家
「ただいま帰りました」
盛りだくさんの、復学一日目だった。
いろんな意味で疲労感を覚えながら、絹は帰宅する。
自分がいない間にも、時が動いて他の人たちが生活を続けていたのだと、今日の怒涛の情報で、いやというほど思い知らされた。
自分と同じように、自分と違うことを考え、思い、動く。
ただの、脳活動の副産物。
それは分かっているのに、確かに今、そこにある個性。
「ああ、絹」
居間にいくと、ボスがいた。
まだ、多少動きに制限はあるものの、とりあえず彼も日常に戻りつつある。
「なんでしょう」
少し、ボスとの間の空気が穏やかになった気がする。
ボスがもう絹を駒として使う気がない、というのを感じたからだろう。
それは、確かに寂しいことでもある。
最初の頃なら、その事実に絹は絶望したかもしれない。
自分は、不要なのだと。
そういう形でしか、人から必要とされないと思っていたせいだ。
だが。
形のないものが、あの時確かに見えた。
自分の何もかもを知るボスが、「それ」を思ってくれた。
女嫌いでもある彼が。
その事実の大きさを、絹はしっかりとかみ締めたのだ。
「それ」は、不安定だった彼女に足場を作った。
しっかりと足元を固め、ぐらつかずに立てるようになった。
その上で見る景色は──どれも鮮やかで。
いままで、同じものを見ていたのかと驚くほどだ。
嫌われてはいけないと着込んでいた、厚い猫を脱ぎ捨て、絹は身軽になる。
それでも、広井兄弟は離れていかなかった。
気がついたら、絹にとっては楽園のような場所になっている。
モグラだった彼女が、地上でお日様を浴びているのだ。
まだ、少し落ち着かない。
しかし、しっかりした足場が、絹を支えてくれる。
いつか。
ここを出て行く日が来ても、大丈夫だと自分が感じるほど。
「今夜広井家で、快気祝いをしてくれるそうだ。支度をしなさい」
車の中で、兄弟は何も言わなかった。
変な秘密を持つものだ。
くすっと、絹は笑う。
「はい、すぐ支度します」
すぐには動き出さず、絹はふっと足元を見た。
正確には、この床のもっともっと下。
絹がほとんど出入りしない、地下の研究室だ。
そこに、もう1匹モグラがいる。
絹とはまた、違う闇を持っている存在。
いつか。
いつか彼も、そこから出られる日が来るだろうか。
いま抱えている記憶も、腕の古傷も、黒い服も。
全部、日の下にさらせる時がくるだろうか。
「島村さんも…来ませんかね」
ダメモトで口にしてみる。
「…どこで、自分の過去が明るみに出るか分からんからな」
前に、ボスが広井家に発明品を抱えていった時、島村はついて行かなかった。
二つの過去を、探られるのを恐れたのか。
実際。
蒲生は、それを調べた。
ただ、彼には科学的想像力はなかったので、不思議な過去から事実を構築出来なかったのだ。
「綺麗に…消せませんか? 過去」
それが邪魔だと言うのなら、いっそ消してしまおう。
絹の過去は、渡部が勝手に消したようだ。
不可能ではないのなら。
「私の管轄外だな…本家…ゴホン…渡部家なら、出来るだろうが」
ボスが頼む、というのには抵抗のある声。
頼むのではない。
取引ならどうだろう。
「ボス…義手を作る気…ありませんか? すごいやつ」
天野の表情が、頭を掠める。
空っぽの袖を、彼女はどんな気持ちで見たのか。
「ああ…なるほど…それもありか」
ボスは、少し考え込む仕草を見せる。
義手について、あっさり理解したということは、情報は入っていたのだろう。
そして彼もまた、絹と同じ想像をしたはずだ。
「森村さんのこと…何か聞いてます?」
義手について思いめぐらせているボスに、ふっと思ったことを聞いてみた。
渡部は甥、森村は弟、という複雑な関係のボスは、腕の事をどう感じたのだろう。
「大丈夫だ…腹立たしい話だが、渡部の血はしぶとさが売りだ。嫌でも寿命まで生きてしまうらしい」
結局、私も生きているだろう。
三途の川を渡りかけた男が、微かに口元で笑った。
ボスが、大丈夫というのなら──きっとそうなのだろう。
「さぁ、支度をしてきなさい」
いろんな人間に、自分の髪を絡めたままの絹を、自由にするかのように声で押し出す。
「はい…」
髪を、すべて振りほどくことは出来ないが、絹は居間を出た。
一歩、居間を出たら。
涙が出た。
自分が、幸せになろうとしているのを感じる。
行き先は、どこか分からないが、すくなくとも太陽は差している。
こんなワケありな自分が、いびつな自分のまま、幸せの道を歩こうとしているのだ。
哀しい涙でも、嬉しい涙でもない。
ただの──涙。
強いて言うなら。
この世に生れる時の、涙。
一度生まれ、権利という意味で一度死に。
そしてまた──生まれ落ちた。
これから、やっと彼女は生きるのだ。
たくさんの人との、しがらみを絡めながら。
それすら。
いまの絹には、幸せという名を持っていた。
ワケは、山ほどある。
でも。
抱えられないほどの愛も、そこにはあった。
終




