1
ガラスのラボラトリー(実験室)
中里早苗が仙台駅に着いた時、すでに時刻は午後4時を回っていた。
釧路での5日間の展示会を無事に終え、ついさっき帰ってきたばかりだ。
早苗はそのまま地下鉄に乗り換えると、長町にある藤永陽子の工房へと向かった。旅行用のボストンバッグとお土産の紙袋が少しわずらわしいが、それでも一度、アパートに帰るのはもっと面倒だ。
藤永陽子は早苗よりも8歳年上の41歳。陽子は中里早苗にとって、同じとんぼ玉作家としての先輩としてだけでなく、姉のように頼れる存在だった。
長町駅を降りて、大通りから路地を抜けたところのマンションの裏手に陽子の工房はあった。以前、小さなたこ焼屋があったところで、そこを陽子は借りて一階を工房に、二階を住宅として使っている。
その通りに入った途端、早苗の視界にいつもとは違う光景が飛び込んできた。
マンション付近にパトカーが何台も停まっているのが見えた。それだけではない。工房に向かう細い路地の周りに多くの人が集まっている。
良くない『何か』が起きているのだと、早苗は感じ取った。
嫌な予感がした。
思わず足が速まる。
集まる人の隙間をすり抜けていくと、黄色い非常線が張られ、そこを制服姿の警察官がガードしているのが見えた。
その『何か』が起こったのは陽子の工房に間違いなかった。
「いったい何があったんですか?」
工房の中を覗こうと近づく野次馬を阻止しようと、仁王立ちで立ちふさがっている若い警察官に早苗は問いかけた。
「あなたは?」
「陽子さん……ここの藤永さんの知り合いです。教えてください」
早苗の真剣な口調に警察官が仕方無さそうに口を開こうとした。
その時――
「誰?」
工房のなかから一人の男が姿を現した。黒いスーツを着た中年の男は、明らかに目の前の警察官よりも権限を持っているように見えた。
「私、藤永さんの友達です。陽子さんは?」
早苗は訴えるように男に声をかけた。
「じゃあ、ちょっと入って」
男の言葉に警察官が遮っていた手を下ろすと、早苗は素早くその脇を通って男に近づいた。
「何があったんですか?」
「とりあえず入ってください」
男に促され早苗は工房のなかへと入っていった。見慣れた狭い工房の中に何人もの警察官の姿が動き回っているのが見て取れた。
その物々しさにゾッとする。何か良くないことが起きたことは間違いないらしい。
男は自分が県警の刑事だと名乗った。だが、そんなことよりも真っ先に確認したいことがあった。
「陽子さんは? どこですか?」
陽子の姿を探そうとする早苗に刑事が声をかける。
「あなた、名前は?」
「中里早苗です。陽子さんは私の友達です。姉のような存在なんです。教えてください。陽子さんは――」
その言葉を遮るように刑事は大きな手で早苗の肩を掴んだ。
「落ち着いてください。実は今日の昼過ぎに藤永陽子さんが亡くなっているのが発見されました」
その言葉に自らの鼓動がたちまち激しくなっていくのが感じられる。
「あの……」
言葉がうまく吐き出せない。
「大丈夫ですか?」
刑事が早苗の顔を覗き込む。
「……はい……亡くなって……どうして?」
「亡くなっていたのはこの奥の部屋。ナイフで胸を一突きだったようです」
刑事は工房から続く部屋のほうを指差した。一階には玄関から入った目の前の部屋とそこから続くもう一部屋、そして、台所や風呂場などがある。そのどちらの部屋も陽子は工房として使っていた。
「殺されたんですか……?」
自分の口から発せられる言葉の一つ一つがたどたどしいのが感じられる。
「それについてはまだよくわかっていません」
「でも、ナイフで刺されたって……」
「刺されたとは言っていません。自ら胸を刺すことも不可能ではありませんからね」
「え? そんな……それじゃ陽子さんが自殺したって言うんですか?」
「では、あなたは藤永さんが誰かに殺されたと思うんですか? 何か理由が?」
「ち……違います」
慌てて首を振った。「でも、自殺なんて考えられません。どうして陽子さんが自殺しなきゃいけないんですか」
思わず口調が強くなる。
「中里さんには、藤永さんが自殺する心当たりはないということですね」
「ありません」
早苗はきっぱりと言い切った。
刑事は小さく「そうですか」と呟いた。
陽子に自殺するような理由があるはずがない。だが、この刑事が自分の言葉をすんなりと受け入れてくれるだろうか。警察にとっては、他殺として捜査するよりも自殺として処理してしまうほうがずっと簡単なことだろう。
早苗は視線をあちらこちらに走らせながら言葉を捜した。このままでは自殺と処理されてしまうような気がして怖かった。
その早苗の視線が一つのものを捕えた。
「あれを見てください」
「あれが何か?」
刑事は早苗が指差した壁にかかったカレンダーに視線を向けた。
「自殺するんだとしたら、どうしてこんなに予定が詰まってるんですか?」
カレンダーにはビッシリとさまざまな予定が書き込まれている。普段、あまり外出することのない陽子には珍しいことだが、これだけの予定がありながら自殺などするはずがない。
早苗の言葉を聞いて、刑事も大きく頷きながらカレンダーを見つめた。
「まあ……確かに……御鏡さんの言葉もありますしね」
「御鏡さん?」
「はい、御鏡秀作さんという方です。ご存知ですか?」
刑事は振り返りながら訊いた。
「いえ」
早苗は首を振った。その名前に聞き覚えはなかった。
「御鏡さん、ちょっといいですか?」
刑事は奥の部屋のほうへ向かって声をかけた。黒いジャケットを着た男が振り返り、早苗たちのほうへ歩み寄ってきた。
痩せ気味で、銀縁のメガネをかけたその顔はどこか神経質そうに見えた。
「御鏡さん、こちらは藤永さんのお知り合いの中里早苗さんです」
と刑事が早苗を紹介する。
「御鏡秀作です」
早苗よりも少し年上と見られるその男は早苗に軽く頭を下げて、そう名乗った。「中里さんのお名前は以前から知っています」
「お知り合いですか?」
「いえ、中里さんは藤永さんと同じガラス作家さんなんです」
「おや、そうでしたか。御鏡さんも確か同じお仕事をされてるんでしたよね?」と刑事が訊く。
「はい、仕事上は『御鏡なお』という名前ですけど」
その名前を聞いて早苗が反応した。『御鏡なお』という作家ならば、最近、雑誌に載っている作品を見たことがある。
「その名前なら私も知ってます。でも、私、てっきり……」
「女性だと思ってましたか?」
そう言って御鏡は殺人現場には場違いな笑顔を見せた。
「はぁ……」
「よく間違われるんです。藤永さんも同じように思われていたようです」
「御鏡さんは、藤永さんと以前からお知り合いだったんですか?」
そう訊いたのは刑事だった。
「いえ、藤永さんと知り合ったのはつい先日です」
「先日?」
「ええ、私の工房に突然、藤永さんが来られまして。その時、二人展を開かないかと声をかけてもらったんです」
「二人展?」
思わず横から早苗が声をあげた。
「どうかしました?」
早苗の驚いた様子に刑事が訊く。
「陽子さんが二人展なんてありえません」
「――だそうですけど?」
刑事が御鏡の顔を見ると、御鏡は困ったような表情で肩をすぼめてみせた。
「そう言われてもね。証拠があるわけじゃないので、言った言わないの話になってしまいますね」
「中里さんは、どうして藤永さんが御鏡さんと展示会を開くことがありえないと思われるんですか?」
刑事は次に早苗に問いかけた。
「陽子さんは、基本的に展示会への参加はしない人だからです。私や他の作家の人がこれまで何度も声をかけてもずっと断られていました」
「だから御鏡さんとの展示会などありえないと?」
「はい」
早苗は大きく頷いた。だが、一方で複雑な思いがあった。なぜか目の前にいるこの御鏡という男が嘘をついているように思えないからだ。
御鏡はそれ以上、早苗に言い返そうとすることもなく、壁にかけられたカレンダーをじっと見つめている。
「どうしたんですか?」
刑事が訊くと――
「あのマルはなんでしょうね?」
御鏡はそう言ってカレンダーを指差した。確かに他の予定はボールペンで細かく書き込まれているが、25日のところだけには赤く大きな丸い印がつけられているだけで何も書き込まれていない。
「まさかあれがあなたと二人展をする日だというつもりですか?」
強い口調の早苗に対して御鏡は冷静に首を振った。
「いえ、違います。二人展の日取りはまだ決めていませんでした。その日取りを打ち合わせるために訪ねたんですから……それに……あれは『ひぐらし』ですか?」
御鏡が見ているのは昨日の日付に書かれた文字だった。
『P10.5 蜩 納』
「ひぐらし?」
「そう読めますね」
その時、2階に通じる階段を一人の警官が降りてくると刑事に声をかけた。刑事は小さく頷くと、早苗にちょっと待っているように一声かけてから警官と共に2階へと上がっていった。
早苗はどうしていいかわからないまま、御鏡の隣に立ち、動き回る警官の姿を眺めているしかなかった。
「それは?」
ふいに御鏡が早苗の手に持たれた紙袋に視線を向けた。
「陽子さんに……お土産をと思って……」
「洋菓子ですか?」
「プリンですけど……」
「釧路のお店のですか? あ、知ってます。有名なお店のですよね。それって日持ちしないんじゃなかったですか?」
「……それが何か?」
いったいこの男はこんな時に何を言っているのだろう、早苗は眉をひそめて御鏡の顔を見た。
「いえ、ちょっと気になったものですから」
早苗のキツイ視線などまったく気にすることもなく、御鏡は平然とした顔をしながら工房を見回していた。
その後、陽子に関していくつか質問を受けたあと、早苗は帰されることになった。
陽子が亡くなったと思われる0時頃、釧路にいた早苗の存在は警察にとってさほど重要視されなかったようだ。
それでも原町にあるマンションに帰る頃にはすっかり暗くなっていた。
早苗は未だに現実を受け止めきれずにいた。
どこか自分が現実とは違う世界に迷い込んだかのような錯覚さえしてくる。重い気持ちを引きずるように階段を上がり2階の部屋に向う。
ドアを開けて暗い部屋に入った途端、早苗は大きくため息をついた。
立っていることも辛かった。
郵便受けにいくつもの郵便物が入っていることに気づいて、早苗はゆっくりと手を伸ばした。