い七夕の夜だけれど、川村家は天の川を求めて見える所まで出かける。

ある年は奥多摩、ある年は長野まで。

私は小さくて覚えていないけれど、東北の湖まで行ったこともあったらしい。

みんなで寝袋にすっぽりと入って寝ころぶ。

そして、夏の夜空にかかる天の川を見ながら、


ささのは さ〜らさら〜


と歌った。


お父さんは天の川にかかる夏の大三角形を指さして、

「あの星、わし座のアルタイルがお父さんだ。こと座のベガ、あの星がお母さん。さて、幸乃はどれかな?」

と私に聞く。

私は元気よく、

「デネブー!!」

と答えて、はくちょう座の中で一番光り輝く大きな星を指さす。

お父さんは私の頭をわしわしと撫でると、「良く出来ました」と褒めてくれる。

それが無性に嬉しくてくすぐったかった。

幼い私にはなんでお母さんの方が私より小さなこと座で、私がはくちょう座なのかわからなかったが、とにかく家族みんなで見る夏の夜空が大好きだった。

幸太が生まれてからは、はくちょう座の一番おしりの小さく光る星を幸太だ、とお父さんは言った。

三つの星の三角形の中に囲まれて、はくちょう座のおしりで小さく光る星。

三人で大事に守っていかないといけないよ、と言うお父さんの言葉は私の胸にすうっと入ってきた。

私は隣に転がっている幸太を見ると、にっこりと笑う。

幸太も笑う。

お父さんもお母さんも笑う。

そしてみんなで目を閉じて願いごとをする。


― 家族四人、いつまでも仲良く楽しくいられますように。―


その願いごとは叶わず、三年前の冬にお父さんは肺炎をこじらせて死んでしまった。

風邪を引いて今回はちょっと大変そうだな、そうなふうに思っていたら急に入院することになり、その時は私もお母さんも驚いた。

でもまさか死んでしまうなんて思わなかったから、私はお父さんに何にもしてあげられなかった。

病院にお見舞いに行っては、調子に乗ってペラペラと一方的に話し続けた。

学校でのこと、幸太のこと、好きなアニメのこと。話すことは尽きなかった。

そして、たまに星の話をせがんだ。

「いつ帰ってくるの?」とはしゃぎながら聞くと、お父さんは優しい目をして私に言った。

「幸乃。パパがいない間、お母さんと幸太と仲良くするんだぞ。」

それは私の質問の答えにはなっていなかったけれど、私は「うん」と答える。

だってお父さんの口調はなぜだかとても真剣で、まるで私に諭すようだったから。


その日の夜。

お父さんは容体が急変して、私たち三人を残してあっけなく死んでしまった。


私が小学三年生、幸太が幼稚園に入った年の冬だった。



その翌年の七夕も、去年の七夕も、お母さんと幸太と三人で天の川を見に行った。

でも今年は行かない、私はそう決めた。

お父さんとの思い出のあるこの行事ももう卒業することにした。

というか、卒業しないといけない。

そんな焦りのような気持ちが何故だか芽生えていた。

本当に、ナオやノンちゃんと一緒に七夕集会で司会をすることになっているし、いつまでも家族で天の川を見に行くために学校を休むわけにいかないし。

みんなのことはもちろん大好きだけど、私はもうそんなに子供じゃないんだ。


だから、お母さん、幸太、ごめんね。

そして、お父さん。

ごめんね。





次の日。


私が学校から帰ってくると幸太は家にいなかった。

ランドセルと帽子があるから、一度帰ってきてからケンちゃん達とでも遊びに行ったのだろう。

お母さんはまだお仕事で帰って来ていない。


よし、今のうちにナオとの交換日記を書いちゃおう。

私はテーブルの上に交換日記と色とりどりのペンをばらばらと並べて、今日の学校でのちょっとした事件だのワニオのことだのを書き始めた。

どれも取るに足らないような下らない内容だが、私たちにとっては貴重な情報交換と笑いのネタなのだ。

書くのに熱中していたために時間を忘れていた私は、ふと時計を見るともう六時を回っていた。

外はまだ明るいが、幸太が帰ってこないことに少し不安を感じた。


遅いなあ。

どうしたんだろう。


携帯がピカピカ光っていることに気がついて、ピンクの機体をパカッと開くと新着メールが一件あった。

お母さんからだ。


『幸乃ごめん!ママの交替の人が遅れるみたいで、もう少しかかります。終わったらすぐ連絡するから!ご飯だけ炊いといて〜』


こういうことはたまにあるから別に驚かない。

お母さんはお父さんが死んじゃってから、お仕事をたくさんするようになった。

夢見がちで乙女みたいなお母さんがちゃんとお仕事出来るのかなあ、と心配したけれど、結構頑張ってるみたい。

お母さんは連絡のためと、護身用という理由で携帯電話を買ってくれた。

でも、登録はお母さんと緊急時のためのおばあちゃんの家だけ。

いつもお友達と話す必要があるなら、家の電話にかければいいでしょ。

そう言って私の携帯を堂々とチェックするのだ。

中学生になったら友達の番号もたくさん登録してやるんだから!

と私が密かに企んでいることはまだ内緒だ。



お米を研ぎ終わって時計を見るともう六時半を回っていた。

まだ幸太は帰って来ない。


いつもならお母さんが遅くたって、ご飯の支度をしたり宿題をやったりして全然平気だ。

でも、今日は幸太がいない。

そのことが私を無性に心もとなくさせた。


どうしたんだろう。

いくら何でもちょっと遅い。

だいたい幸太はまだ一年生だ。

友達だってみんな六時には家に帰るし、今までこんな時間まで帰って来なかったことは一度だってなかった。



遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。


私は一瞬時が止まったように固まった。


サイレンの音はだんだん小さくなり、遠くに消えていった。



幸太…。

まさか川に落ちたりしてないよね?

知らない人に連れて行かれたりしてないよね?

まさか車にはねられたり…。


背中がぞわりとして小さく身震いした。

胸が急に早鐘のようにドキドキ鳴り出して、頭の中が悪い考えでいっぱいになった。

手にはべっとりと汗をかき始めて、もう何も手に付かなくなっていた。


私は一人で台所に立ち尽くしていた。


さっきまで何であんなに普通に日記を書いたりお米を研いだり出来ていたのか、今となってはもう思い出せないほど気が動転していた。

周りの空気が急に薄くなった気がして、息がしづらくなって胸が苦しくなった。


どうしよう。

どうしよう!


頭の中を悪いことがぐるぐると回り始め、私はいてもたってもいられなくなり携帯をつかんだ。

お母さん!!

リダイヤルのお母さんの番号にかけようとするが、指が震えてうまく押すことが出来ない。

やっとかけることが出来たが、コール音が虚しく鳴り続けるだけでお母さんの声はいつまでたっても聞こえない。

無機質な音声が留守番電話サービスに接続することを伝えると、私はもどかしい思いで電話を切った。


どうしよう!


焦った私の頭に次に浮かんだのは、おばあちゃんの顔だった。

おばあちゃん!

そう思った私はとっさにおばあちゃんに電話をかけ始めたのだが、コール音が1回鳴ったところで慌てて電話を切った。

だって、ここから二時間もかかる所に住んでいるおばあちゃんに電話をかけたところで、心配と迷惑をかけるだけだ。

やっぱりだめだ。私が何とかしなくちゃ。


私は携帯を握り締めたまま深呼吸をした。

少しだけ気持ちが落ち着いて、さっきよりも少しだけ息がしやすくなった気がした。


よし、探しに行こう。


やや冷静さを取り戻した私は、そう決心した。

お母さんが心配するといけないからちゃんとメールを打った。

『幸太がまだ帰って来ないから探しに行きます。お仕事終わったら連絡下さい。』

ボタンをうまく操作することが出来ず、いつもより時間がかかってしまった。

お気に入りのピンクの機体が汗でベタベタになっていたが、今の私にはどうでも良かった。


私は携帯だけを握り締めると、急いで玄関に向かった。

慌てていたのでお母さんのつっかけを履いて外に飛び出した。

しかし、サイズも合わなければ履きなれてもいないため、歩きづらくて危うく階段で転びそうになってしまった。

ああ、もうまどろっこしい!

でもこんなんじゃ幸太を探す前に私が事故にあっちゃう。

そう思った私は、はやる気持ちを抑えて階段を上がると玄関に戻った。

カギもかけていなかったことにその時気づいた。


早く幸太を探しに行かなくちゃ!


自分に苛々しながら、私はサンダルを脱ぎすててスニーカーを履こうと玄関にしゃがみこんだ。

でも焦り過ぎていて靴ひもがうまく結べない。

とても気に入ってお母さんに頼み込んで買ってもらったプーマの白とピンクのスニーカーだけど、こんな時はなんでもっと履きやすくないのかとイライラした。

あとちょっと…。


とその時、あることに気がついた。


靴がある。


幸太の靴が玄関に二つある。

幸太のお気に入りのキャラクターの靴と、私とお揃いのプーマのスニーカー。

他には幸太の靴はないはずだ。


なんで?


気が動転している私は冷静に考えられず、一瞬頭の中がパニックになる。


その時、手に握り締めていた携帯が鳴り出した。

お母さんだ、そう思った瞬間着信画面も見ずに通話ボタンを押すと、


「お母さん!幸太が帰って来ないから探しに行こうとしたら、玄関に靴あるの!幸太の靴、二つともあるの!」


といきなり大声でわめいた。

お母さんはぜいぜい息を切らしながらわめく私に、

「幸乃、大丈夫よ。お母さんもうすぐ家に着くからね。靴があるなら幸太はきっと家の中にいるのよ。探してみて!」

と言った。

私はお母さんの声を聞いて、自分でもびっくりするくらい息が落ち着いてくるのを感じた。

「わかった!!」

とだけ答えて、携帯を切る。

そうか、幸太は家の中…。

ランドセルも帽子も靴もあるのだ。

家の中にいるに決まっていたのだ。

何でそんな当たり前のことがわからなくなってしまったのだろう。


私は急速に姉らしさを取り戻すと、狭い家の中をぐるりと見渡した。

隠れるところなんてほとんどない。

トイレ。

お風呂場。

そっと開けてみたが幸太はいない。

他に隠れるところなんて…。

そう思ってまた不安になり始めた私は、狭い部屋を見渡して妙な違和感を覚えた。


なんだ、あれ?


黒い配線コードが一本、押し入れの中から出ている。

いや、正確には部屋の電源にプラグがささっていて、そこから押し入れの中にコードが入っていっている。


いつもそうだったっけ?

いや、あんなのいつもはない!


私は押し入れをおそるおそる開けた。

そこには、たたまれた布団の上に小さく丸まってすやすやと寝ている幸太がいた。

頭の横、押し入れの奥の方に卓上ライトが転がっていて、あの黒い配線コードが伸びている。

私の勉強机のライトだ。

幸太の回りには絵の具だろうか、何かのチューブが何個か転がっている。


幸太の姿を認めた私は、張り詰めていたものから一気に解き放たれた。

いた…。

そう安堵した瞬間、私の中にむかむかとした感情が湧き上がってきて、顔がカーッと熱くなり出した。


私の心配なんて何一つ知らない顔ですやすやと寝ている幸太の体を大きく揺さぶった。

「幸太!幸太っ!!」

ヒステリックな私の声と急に体を揺さぶられたことに驚いた幸太が、ビクッとして目を覚ました。

「おねぇちゃん?あれ、ボク寝ちゃってた。」


私は何だか急に涙が目にうわーっと込み上げてきて、頭の中に幸太に言ってやりたい言葉がマグマのように噴き出してきた。


多分その時の私はものすごい形相をしてたんだと思う。

幸太が私の顔を見て泣き出した。

それを見た私は更に逆上した。

感情のケッカイだ。


「何であんたが泣いてんのよ!私が、私がどれだけ心配したと思ってんのよ!車にひかれたかと思って外に探しに行こうとしたら靴はあるし、お母さんはいないし、電話もつながらないしっ。なのに何でこんなとこで寝てんのよ!!意味わかんないっ!」


幸太はもう私から矢のように降り注ぐ怒声にびっくりしてわんわん泣き叫んでいる。

私ももうわけがわからないくらいに泣きじゃくりながら、押し入れの幸太に向かってさらに声を張り上げ続けた。

いつの間にかお母さんが帰って来ていて、私の後ろから、

「幸乃、もう止めなさいっ。わかったから!」

と止めに入ったが、私の勢いは止まらなかった。


しゃくりあげながら、なおも幸太に向かって叫ぼうとした私の頭の上に、突然冷たいものがばしゃーと落ちて来た。

一瞬にして私の叫びは止まり、思考がショートした。


気付くと私はずぶ濡れになっていた。

足元の畳は水浸しになり、髪の毛の先からはぼたぼたと水が滴り落ちている。

何が起ったがわからず呆然としている私に、お母さんが言った。


「いい加減にしなさい。これ以上言ったら、幸乃も幸太も傷つくから。」


我に返った私は、押入れの中で泣きじゃくっている幸太を見た。

幸太は小さなふっくらとした顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして、ほっぺたを真っ赤にして、

「おねぇちゃん、ごめ、ごめなさいっ。ごめなさいぃ〜」

と泣いていた。

私は我に帰った。自分のしたことが急に恥ずかしくなった。


お母さんが流しの水だらいを持って立っていた。

その空になった水だらいを何も言わずに下に置くと、押し入れから幸太を抱き上げて下に優しく降ろした。

幸太はもう足に力が入らなくてへたへたと畳に座り込んでしまった。

それを見た私も、急に力が抜けてへたへたと座り込んでしまった。


お母さんは幸太と私、二人を抱き寄せると、

「よしよし、二人ともこわかったね。もう大丈夫だからね。よしよし。」

と優しく頭を撫でた。


私はもう本当に体中の力が抜けて、心の底から安心してしまった。

幸太も泣きやんで目をつぶっている。

その真っ赤になったほっぺたと腫れぼったいまぶたを見ると、私は胸がぎゅうっと締めつけられた。


幸太、ごめんね。ごめんね。


幸太の頭をなでると、幸太は腫れぼったくなった目を開けてうるうるしながら私を見た。

その顔を見てまた泣きそうになる私に、お母さんが言った。


「さあさあ、いつまでもそんなかっこでいたら風邪ひいちゃうし、幸太も目が腫れて幼稚園に行けなくなっちゃうよ!久しぶりにみんなで一緒にお風呂に入ろっか!」


私も幸太も「うんっ!」と元気良く返事した。

その声が同時だったので、お母さんがすっごく楽しそうに笑った。



「三人でつかると、やっぱりちょっと狭いねぇ。」

そう言ったのはお母さん。

「そうだね。」

と答えたのは私だけで、幸太は嬉しそうにお母さんと私の間に小さくなって座ってお決まりの鼻歌を歌っている。


ささのは さ〜らさら〜


ちょっと鼻にかかった子供らしい歌声が、川村家のお風呂場に響く。

私は目を閉じて、

「はあ〜。」

と大きく息を吐いた。

今日は大変な一日だった。

本当はほんの一時間ほどの出来事だったのだが、私にとっては一日中だったように感じられた。

でも、温かいお風呂に家族三人でつかっていると、あんなに大変だった出来事もまるで氷をお湯につけたみたいにみるみる溶けていくようだった。


ぐううぅ〜


誰かのお腹が鳴った。


「あれ、幸太。安心したらお腹空いちゃったかな?」


とお母さんが幸太に聞くと、


ぐうう〜


今度は私のお腹が鳴った。

それが何だかおかしくておかしくて、三人で大笑いした。



お風呂から上がると、お母さんが、

「今日は手抜きでこめんね。」

と、お鍋にお湯を沸かしてインスタントのカレーを温めている。

慌てていてお惣菜を買う余裕もなかったのだろう。


私は今更ながら、自分の慌てぶりと幸太をヒステリックに怒鳴ったことを情けなく思った。

しかも、お米を研いだ後炊飯のスイッチをすっかり押し忘れていた私の失態で、腹ペコな三人はまだしばらくご飯にありつけないことになった。

本当に今日はトホホな一日だった。


だけど、お母さんは乙女で夢見がちで私の方が大人なんじゃないかなんて思っていたけれど、それは全然違っていたんだ。

やっぱりお母さんはお母さんで、ちゃんと大人で、自分を大人だと思っていた私の方がよっぽど子供だったんだ。

私も幸太も、まだまだお母さんに守られているんだ。

そのことに気づけただけでも、今日はもしかすると素敵な一日だったのかも知れない。


ね、お父さんもそう思うでしょ?

私は仏壇の上のお父さんの写真にそっと不器用にウインクした。

写真のお父さんがちょっとだけ笑った、そんな気がした。



実はこの夜。

お母さんが幸太にプレゼントしたあるものにはとんでもない秘密が隠されていたのだが、私と幸太がそのことに気が付くのは数日後だった。


七夕企画に参加させて頂いております。

七夕のロマンチックさをうまく描ききれるか心配ですが、後編も頑張りますので、

最後までお付き合い頂けると嬉しいです。

宜しくお願いします!!

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