糸
「取るぞ」
ボスではなく、島村が絹の包帯に手を伸ばした。
どうやら。
自分の顔から、白い布地が取り払われていく中、絹は静かにそう考えていた。
どうやら、自分は本当に運よく生き延びたようだ。
ただ、この二人が本気で絹を騙そうと思うのなら、おそらく一生騙せるだろう。
だから、本当の意味では、どっちが答えなのかは分からないのかもしれない。
だが、彼らが違うというのなら「違う」のだ。
するりと。
最後のあたりの包帯は、外すまでもなく、絹の首の周囲に輪を作るように落ちた。
額から頬にかけて、密封されるように貼られた、テープのようなものがはがされる。
「ああ…いいな」
ボスが、絹の額をじっと見た。
「そうですね」
島村が、白衣のポケットから小さい鏡を取り出す。
絹は、それを受け取った。
久しぶりの対面ね。
絹は心の根底に残る怖さを、そういう言葉でごまかした。
そして鏡に──自分の顔を映す。
「………」
なんだか。
拍子抜けするほど、そこには、ただ『高坂絹』がいた。
桜の顔そっくりの、そして、傷ひとつない。
本当に、自分は額をカチ割られたのだろうかと、不思議になるほど綺麗な皮膚。
「傷は…どうなったんですか?」
触れてみる。
額に違和感はない。
「お前の寝てる時間が長かったからな…脳の手術が落ち着いてから、形成もしておいた」
島村が、ちらりとボスを見る。
ボスは、その視線には反応しなかった。
何だろう。
少しの違和感。
島村が、そんなボスの様子に、ゆっくりとため息をついて。
こう言った。
「ボスが、病院を抜け出してやってくれたんだ…礼を言っておけ」
「島村…」
島村にしては珍しく──余計な言葉だった。
※
ボスが?
絹は、眼鏡の男を見上げる。
彼女の方を見ない、ボス。
「この顔のままでも…いいんですか?」
確かに、もう織田はなくなった。
しかし、この顔が織田の残党にとっては、忘れられない顔のはずなのに。
トラブルの種を、残していることにはならないのか。
「お前が…」
ボスが。
ゆっくりとゆっくりと、息をついた。
「お前が…その顔でいたいんだろう」
絹を見ない、目。
一瞬。
絹の中から、全ての言葉が失われた。
白い白い脳内から、「ああ」と言葉が降ってくる。
ああ、と。
この気持ちを、絹はどう表現すればいいのだろう。
ボスから自分につながる、一本の糸が見えたのだ。
ないと、思っていた。
そんなものは。
絹は、ただの駒で。
いつか不要になったら、出て行かなくてはいけないと思っていた。
なのに。
ないと思っていた、一本の線がそこにはあったのだ。
彼は、ただの自己至上主義の、マッドサイエンティストではなかった。
死にかけた助手を、「生かしたい」と思った人だ。
その形が、正しかったかどうかは分からないが、島村はいまそこにいて。
そして。
絹が──まだこの顔をしている。
ああ。
どうにか、この白い白い気持ちを、ボスに伝えたいと思った。
ゆっくりと、身体に命令を出して、絹はベッドから足を下ろす。
立ち上がる。
何もかも、ゆっくり。
しかし、ボスは動かなかった。
多分。
何をされるか、分からなかったのだ。
そのやせた身体に──絹は抱きついた。
「ありがとう…ございます」
精一杯の、感謝の言葉。
※
ボスは、動かなかった。
絹に抱きつかれ、驚いて動けないのかと思っていた。
だが。
その身体が、ピクピクと震える。
震えるというより。
痙攣?
「言っておくが…」
島村が、横からぼそっと呟く。
「先生は…本当なら、まだ入院してないといけない身体だ」
ぼそぼそっ。
何を、言っているのか。
「何度も、病院を抜け出して無理をしたせいで…開いては縫い、開いては縫いのいたちごっこだったからな」
ええと。
絹は──そーっと、抱きついているボスを見上げた。
「要するに…立って歩くのが、いまは精一杯、ということだ」
ボスは。
顔が、真っ青になっていた。
奥歯を強くかみ合わせて、激痛に耐えている、という風だ。
そんな人間に、絹は抱きついたのである。
慌てて、ボスから離れる。
「気が済んだでしょう…帰りましょうか、先生」
痛みで、痙攣以外ぴくりとも動けないボスに、島村がしれっと言った。
おそらく、ボスは相当彼にも心配をかけたのだ。
そのせいか、その自業自得の部分については、少しあきれているように見えた。
絹が寝ている間に、この二人の人間関係も、少し変わったのかもしれない。
「大丈夫ですか? ボス」
病室に入ってきた時の彼は、まったく普通の動きに見えた。
しかし、そう振舞っていたのだと分かる。
いつも通りの自分であるように、絹に見せたかったのか。
何故か。
その理由は、もうどうでもよかった。
絹にはもう──糸が見えてしまったのだから。