17
午後3時。
早苗、御鏡、倉田の3人は長町の吉田屋に集まっていた。
客の姿がいないのを確認してから、御鏡は勝手に『営業中』の札をひっくり返し、『準備中』へと変えてしまった。
なんとも大胆な行動に早苗は驚いたが、若い夫婦は倉田の存在があるせいか、何も文句も言えずただただ呆然としているように見えた。
「少しだけ時間をください」
倉田が二人に声をかけてから、次に御鏡に険しい視線を向けた。「さあ、御鏡さん、説明してもらいましょうか」
「食事をしながらと思ったんですが――」
「御鏡さん」
倉田の低く通る声が店内に響きわたる。
さすがに御鏡も一瞬、驚いたように小さく肩を竦めたほどだ。そして、仕方ないといように話し始めた。
「藤永さんのカレンダーに書かれた『蜩』の文字、あれはこの店のことだと思います」
「蜩がこの店? どういうことですか?」
倉田はいかにもわからないという表情で御鏡に訊いた。
「藤永さんは言葉遊びが好きだったようです。中里さんの工房も藤永さんが付けられたんですよね。中里早苗という名前から『四季工房』。一見、どう繋がるのかわからない連想で名前をつける」
「じゃあ、蜩にも意味があるっていうんですか? どんな意味が?」
「蜩で思い出すものは何です?」
「蜩……蝉とか……夏?」
倉田は少しイラつきを隠そうとするように指でテーブルをコツコツ叩いている。
「ブー、ハズレです。もう少し文学的にいきましょう」
その言葉に一つの言葉が早苗の頭に浮かび上がった。
「あ……徒然草?」
「そのとおり」
御鏡はニヤリと笑った。「徒然なるままに、ひぐらし硯に向けば……の『徒然草』。書いたのは?」
「吉田兼好……それって吉田屋だから?」
「それだけじゃない。彼女の結婚前の名前は『卜部萌子』、兼好法師の本名は『卜部兼好』なんです。そして、『萌子』は『ホウシ』と読むことも出来る」
「こじつけだな」
「そう、けれど、藤永さんはこういうのが好きだった」
「それで? あの『蜩』の文字がこの店のことだとして、それはどういう意味があるんです?」
「あとはそのままの意味です。夜10時半にこの店の人と約束をしていた」
その言葉に倉田はカウンターに立つ二人に視線を向けた。
「そうですか?」
その問いかけに萌子のほうが首を振る。だが、直樹は何も言わないままに表情を固くしている。
「吉田さん?」
倉田が声をかけるが、直樹は何かを迷っているかのような表情のままで答えようとはしない。
「あの日の夜、あなたは藤永さんと会っているんじゃありませんか?」
御鏡が直樹に向って訊いた。
「……会いました」
搾り出すような声で直樹は答えた。
「直樹くん……どうして?」
「藤永さんにお願いしていたことがあったので」
「お願い? 藤永さんに何を頼んだの?」
萌子は直樹に詰め寄った。自分の夫が事件に巻き込まれているという思いが不安を大きくしているように見えた。
「それは……」
直樹は口ごもった。
「不安に思う必要はありません。吉田さんは事件とは関係ありませんよ」
御鏡が萌子に声をかける。「ただ、ハッキリさせなきゃいけないことがあるだけです」
「直樹さんは何をしたんですか?」
「吉田さんは藤永さんに仕事を依頼していたんだと思います。藤永さんのカレンダーに書かれていた文字、『P10.5』は夜10時半の意味、『蜩』は吉田さんの意味、そして、『納』は納品の意味」
「納品?」
その言葉に早苗が反応した。
御鏡は真っ直ぐに直樹のほうを向いたまま――
「改めてお聞きします。あの夜、あなたは仕事が終わってから藤永さんの工房に行きましたね?」
「……はい」
直樹は少し緊張した声で言った。「でも、俺、あの人のことを殺してなんていません」
「――でしょうね。あなたが藤永さんを殺す理由など何もないんですから。」
と御鏡。
倉田は黙ったまま二人のやり取りを見ている。
「正確には何時頃です?」
「店を閉めた後ですから……10時35分くらいだったと思います」
「何のために?」
「頼んでたものを受け取るためです」
「藤永さんには会えましたか?」
「はい」
「藤永陽子に会ったんですか?」
倉田が横から念を押すように訊いた。
「……はい」
それが何を意味しているのかは早苗にもわかった。
加藤が工房を訪ねたのは10時ちょうどという話だった。その直後、吉田直樹が陽子と会っているということは、加藤の犯行ではないという証明になる。
「いったい何しに行ったの?」
不安そうな表情のままに萌子が訊いた。
「奥さんにも正直に話したほうがいいんじゃありませんか? もちろんまだ少し早いのかもしれませんが」
「早い?」
訳がわらかないという顔で萌子は御鏡の顔を見る。
「ちょっと待っててくれ」
直樹が思いを決めたような顔で萌子に言った。そして、店の奥へと姿を消す。
「きっと藤永さんの作品を受け取りに行ったんでしょう」
「作品?」
「奥さんは藤永さんが小説家だと誤解していたようですが、直樹さんのほうはガラス作家であることを知っていました。頼んだとすれば、それは藤永さんの作った作品です」
「どうしてそんなものを?」
「来月はお二人の結婚記念日だそうですね」
「え……」
その時、直樹が店の奥から再び姿を現した。
その手には小さな桐の箱が握られている。それを見た時、早苗は小さく「あっ」と声を出した。
「来月は結婚して一年だ。おまえのおかげで店もやってこれた。まだまだ、たいしたことはしてやれないが、それでも何かしてやりたかった。だから、藤永さんにこれを頼んだんだ」
そう言って直樹は突き出すようにして、その桐の箱を萌子に差し出した。
萌子がゆっくりとした動作で手を伸ばし、桐の箱を受け取る。そして、少し躊躇うようにその蓋を開けた。
御鏡が横からその箱を覗き込む。
「花玉ですね」
そこには一つのとんぼ玉が入れられていた。ピンクをベースに金箔が巻かれ、さらに白い小花が全体を覆っている。
「綺麗……」
呟くように萌子が言った。そして、そっと手を伸ばし、直樹の手を握り締める。
御鏡は見てられないという表情をして肩をすぼめてみせた。
* * *
店を出ると、御鏡は信号を渡り、真っ直ぐに歩いていく。
早苗と倉田はその後に続いた。
御鏡はさらにマンションの脇を通り、路地を奥へと進んでいく。
どこに向っているかは明らかだった。
御鏡の背を見つめながら、早苗は吉田直樹の話を思い出していた。
直樹が陽子と話をしたのは事件の一週間前のことだった。ちょうど萌子が体調が悪くて早めに帰った日、陽子は閉店間近になって店に現れた。
他に客がいなかったこともあって、直樹は陽子と雑談を交わし、そのなかで陽子がガラス作家であることを知ることになった。
ちょうど結婚記念日が近かったこともあり、直樹は萌子に送るためのプレゼントとして陽子にアクセサリーを作ってもらうよう依頼したのだ。そして、事件の夜、約束したとおりに店が終わったあとで陽子の工房を訪ね、作品を受け取ったのだという。
ただ、その翌日に陽子が亡くなったことを知り、自分が犯人と疑われるのではないかという不安から言い出せなかったのだ。
「また余計なことをしたかもしれませんね」
御鏡は独り言のように言った。「きっと来月の結婚記念日に渡すつもりだったんでしょうね」
「殺人犯に間違われるよりはずっと良いと思います」
早苗がそれに答える。「それよりどうして吉田さんが藤永さんに仕事を頼んだことがわかったんですか?」
「奥さんは藤永さんのことを小説家だと思い込んでました。きっと藤永さんが『作家』という言い方をしたから勘違いされたんでしょう。しかし、吉田さんは違っていました。私が『藤永さんと同業者』と答えたことに対し、アクセサリー作家を思い浮かべた。それは藤永さんの仕事をある程度把握していたことを意味します。それならなぜ、そのことを奥さんに話さなかったのか。そこに秘密にしておきたい何かがあったからです」
「それがあのプレゼントですか?」
「そういうことです。ただ、あれは普通の花玉でしたね。贈り物としてはステキなものかもしれませんが、出来れば藤永さんの本気の作品が見たかったですね」
御鏡は工房の前で立ち止まった。
未だに警察によって張られた黄色い立入禁止のテープが残されている。
「それで?」
倉田が御鏡の背に向って声をかけた。「加藤さんが犯人ではないというあなたの話はわかりました。けれど、あなたが話したいのはそれだけですか?」
「結論から言いましょう。おそらく藤永さんは自殺したんだと思います」
御鏡は背を向けたまま言った。
それを聞いて、早苗は言葉を失った。
「自殺ですか?」
倉田が聞き返す。だが、その声はそれほど驚きの感情を含んでいるようには感じられなかった。
御鏡は振り返った。
「そうです。倉田さんもこれまで殺人ということを断言されたことはない。おそらくはその可能性があるということを考えていたんじゃありませんか?」
「……」
「あの日、藤永さんは加藤さんを11時に呼び出した。きっと扉に彼の指紋を残そうとしたんでしょう。しかし、加藤さんはそれよりも1時間も早く現れた。その後、すぐに吉田さんが訪ねてしまったことで藤永さんの目論見ははずれてしまったんです。もし、吉田さんの指紋が残ることになれば、吉田さんに迷惑がかかることになる。そこで藤永さんは全ての指紋を拭き取った。そして、その後で自殺したんです」
「では、カレンダーに書かれた予定は?」
と倉田が訊く。
「当然、フェイクです。もともと加藤さんに罪をきせようと考えていた藤永さんは、自殺とすぐには判断されないように昼間のうちにあちこちを動き回り予定をいれてきたんです。美容院、旅行会社……どれも彼女が死んだことによってすぐにキャンセルが効くような店ばかりです。ついでに言えば私との二人展も同じでしょう」
倉田は考え込むように腕を組んだ。
「確かに筋は通ってます」
「それだけですか?」
「今はそれだけです。あなたの言うことはわかりました。確かにそれを否定することは出来ません。しかし、今はまだそれを肯定するための材料も乏しいことも事実です。藤永さんがなぜ自殺したのか、なぜ他殺にみせかけるようなことをしたのか、それもまだわかっていない。今のままではまだ自殺と断定することは出来ません」
「ごもっとも」
「それともう一つ言っておきます。あくまでも事件を捜査しているのは我々警察です。あなたが真実を知ろうとするのは構いません。しかし、警察の捜査の邪魔をするようなことがあれば、それなりの対応を取ることになります。そのつもりでいてください」
そう言って倉田は背を向けて去っていった。




