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ビルを出ると、御鏡は一瞬、何かを考えるかのように立ち止まった。
「どうしたんですか?」
御鏡はそれには答えずに再び歩き出した。方向をくるりとかえてビルの間の路地に入っていった。早苗もその姿を追いかける。
御鏡は何も言わないままに路地を進んでいき、そして、ビルの裏手の角までくると足を止めた。
そこにはさっき中西が説明してくれたように、大きな40キロサイズのプロパンガスが2本設置されているのが見えた。
「確か……さっきのバーナーは中里さんが使っているものと同じタイプのものでしたね」
御鏡は振り返って早苗に訊いた。
「そうです」
「中里さん、ボンベのサイズは?」
「私が使っているのは10キロサイズ(5m3)のものです」
「どのくらいでガスを使い切りますか?」
「えっと……作業が多い時にはだいたい一週間くらいでしょうか。でも、普通に使っていれば10日以上もつときもありますよ」
「中里さんは自分でもバーナーとボンベの接続は出来るんですね」
「出来ないと使えませんから」
「簡単ですか?」
「ええ」
すぐに早苗は答えた。「御鏡さんはやったことないんですか?」
「なんかガスボンベって怖い気がして」
らしくない言葉に早苗は思わず吹きだした。
「怖くなんてないですよ。ひょっとして御鏡さんが灯油バーナーを使ってるのって、ガスボンベが怖いからなんですか?」
「そうです。そうじゃなかったらあんな煤の出るバーナーを使うはずないじゃないですか。ただ、中里さんが言ったように教室を開いたり、デモを行う時にはあれじゃ無理なので、今後どうしようか悩んでたんです」
「事件のことを調べてたわけじゃないんですか?」
「調べてますよ。でも、せっかくここまで来たんですから、仕事にいかせれば一石二鳥じゃないですか」
「はぁ……そうですか」
御鏡の答えを聞いて肩の力が抜けていく。真面目に答えているのがバカらしくなってくる。
「じゃ、行きましょう」
御鏡はそう言うと路地を戻っていく。その背中を再び早苗が追いかける。
「帰るんですか?」
一番町の通りに出てから、早苗は声をかけた。
「いえ、まだです。三村真紀さんはあなたの先生だったんですね?」
「話しませんでしたっけ?」
「話されましたか? ――だとしたら忘れてました。行ってみましょうか」
「行くって……真紀先生のところですか?」
「そうですよ」
「どうして?」
「もちろん8年前の事件について聞いてみるんです」
当然じゃないかという顔をして御鏡は言った。
「ちょ、ちょっと待ってもらえますか」
早苗は御鏡の腕を掴んで立ち止まった。
「なんです?」
「真紀先生に会いに行くのは構いません。その前に一つ約束してもらえませんか? 事件のことを知りたいのはわかります。それでもちゃんと相手の気持ちを考えてあげてもらえませんか。さっきのあの言い方はあまりに失礼です」
「失礼でしたか?」
不思議そうな顔で御鏡は聞き返す。「何が?」
「高野先生は加奈子さんや中西先生にとって大切な存在だったはずです。それを誰かに憎まれて殺されたかのようなあんな言い方」
「ダメでしたか? しかし、はじめから強盗説を唱えていては真相にはたどり着けませんよ。あの工房の場所や当時の状況からして、強盗による犯行と見るのはあまりに無理があります」
「だからってああいう言い方は失礼です。だって……まるであれじゃ高野先生が誰かに恨まれるようなことをしていたようにも感じられるじゃないですか」
「そうですか? そういう意味で言ったつもりはないんですが」
「いえ、聞いたほうはそう感じます」
「そうですか」
それは中西が不快になったことにもまるで気づいていないというような顔だった。その表情に早苗の頭のなかに『サイコパス』という言葉が急に湧き上がった。
「お願いです。もう少し相手の気持ちを考えてください」
御鏡は何を言ってるのかわからないという顔をしながら早苗を見ていてたが――
「わかりました」
と軽く答えた。そして、すぐに――「さあ、行きましょう」
早苗の思いなどまるで気にならないかのように、御鏡は駐車場に向って歩き出した。
ひょっとしたら御鏡は本当に他人の感情などまるで理解出来ていないのかもしれない。
そう思いながら早苗は御鏡の背を見つめた。