学校へ
「さむ…」
12月1日。
絹は──復学した。
留年は確実だが、今年度の残りの期間を通っても別に問題はない。
本当はどうでもよかったのだが、退院してボスの家に戻った絹は、学校へ行くより他、することがなかったのだ。
何というか。
正直、どうしたらいいのか分からないところがある。
あの家での、絹の居場所について、だ。
後から島村に聞いた話だが。
顔の形成手術の時に、ボスは彼女の身体に埋め込んだ発信機を外してしまったらしい。
そして絹は、新しいペンを支給されなかった。
広井ウォッチングに必要な、カメラ&マイクが、だ。
これは。
絹を自由にする、準備段階のように思えた。
もうボスは、絹をカメラ台として使わないのだろう。
身の振り方を、考えないとなあ。
広井家の車を降りて、将と教室に向かう途中に、そんなことをぼんやり考える。
せっかく、使える顔をもらったわけだから、何とか食べていく道もありそうな気もする。
自分では、結構前向きな思考だと思っていた。
方向性は非常識だったが。
そんな絹は。
すごいものを見てしまい──思考停止した。
「やぁ…絹ちゃん。復学おめでとう」
お久しぶりの、渡部様だ。
彼の実家は、まともな商売だったおかげで、難を逃れている。
だが。
すごいものというのは、渡部そのものではない。
彼の、右腕だ。
冬服の袖が。
だらん、とぶらさがっている。
どう見ても──袖の中身は空だった。
「ああこれ?」
彼が腕を持ち上げると、袖が途中から折れて、肘から下の不在を見せ付ける。
「ちょっと、飼い犬に食いちぎられてね」
ニヤっと笑う神経が、とても信じられない。
「おまけに、腕をくわえて…そのままどこかへ行ってしまったよ」
犬の話なんか、していないのは最初から分かっている。
そうか。
絹は、表情に困った。
そうか──森村はもう、この学校にはいないのか、と。
※
森村は、どんな身の振り方をしたのだろう。
渡部に復讐をしたのは、その右腕を見ればよく分かる。
ただ、命を取らなかった事実には、思うところがあった。
多分。
あの日、彼もまた何か変わったのだ。
桜という亡霊を斬った日。
そして──愛するテニスを、渡部から奪った。
生きている間、テニスと自分の腕を見比べる時、そこで必ず足取りが一時停止するように。
それを、森村は自分の復讐として片付けたのか。
「報復しないの?」
将がいる横で、ずばっと聞く。
してほしいワケではないが、文字通り「飼い犬に手を噛まれた」男が、それを甘んじて受けているのは違和感があったのだ。
「あ? うーん…そうだね…でも、これはアクロバットの代償だしな。賭けに負けたら、何かで支払わなきゃならないだろ?」
本人の性格はいたって最悪だが、その覚悟だけは感心する。
少なくとも、甘ちゃんではない。
「おじさんに、暇なら面白い義手でも作ってって言っといてよ」
ひらひらと。
自虐的に空っぽの袖を振って、渡部は三年の廊下へと消えて行った。
「すごいな…」
将が。
ごくりと唾を飲んで言う。
同じ男として、絹とはまた違う思いがあるのだろうか。
「自分の命を、チップとして賭ける人間には…ならないほうがいいわよ」
くすっと。
絹は、彼を促して階段へと向かった。
態度も言葉も、ほぼ自分の猫は剥げ落ちている。
それが、元々の絹の性質であると気づいたのか、彼は決して絹に「変わったね」とは言わなかった。
「でも…そういう日が、いつか来るかもしれない」
笑わない、声。
実際、彼はその場面に一番近いところに立ち会った。
賭け金を放り投げたのが、あの時は絹だっただけ。
「勝つように、根回ししてからやる賭け以外は…無謀っていうのよ」
渡部は、根回しをしても負けた。
絹がやったのは、最初からただの──無謀。
※
「やせたわね」
教室の前。
久しぶりの委員長にそう言われたが、そのまま言葉を返してやりたかった。
いない間、彼女も気苦労があったのだろう。
部長は片腕を失い、副部長は失踪。
テニス部だけ見ても、十分スキャンダラスだった。
部長びいきの委員長には、つらいことだろう。
もう、三年の部活は引退しただろうが。
「高坂さんっ」
委員長に話しかけようとした時。
後方から、驚いた声が上がった。
振り返ると。
目に涙を浮かべている女生徒が、いるではないか。
存在のかけらも忘れていた――宮野だ。
なんで、涙目。
「よかったぁ」
その涙を飛ばしながら、絹目がけて駆け出してくる。
ちょっ。
これではまるで、感動の再会ではないか。
長く離れていた親友との。
絹には、到底理解できない。
どこをどう考えても、それは宮野の一方的なものなのだから。
ただ、場所的に絹には不利だった。
学校で、相手は女で、委員長と将に見守られているのだ。
結果。
絹は、両手をホールドアップする形で、胴体を宮野に奪われることとなった。
深い深いため息をつきながら、将を見る。
空気が読めるはずの男が、微笑んで見守っていた。
絹が、現状に不満があるのは、一目で分かるだろうに。
「止めてよ」
猫のはげた絹は、将にはっきり言ってみた。
すると、なおさら微笑み。
「いやだよ。絹さんには、そういう正反対の友達も必要だからね」
見事な拒否を、食らわされた。
今まで、宮野が擦り寄ってくるのを一度も止めなかったのは、そんなことを考えていたのか。
「高坂さん…」
くすっと、委員長に笑われた。
「高坂さん…ほんと元気になったみたいでよかったわ」
はげた猫を見て、そう言われたのには──少しばかり異議があった。