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昼近くになって、早苗はやっと店を閉めて帰ることを決めた。
ずっと涙をぬぐいながら作業をしていたせいか、目に少し腫れぼったい感覚がある。さすがにもう仕事を続ける気にはなれない。これ以上、仕事を続けるふりをしていても、自分を騙すことは不可能だろう。
朝と同じように箒でコンクリート張りの床を掃いていると、背後でドアの開く音がした。振り返ると、そこに立っていたのは御鏡だった。
「どうも」
御鏡は小さく頭を下げた。「突然、お邪魔してすいません」
「いえ……」
意外な来客に早苗は困惑していた。
「いい工房ですね」
御鏡は工房内を見回しながら言った。「前から一度、来て見たかったんです」
「前から?」
「中里さんのお名前は知ってましたから。良い作家さんがいるなぁと興味を持っていたんです」
「そんなお世辞必要ありませんよ」
「お世辞? どうして?」
「私程度の作家なら山ほどいます。先生の口ぞえでいくつかの展示会には参加させてもらってますけど、まだまだ経験不足なことは自覚してます。私の作品、ちゃんと見たことあるんですか? むしろ御鏡さんのほうが雑誌のコンテストで入選されたりしてるじゃないですか」
本音だった。『御鏡なお』という作家の作品が専門雑誌に掲載されたのはこの夏のことだ。それ以降、さまざまなサイトでその名前を目にするようになった。同じ宮城県出身ということを知って知り合いに何者なのかを聞いてみたが、まったく素性がわからず、ずっと気になっていたのだ。
「私こそまだまだです。今はネットの時代ですからね。ネットで検索すればいろんな作家さんの作品を見ることが出来ます。中里さんの作品には女性らしい温かみを感じます。なんといってもとんぼ玉のファンは女性が多いですからね。そういう意味でも前から興味があったんです」
「ネットの写真は上手に見えるんですよ」
「だから今日、実物を見に来たんです。そういえば最近、ブログを削除されましたか?」
その問いかけにドキリとする。
「え……ええ、パソコンに不慣れなもので、つい間違っていくつか消しちゃいました。元に戻すのも大変そうなのでそのままにしてます」
「そうですか。残念だな」
どうやら御鏡は本当に自分のブログをチェックしていたようだ。
「昔からそう進歩もしてないので」
「そんなことありませんよ。中里さんの花のパーツはとてもクオリティの高いものだと思います。あ、見ても良いですか?」
そう言いながら御鏡は入り口脇に置かれた棚のなかの作品を覗き込んだ。
「ありがとうございます」
「中里さんらしい作品ですね」
御鏡は作品を眺めながら言った。何が『らしい』のだろう……と思ったが、あえてそれを訊こうとは思わなかった。今、御鏡と仕事について議論をかわす気にはならない。
「気に入ってもらえたら嬉しいです」
「これ、もらって良いんですか?」
棚の脇に置いてあるプロフカードを見つけて御鏡が訊く。もともと展示会などの来客者に渡すため作ったものを置いてあったものだ。
「どうぞ」
「中里さんは鳥が好きなんですか?」
御鏡はカードの隅に書かれた鳥のイラストを指し示した。
「そうです。子供の頃、インコを飼ってました。そんなことを聞くために今日、ここにいらしたんですか?」
御鏡は棚から視線を逸らして早苗のほうへ顔を向けた。一瞬、御鏡が誰かに似ているような気がしたが、それが誰なのかは思い出せない。
「実は今朝、家に県警の刑事さんが来ましてね」
「さっき、ここにも来てました」
「そうでしょうね。私の場合は第一発見者、あなたは……身近な知り合いってところでしょう。いや……彼らにとって私は容疑者かもしれません。ほとんど面識もない同業者が第一発見者ってことでかなり疑われてるようです」
「大変ですね」
「いえ、警察に疑われたからといって困ることはありません。それで中里さんは何を聞かれました?」
「陽子さんのことを……」
「私にも教えていただけませんか?」
そう言って御鏡は近づいてきた。「藤永さんのことを。そして、警察が何を話していたかを」
「どうして御鏡さんがそんなことを気にするんですか?」
作業台の片づけを続けながら早苗は訊いた。
「少し調べてみようと思いまして」
その言葉に早苗は驚いて振り返った。
「調べるって……事件のことですか?」
「そうです」
「どうしてそんなことを?」
「あなたに犯人と疑われたみたいなので」
「いえ……あれは決してそういう意味では……」
慌てる早苗を見て御鏡は笑ってみせた。
「冗談ですよ」
「冗談って……」
こんな時に冗談などと言える御鏡の神経がわからなかった。
「昨日、あなたも言っていたじゃないですか」
「私?」
「藤永さんが私と二人展をやるなんて考えられないと」
「だからって御鏡さんを犯人だと言ったわけじゃ――」
「いえ、私もそう思うんです。なぜ藤永さんがそんなことを言い出したのか、それが気になるんです」
「それは……御鏡さんの作品を気に入ったからじゃありませんか?」
慌ててフォローするように早苗は言った。
「いえ、それは考えづらいですね。つい先日まで私は藤永さんとは面識がありませんでした。藤永さんも私のことなどほとんど知らなかったようです。中里さんも驚いたようですが、私は『御鏡なお』という名前で仕事をしているせいか、いつも女性と間違えられます。藤永さんも同じように考えていたようです。私の工房に来て、私が『御鏡なお』だと知って驚いていたようです。もしも、私の作品を気に入ってもらえたとしても、そんな会ったばかりの人間と一緒に展示会を行いたいと思うでしょうか」
「……」
「そもそも藤永さんはあまり展示会などは開いていなかったみたいですね。ネットで検索してみたんですが、ほとんど情報が得られませんでした。そんな人が出会ったばかりの私と展示会を開こうなどとなぜ言い出したのか理解出来ません」
「……」
御鏡の言葉に反論することが出来なかった。
「何かがおかしいんです。私はその理由を知りたいんです」
そう言って御鏡はソファにどっかと腰をおろした。そして、促すかのように早苗のほうを見る。
その瞬間、御鏡が誰に似ているのかに気がついた。倉田だ。もちろん顔や体つきはまるで似ていない。似ているのはその目つきや仕草だ。何かを探るような目線や相手の言葉を引き出そうとするような口調が倉田に似ているのだ。
仕方なく早苗もその向かい側に座った。
倉田に話した事ならば、隠すことなど何もない。
早苗は口を開いた。