5
御鏡の運転する黒いSUVに乗り、早苗たちは仙台へと向かった。
富谷から仙台市街地までなら30分もあれば着くだろう。
(なんか変なことになっちゃった)
助手席に座りながら、早苗は陽子のことを考えていた。陽子は自分の死がこれほどの影響を及ぼすことを考えていたんだろうか。
信号で車が止まった時、ふいにハンドルを握る御鏡が口を開いた。
「LABO……確かそんな名前でしたよね」
「え?」
一瞬、何を言われたのかわからず、早苗は聞き返した。
「藤永さんの工房の名前ですよ。表には看板もかけていなかったみたいですけど、確かそんな名前でしたよね。確か……先日、名刺をいただいたんです」
御鏡はポケットを探って一枚の名刺を取り出すと、早苗のほうに向けて差し出した。その名刺は早苗も以前、陽子からもらったことがある。
早苗は御鏡の手から名刺を受け取った。
『LABO』の「O」の部分はピンクのハートで描かれている。陽子自身がデザインしたのだと聞いたことがあった。
「ええ……それが何か?」
「LABO、それってラボラトリーの略ですよね? ラボラトリー、つまり実験室ってことでしょ?」
「そうなんでしょうね」
早苗は曖昧に答えた。その名前について陽子が語ることはあまりなかったからだ。
「先日、名刺をいただいた時から気になっていたんです。さっきの中里さんの話を聞いてやっとわかりました。それにしても……どうして実験室なんでしょうね」
「どうしてって……」
「作家であれば自分の作品を広く観てほしいとは思わなかったんでしょうか。多くの人に見てもらい、多くの人に自分の作品を好きになって欲しい。作家としてはそう考えるのが普通だと思うんですが」
「さあ……」
早苗はどう答えていいかわからず首を傾げた。
「藤永さんとそういうことについて話をするようなことはなかったんですか?」
「どちらかというと私とは雑談のような話が多かったもので」
陽子は技法については惜しみなく教えてくれたが、自分自身についてはあまり話すことは少なかった。
「なるほど」
御鏡は前を向いたまま小さく頷いた。「藤永さんの工房にはよく行かれてたって言いましたよね?」
「はい、時々」
「そういう時はいつも連絡せずに行くんですか?」
「え?」
「先日、釧路からお帰りになった時も事前に連絡せずに行かれたんでしょう? だから事件のことも知らなかった」
「……それがどうしたんですか?」
「いえ、ちょっと確認しただけです」
信号が青に変わり、御鏡は再びアクセルを踏み込んだ。「三村さんもですか?」
「何がですか?」
「三村さんも藤村さんのところにはよく行ってたんでしょうか?」
「さあ……」
「――ということは、藤永さんの工房で三村さんと会うことはなかった?」
「そう……ですね」
確かに思い出してみると、真紀と陽子が会っているのはいつも真紀の工房で、真紀が陽子の工房を訪ねているところを見たことはなかった。
「そうなると……やはり藤永さんの工房を訪れる人間は限られるってことになりますね」
「何を考えているんですか?」
「藤永さんが亡くなった夜、あの工房に誰が訪ねたかを考えていたんです」
「訪ねた?」
「もし、藤永さんが何者かに殺害されていたとすれば、そう考えるのが自然ですよね?」
「……そうですね」
「藤永さんも教室を開いていた様子はなかったですね」
「やってなかったはずです」
陽子ほどの技術があれば、生徒を集めることは十分に可能だったはずだが、陽子は教室を開くことなどまったく考えていなかったようだ。
「――となると、訪ねた人間はよほど親しい人物ということになりますね」
「どうしてそう思うんですか?」
「藤永さんの工房も、私と同じように古い民家を改造して作られていたようです。1階の居間の部分を工房として使い、2階を住居とされてたようです。広いということは出来ないまでも、それなりにスペースはありました。それでもスペースの多くは作業場として使われており、来客を想定された作りにはなっていませんでした。もちろん中里さんのような訪問者はあったかもしれませんが、あなたは藤永さんにとっては親しい後輩です。そう気を遣うような相手ではなかったでしょう。三村さんも同じです。あの工房を見ると、訪問者を考えた作りにはなっていなかったように思います。つまりあの夜、誰かが訪ねてきたのだとすれば、それは藤永さんにとって気を遣う相手ではなかったということです」
「まさか真紀先生を疑ってるんじゃ――」
「いえ、そういうわけじゃありません。一応、そういう考え方が出来るという話をしているだけです」
早苗は御鏡という人物の評価を少し変えることにした。何も考えていないように見えて、物の見方はまるで刑事のようだ。
車はいつしか北仙台駅の前を通り過ぎ、一番町へと繋がる道を走っていく。
再び、御鏡が口を開いた。
「中里さんの『四季工房』はどういう理由からつけた名前ですか?」
早苗は答えるかどうかを一瞬、躊躇した。あまりに連想ゲームのような形で名前をつけたので、説明がしにくかったからだ。
その早苗を横目で見ながら――
「ひょっとして正岡子規ですか?」
ギョッとして早苗は御鏡の横顔を見た。
「どうしてそれが?」
「中里さんにいただいたカードですよ」
「カード?」
先日、御鏡が工房に来たときにプロフカードを持ち帰ったことを思い出した。だが、そこには工房の意味など書いていなかったはずだ。
「あのカードに鳥のイラストが描かれてましたよね。中里さんの名前の『早苗』に『鳥』をつけて『早苗鳥』。それはホトトギスの意味になります。正岡子規の『子規』とは『ホトトギス』のことです。だからといってそのまま『子規工房』にすると風情がない。そこで『子規』を季節の『四季』に変えたってところでしょうか」
「よく……わかりましたね」
工房の名前についてはこれまでも聞かれたことはあった。だが、プロフカードのイラスト一つでそこまで連想したのは御鏡が初めてだ。
「ちょっと想像力を働かせてみました。やはりそれぞれ工房には意味のある名前をつけるものですね。中里さんが考えられたんですか?」
「いえ、陽子さんのアイデアです」
「藤永さん? なるほど。なかなか頭を働かせる方だったんですね」
御鏡は少し意味深に言った。
「御鏡さんはどうして名前のことを気にされるんですか?」
「名は体を現す……というわけではありませんが、名前には意味があるからです。どうしてその名前をつけたのか、それによってその人の人間性や生き方がちょっとだけ見えたりします」
「じゃあ――」
と、早苗は御鏡の工房の名前を訊こうと口を開いた。だが、それよりも先に御鏡の言葉が先に発せられた。
「ところで中里さんはどうして今の仕事を始めたんですか?」
一瞬、どう答えていいか迷った後――
「私、昔から趣味っていうのがなかったんです。大学を卒業して普通に会社に就職して事務の仕事をしてたんですけど、別に結婚までの腰掛程度にしか考えてなかったし、休みの日は何をするわけでもなく、ダラダラ過ごしてて。28歳の誕生日に、このままじゃいけないなって思ったんです。だから自分に何か合う趣味を見つけようって思ってカルチャーセンターとかにも行ってみたりして、そんな時に真紀先生の教室に見学に行ったんです」
半分は本当だったが、半分は嘘だった。
28歳の年、それは早苗にとって大きな転機となる年となった。当時、3年間付き合った恋人の高梨浩也といよいよ結婚が間近に迫っていた。その前年にプロポーズを受け、結婚準備が進み、いよいよ3ヶ月に結婚となった時、高梨は早苗に別れを告げた。浮気相手に子供が出来たのがその原因だった。
毎日のように泣き暮らした。仕事も手につかなくなり会社を辞めた。そんな自分が嫌になり、何か新しいことを始めようとした。そんな時に見つけたのが真紀の開いていたとんぼ玉教室だった。
「最初からプロになるつもりではじめたんですか?」
「まさか、ただの趣味のつもりです。まさか仕事にする日がくるなんて思いもしませんでした。御鏡さんはどうだったんですか? 最初からプロになるつもりで?」
「そうですね。半々ってところでしょうか」
「半々? プロになる気があったということですか?」
「やるからには中途半端にはしたくなかったんです。プロになるかどうかは別として、そのレベルの作家にはなりたいと考えてました」
「じゃあ、目標には達成してるんですね?」
「そんな甘い世界じゃないのは中里さんだってわかっているんじゃありませんか? ガラスの扱いはなかなか難しいです。他人に評価されるかどうか以上に、自分が納得出来る仕事がまだ出来ていません」
「でも、最近はいろいろなところで名前を聞くようになってますよ」
「まだまだ山あり谷ありです。雑誌に一度や二度、作品が掲載されたからといって順風満帆なんてことはありません」
「そうなんですか?」
「工房といっても名ばかりですしね。まだまだ貯金を食いつぶしている状況ですよ」
それを聞いて、早苗は少しホッとした気持ちになった。自分よりもずっと経験の浅い御鏡にリードされていないことに安心したのだ。早苗自身、とんぼ玉を仕事にしはじめた頃はほとんど収入にはならず、毎日のバイトで生計を立てていた。
「御鏡さんはどうしてこの仕事をはじめたんですか?」
「私も中里さんと同じですよ。何かを残したい、自分しか出来ない仕事がしたい。そういう気持ちが強くなったからです。そういえばこれは、先日、藤永さんにも話しました」
「陽子さんに?」
「ええ。とても興味を持ってもらいました」
陽子にとっても、この御鏡という男の存在は奇妙に映ったのかもしれない。
「じゃあ、御鏡さんの工房の名前、『なおなお』っていうのはどうしてですか?」
「あれは……」
と言いかけた時――「あ、ここに停めましょう」
御鏡は言葉を切って、駐車場へと車を滑り込ませていった。