死と生
銃声は──聞こえなかった。
何かが、飛び出したせいだ。
泥と埃で汚れた袴が、刀を持つ腕を蹴り上げていた。
ア、キ、さん。
「ハァァァァッ!!!」
「それ」が支配していた空気が。
砕け散る。
いや。もっと重い破壊。
冷たく分厚い、そして灰色で無慈悲なコンクリートの塊を、アキは止まることなく砕き続けた。
怒りはあるが、憎しみはない拳。
刃でも、鉛弾でもなく、人の体温を持った体。
一番、「それ」の存在と対極にある力。
その力が、ただひたすらに、北風の王を打ち据える。
ふわっと。
彼女の袴の裾が、熱風に翻った後。
振り上げた足が、「それ」を地に蹴り落としていた。
ドォンっと。
大きな音があがる。
蹴りの音でも、落ちた音でもない。
火に耐え切れず、建物の梁が燃え落ちた音だ。
アキは、一瞬の迷いもなかった。
足元の「それ」を見やることもせず、動けない桜をそこから抱え出してくる。
そして。
そして、その身を──将へと受け渡すのだ。
彼女の血はアキを汚し、そして将を汚した。
絹は、へたりこんだまま、後方のその光景を振り返っていた。
見えない線が、引かれているのが分かる。
絹の入ってはいけない、血のサークルの中に彼らはいる。
「朝…朝……」
もはや、桜の目はうつろだった。
指先も顔色も、青ではなく白。
パチっと、火の粉が降る。
絹は、顔を上げた。
飛び火したのだろう。
庭の大きな木が、葉や枝を燃やしている。
それが、彼らの側に不思議な火の粉を散らすのだ。
はらり、はらりと。
「あれが…血桜よ……きれいでしょ。やっとあなたに見せられた…」
微笑む、桜。
花など、どこにもないのに。
※
将は、動けない。
言葉も発しない。
ただ、じっと。
まばたきもせずに、腕にかき抱いている桜を見ている。
「私…ちゃんと死に直すの…よかった…今度は寒くないもの…」
震える指が、将のシャツを握る。
「子供たちにも伝えてね…愛してるわ…愛してるわ…あい…し」
力を失いゆく身体。
すべり落ちる指。
将は、無言のまま──ぎゅうっとその身体を抱いた。
アキが、頭をゆっくりと垂れる。
本当の意味で、現状を理解しているのは絹だけだというのに、彼らは本能で察していたのだ。
それが、「誰」なのか。
まがいものだ。
トレーサーは、まがいものを作る装置だ。
人の、心や個性を踏みにじるもの。
だが。
ほんの短い時間だったが。
それは──桜だった。
北の女王の顔と、広井家の女の顔を持つ、誰にも真似できない存在。
絹は、目をそらした。
見ていられなかった。
目をそらすのは、なんて簡単なのだろう。
ただ、身体を前に戻すだけでいい。
そして燃えゆく建物や、桜の木を見ていればいいのだ。
だが、自分が目をそらしたのには、理由があったのだと──絹は、遠い意識で気づいた。
誰かが、その運命を彼女に握らせたのだと。
ああ。
運命に導かれるまま、絹は動いていた。
へたりこんでいた自分の足に、力を吹き込まれる。
『あんなんじゃ、いつか死ぬぞ』
声が、フラッシュバックする。
そして。
割って入っていた。
人としての気配すら置き忘れた「それ」と、アキの背の間に。
振り下ろされる、きらめく光。
パァァンっと。
自分の仮面が真っ二つに割れた──音がした。
赤く散る視界。
あーあ。
他人事のように、絹は思った。
どうせなら、ボスの盾になりたかったな。
女の盾になったと知ったら。
きっと…ほめてくれ…。
ない。
※
「あなたも、桜?」
教室に入ると――絹がいた。
いや、絹は自分のはずだ。
「もう、あなたで30人目よ、いやになる」
見ると、教室中にこの顔が溢れていた。
ああ。
絹のコピーではなく、桜のコピーか。
遠い感覚で、そう思う。
「クローンの身体に、トレースの心で、いくらでも作れちゃうから、すっかり価値が下がったわ」
整形しようかしら。
コピーの言い様に、絹はつい笑ってしまった。
整形して、この顔になった自分の前で言われたからだ。
自分の意思ではなかった。
ある人の、ほんの悪戯心。
笑ったら、ずぅんと身体が重たくなった。
床に、足が沈み込んで行く。
「あら、あなたはもっと下に行くのね…ごきげんよう」
腰まで沈み、そのまま上半身を一気に飲み込まれた。
暗いところ。
沈んでいきながら、絹は頭上に星がまたたいているのに気づいた。
無意識に、さそり座を探す。
赤い──星。
またたくアンタレスを見つけて、絹は手を伸ばそうとした。
何故だろう。
その星とは、まったく無関係なはずの、両親の顔が見える。
ずっとずっと昔に、死んでしまった人の顔。
なんだろう。
この感覚は。
アレに似ている。
そう── あの人にもらった、星の写真を見た時の感覚。
ちぐはぐな感覚だと、思った。
死んだ両親と、さそり座なんて関係ない。
なのに、涙が出た。
死んだ人が、お星さまになるなんて、そんなメルヘンな感覚など持っていないはずなのに。
その星も、遠く遠く掠れていく。
絹は沈み続ける。
このまま──奈落までいくのだろうか。
※
それから。
長く長く暗い時間を、絹はすごした。
すごしたことさえ、彼女は意識できなかった。
その暗さの中に、自分のすべてが溶け出していったせいだ。
限りなく無に近い状態。
いや、既にそれは無、だったのかもしれない。
だが――永遠ではなかった。
永遠という言葉は、絹を置き去りにしたのだ。
白い白い、光が差してくる。
ああ、朝か。
気泡のように、言葉がわいた。
星、夜、朝。
断片的な情報が、わいては消える。
すぐそこが、水面なのだ。
気泡が消える、ほんのすぐそこ。
浮き上がればいい。
白い光の方へ。
朝だ。
絹は。
生まれ落ちるように、目を開けた。