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ガラスのラボラトリー(実験室)  作者: けせらせら
2/22

 その夜はほとんど眠れぬままに朝を迎えた。

 気持ちが重かった。

 朝起きて、全てのことが夢であって欲しいと願った。だが、現実は早苗の心に重くのしかかっていた。

 それでも朝、7時半にいつものようにマンションを出ると、苦竹にある工房へとスクーターを走らせる。

 ここに工房を開いたのは3年前のことだ。とんぼ玉作りをはじめて2年が経った頃で、自分の工房を持ってプロの作家になるということは、まだまだ早いのではないかと一ヶ月間悩みぬいた結果の決断だった。

 小さな空き地にプレハブを建てただけの小さな工房ではあったが、それでも自分自身の工房を持てたことは早苗にとって大きな一歩だった。

 あの日以来、外で展示会やデモなどがない限り、ほぼ毎日のようにここで作業する日々が続いている。この3年間、ずっと苦労の連続ではあったが、それでも今ではこの道を歩んで良かったと思える。

 毎朝、どんなに気持ちが沈んだ時でも、ここに来ることで気持ちを奮い立たせることが出来た。

 だが、今日だけはとてもそんな気分にはなれなかった。

 この工房をはじめる時、誰よりも背中を押してくれたのも陽子だった。

 まだ昨夜のことが頭から離れない。

 それでも、工房内を軽く掃除してから作業机の前に座る。

 いつも8時までには仕事をはじめられるようにするのが日課だった。

 壁にかけられているカレンダーに視線を向けた。次の展示会の日程が近づいてきている。それまでに自信持って出せる作品を作らなければいけない。

 だが、きっとこういう気分のままに製作に入っても良い物は作れないだろう。

 これまで作った小さな玉やピンなどを使って少しずつアクセサリーを作っていく。真鍮線の先に小さく作った葡萄玉をマルカンを使ってチェーンに結び付けていく。

 いつもなら細かな作業を続けるうちにしだいに無心になっていくのだが、今日はやはりそれも無理なようだ。

――無心になって徹底的に作り続ける。悩んだ時はそれが一番よ。

 以前、早苗が失恋して悩んでいた時、陽子がそうアドバイスしてくれたことがある。それ以来、悩みがあってもいつもその言葉を胸にやってきた。だが、今日はむしろそんな思い出の一つ一つが胸をしめつける。

 当然のように作業ははかどらなかった。どんな作業をしていても陽子との思い出ばかりが蘇り、いちいち涙を拭いながら作業を続けなければならなかったからだ。

 それでも1時間も作業を続けただろうか。

 ふと顔を上げた時、黒っぽいスーツを着た男が二人で工房を覗き込んでいる姿が目に入った。上背の高い男と、それより少し若く太った大きな男。すぐにその上背の高い男のほうが昨日の刑事であることを思い出した。

 早苗と目が合うと、刑事たちはガラスドアを開けて中へと入ってきた。

「えっと……確か……」

 名前を思い出そうとしたが浮かんでこない。確か帰り際に名刺を渡されたはずだが、それをどこにしまったかも思い出せない。

「倉田といいます」

 すぐに刑事はフォローするように声をかけ手帳を開いて見せた。『倉田俊彦』という名前が確認出来た。もう一人の太った男は根津と名乗った。

「お邪魔しても大丈夫ですか?」

 その大柄な体格やいかつい顔つきはいかにも刑事らしい風貌に見える。

「どうぞ」

 早苗は作業机から離れると、入り口付近に置いたソファに座ってもらうよう倉田を促した。

 倉田は興味深げに工房を見回しながら近づいてきた。

「大丈夫ですか?」

「え?」

「昨夜はあまり眠れなかったんじゃありませんか?」

「はあ……」

 泣いていたのを気づかれるのが嫌で、早苗は目元の涙をそっと拭った。

「あんなことがあったんです。無理もありません」

 早苗のことを気遣うように倉田は言った。だが、そんな理由でやってきたわけでないことは明らかだった。

「今日は事件のことで?」

 早苗のほうから話を傾けた。何を聞かれるのかはだいたい想像がついている。早く済ませてしまいたかった。

「藤永さんについて教えていただきたいと思いまして」

 そう言いながらも倉田は工房内を見回した。「あ、これが材料のガラスなわけですか?」

 作業台の脇に置かれた色とりどりのガラス棒の束に興味を示す。

「そうです。それをバーナーで溶かして作品を作ります」

「この液体は何ですか?」

 今度は根津のほうが作業台の上のビンを指差した。

「それは離型剤です。粘土のようなものです。とんぼ玉を作る際、ガラスはステンレス棒に巻き取りますが、直に巻き取るとガラスが取れなくなってしまうので、その間に離型剤をつけることによって、作品を造った後にステンレス棒から取ることが出来ます」

 いつも初心者に対して説明する内容だった。

「ほぉ、これがバーナーで……下にプロパンガスを置いてるんですか。なるほどねぇ」

 倉田は興味津々という様子で見つめた。

「あの……」

「あぁ、失礼しました。どうもこういうものを見るのは初めてなもので……先日、藤永さんが亡くなられた場所にもいろいろな工具などがありましたが、それがどういうものなのかがまるでわからなくて困ってましてね」

 根津のほうはまだニッパを手に取って――「こんなものも使うんですねぇ」とつぶやいている。

 その姿を横目で見ながら――

「警察は……殺人だと考えてるってことですか?」

 早苗は倉田に訊いた。

「現場からは指紋がほとんど採取出来ませんでした。工房の中も、そして、ドアからも」

「指紋?」

「誰かが指紋を拭き取ったようです。状況などから見て、他殺の可能性も含めて考えています。中里さんもそう思っていたんじゃないんですか?」

「え……まあ……」

 倉田からの強い視線を避けるように早苗は目を伏せた。

「今言えるのは、財布や現金などが残されていたことから、金品目的での犯行ということはなさそうだということです。ところで……」

 と倉田は少し間を開けた。いよいよ本格的な質問が始まりそうだ、と早苗は感じ取った。

「藤永さんと最後に会われたのはいつですか?」

 その問いかけに早苗は再び顔をあげた。

「2週間くらい前です。私が『デザインパーツ』というお店でデモをしているところに遊びに来てくれました」

「デザインパーツ?」

「泉区にある雑貨屋さんです。とんぼ玉の材料やアクセサリー品なども置いてあるので、時々、そこでデモや体験教室みたいなことをやらせてもらうんです。私も以前、そこでバイトさせてもらってましたから」

「そこなら知ってます」

 と根津が言った。「ホームセンターと一緒になってるので、ウチの妹がよく買い物に行ってます。駐車場が広いんで便利なんです」

 倉田は根津の言葉にはさほど興味を示さないまま――

「その時、藤永さんの様子はどうでしたか?」

「別に……いつもとそう変わりありませんでした。あの……どうぞ」

 早苗は二人にソファに座るよう促した。そして、その向かいに自分も座る。体格のいい男二人を前にして、どこか威圧感をおぼえて早苗は身を竦めた。

「何か困ったり、悩んだりしている様子とかはありませんでしたか?」

 根津のほうが少しかすれたような声で訊いた。

「いいえ」

 早苗は首を振った。あの時だけでなく、陽子が落ち込んだり困っている様子を見せたことなど一度もなかった。

「ちなみに藤永さんのお仕事は順調だったんでしょうか」

「そういう話はあまりしたことがなかったもので」

「お二人は同じ仕事をされていたんですよね? それなのに仕事の話をすることはなかったんですか?」

「知り合った頃はそういう話が多かったですけど、私が本格的に仕事にした頃からあえて話題にすることは減っていきました。同じ仕事をしているからこそ、メリハリをつけたかったんです」

 根津はふぅんと言って、倉田のほうに視線を向ける。すると、次にバトンを引き継ぐように倉田が口を開いた。

「藤永さんとの付き合いは長いんですか?」

「5年になります」

「知り合ったきっかけは?」

「陽子さんは、私が通ってた教室の真紀先生の友達だったもので」

「真紀先生? それは三村真紀さんのことですね」

 すでに警察は陽子の人間関係を掴んでいるようだった。

「はい。真紀先生と陽子さんはもともと同じ工房で勉強した仲だって話されてました」

「あなたも藤永さんの工房にはよく出入りしてたんですか?」

「時々でしたけど」

「最後に行かれたのはいつですか?」

「確か……一ヶ月くらい前だったと思います」

 早苗は記憶をたどりながら答えた。

「わりと最近ですね」

「ええ」

 早苗にとってはむしろしばらく会っていなかったといってもいいくらいだ。以前は毎週のように遊びに行っていた時期もあったからだ。だが、刑事たちにそんなことを言ってみたところで役にはたたないだろう。

「確認ですが、事件の夜、あなたはどちらにいらっしゃいました?」

「釧路に行ってました。5日ほど釧路美術館で展示会があったものですから」

 自分も容疑者の一人として見られていることを自覚しながら早苗は答えた。

「ホテルはどちらに?」

「リッチモンドホテルです」

 その答えを聞いて、根津のほうが手帳に書き込んでいる。きっと後でホテルに連絡を取って確認するのだろう。

「じゃあ、昨日は――」

「展示会からの帰りでした。家に帰る前に寄ってみたんです」

「事件の前日の夕方ですが、藤永さんはあなたに電話していますよね」

「はい」

 そのことについて聞かれることも早苗は予想していた。確かにあの日の夕方、釧路にいる早苗の携帯電話に陽子から電話が入ったからだ。陽子の携帯電話にその履歴が残っているのを警察も確認したのだろう。

「どういうお話でした?」

「私、今回の展示会について、陽子さんに話をしていなかったんです。そのため陽子さんは私が留守なのを知らずにここまで来てくれました。でも、私がいなかったので電話してきたんです」

「なるほど」

 頷いてから倉田はポケットから小さなビニール袋を取り出した。そこに赤く光るとんぼ玉が入っているのが見えた。

「それは?」

「藤永さんが亡くなられてるすぐ傍に落ちてました。これは藤永さんの作品でしょうか?」

 そう言って早苗のほうに差し出す。

 それは2センチくらいの大きさで、全体を薄い赤いガラスで作られたレースで覆われているものだった。デザインとしてはありふれたレース玉ではあったが、その正確に巻かれたレースはそれを作った作家が優れた技術を持っていることを示していた。

「さあ……陽子さんがこういうのを作ってたのを見たことがありません」

「では、誰が作ったものかわかりますか?」

「わかりません」

 早苗は首を振った。

「ちなみに……これは高いものでしょうかね? 同じ作家さんとしてどうです?」

「とんぼ玉の値段はいろいろです。安いものはら数千円、それなりに名の知れた作家さんのとんぼ玉は1万円前後で販売されていることが多いですが、そのなかでも人気のある人のものになるとオークションで10万円近くになることもあります」

「誰が作ったかによって価値が変るということですか?」

 少し驚いたように根津が言った。

「そういう作品もあります」

「なるほど」

 倉田はマジマジと手のなかのとんぼ玉を見つめた。「人気の作家さんのものであれば、それなりに高価なわけですね」

「ただ、そのとんぼ玉はさほど特徴がないもので、誰が作ったのかわからないとなると……そう高い金額をつけることは出来ないと思います。五千円から一万円程度というところでしょうか」

「なるほどねぇ、高いとも安いともいえない金額ですね。じゃあ、こっちはどうでしょう?」

 倉田はとんぼ玉をポケットに戻すと、さらに別のビニール袋を取り出した。ピンクの小さなとんぼ玉のついたストラップの先に鍵がついている。それには見覚えがあった。

「この鍵に見覚えはありませんか?」

「ここの合鍵です」

 早苗は素直に答えた。「ここの工房を作った時、陽子さんと真紀先生のお二人に合鍵を渡しました」

 鍵についているストラップのとんぼ玉も早苗が作ったものだ。

「何のために?」

「お二人は私がこの仕事をしていて最も信頼出来る人だからです。それにお二人には時々、ここで私の教室で特別講師としてデモしてもらったこともありました。鍵を渡しておいたほうが便利なんです」

「ちなみにあなたのほうは」

「陽子さんの工房の鍵ですか? 持っていません。その必要はありませんから」

「なるほどね」

 倉田は再び鍵をポケットにしまいこんだ。「しばらくこの鍵はこちらでお預かりさせてもらいますよ」

「何か関係があるんですか?」

「いえ、念のためです。すぐにお返し出来るでしょう」

「そうですか。あの……事件の時って、陽子さんの工房の鍵はかかっていたんですか?」

 少し気になって早苗は訊いた。

「いいえ、事件の時……というより、発見された時には鍵はかかっていなかったと御鏡さんは言ってます。そういう意味では密室というわけではありません。つまり、誰かが侵入して藤永さんを殺害したという可能性も十分に考えられるわけです。藤永さんは誰かに恨まれていたということはありませんでしたか?」

 その質問には少し考えてから早苗は答えた。

「……わかりません」

「では、三村さんやあなた以外で、藤永さんが親しくしていた人をご存知ですか?」

「……いえ」

 これまで何度も工房に遊びに行ったことはある。だが、陽子はいつも一人だった。誰かと一緒にいた姿を見たことはない。

「あまり人付き合いの多い方ではなかったんですかね」

「そうかもしれません」

 倉田の質問にハッキリと答えられない自分に少しショックを受けていた。陽子とは親しくしていたつもりだったが、改めて考えてみると陽子のことをあまり知らないことに気づかされたからだ。

「中里さんはこういう仕事は長いんですか?」

「この仕事をはじめてからは3年になります」

「あそこに並んでるのは中里さんが作られたものですか?」

 倉田はすぐ横の棚に並べられた作品へと視線を向けた。

「そうです。でも、他の作家さんから譲っていただいたものも含んでます」

「すごいですね。よくあんな綺麗なものを作れますね。どうやって作るのかまるで想像もつきません」

 感心するかのように倉田は言った。

「いえ、私なんてまだまだです。上手な人はいっぱいいますから」

「藤永さんもその一人でしたか?」

「もちろんです」

 力をこめて早苗は言った。「私なんて陽子さんに比べたら素人みたいなものです」

「ほお、凄い人だったんでしょうね」

「はい」

 早苗は自信を持って答えた。陽子にはバーナーワークの技術以上に仕事に対する考え方をいろいろ教えてもらった。

「私はそういうものに疎いもので、ガラス作家の先生のことはまるで知らないんですが……藤永さんはさぞかし有名だったんでしょうね」

「あ……いえ……」

 倉田の『有名だった』という言葉には早苗もそのまま肯定することは出来なかった。「陽子さんは、あまり作品を発表することが少なかったので知名度は高くないかもしれません」

「そうなんですか。作家さんもさまざまなんですね。私はそういうものにはどうにも疎くて……」

 そう言いながら倉田は眉間のところを人差し指でポリポリと掻く仕草をしてみせた。

「まあ、普通の仕事とは違いますよね」

「ところでこういう作家さんというのは、どういう形で収入を得てるんですか?」

「私の場合は作品をお店にお願いして販売していただいたり、教室を開いていたり、展示会で販売したり……そんなとこでしょうか」

「それは藤永さんもですか? さきほどの話では作品を発表していなかったんですよね?」

「ええ。陽子さんは展示会などには参加することはほとんどなかったと思います」

「じゃあ、どうやって収入を得ていたんでしょうか?」

 倉田に訊かれ、早苗は言葉に詰まった。

「……わかりません」

 早苗自身、前にそのことを疑問に持ったことはあったが、なかなか陽子に聞くことは出来なかった。

 倉田は少しの間、黙って早苗の様子を見ていたが、それ以上早苗が何も話しだそうとしないようだと見ると諦めて立ち上がった。

「では、今日はこれで失礼します。何か藤永さんのことで思い出したことがあればいつでもご連絡ください。また何か訊くことがあるかもしれませんが、その時はご協力お願いします」

 倉田は丁寧な口調で言うと、昨夜と同じように再び名刺を手渡してから、根津と共に帰っていった。

 緊張していたのだろう。刑事たちを見送った後、ふっと体から力が抜けていくのを感じ、早苗は崩れ落ちるようにソファに沈み込んだ。

 倉田たちがいる間は我慢していた涙が、知らず知らずのうちに目にあふれていた。

「陽子さん……どうして……」

 再び涙が頬をつたって落ちていく。


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