亡霊
「やばいな」
太陽はとっくに昇っている。
だから、山道の途中で既にそれが見えていた。
煙が上がっているのだ。
「もう、誰か暴れてるのか?」
絹も、身を乗り出すようにその光景を見た。
ボス!
「すぐつく、ちゃんと援護してやっから、もうちょい待て」
青ざめる絹は、座席に引き戻された。
既に、運転していない二人は、銃火器を装着し終えている。
車が止まれば、すぐに飛び出せる状態だ。
どうにもならない移動時間、焦ってもしょうがないのだと──そう、言われているのだ。
引っかかる喉を無理やり開き、絹は大きく息を吸った。
どうか、無事で。
途中で車は林道へと突っ込み、煙に向かって間違いなく進む。
木々が開けた時、突然白壁の塀が現れる。
庵というほどこぢんまりとはしていないが、それに近い侘び寂び感の建物が──燃え上がり始めていた。
着物の老婆が、こけつまろびつ飛び出してくるのに、車は急ブレーキをかけた。
半回転して止まった車。
「先行け!」
運転手の男が、怒鳴った。
「あたぼうよ!」
二人が飛び出すのに遅れないよう、絹もドアを開けた。
老婆など、無視でつっこんでいく。
しかし、一瞬だけ絹の意識にその存在が残った。
もしかしたら、と。
確認する暇などない。
「ボス!!」
開け放たれている門に飛び込み、そう絹は叫んだ。
だが。
「ハッ…ハハハハハッ!」
彼女の叫びに応えたのは──咆哮とも取れる、笑い声だった。
※
庭に面した縁に──「それ」はいた。
抜き身の日本刀を畳に突き立てて、柄に手をかけたまま膝をついている。
ジャッと砂を鳴らして踏み込んだ彼らを、ゆっくりと見やる。
ああ。
年齢が違うと分かっているのに、絹でさえ見間違うほど、「それ」は森村だった。
あの氷点下の目と、同じ目だったのだ。
しかし、違う。
まとっているものの、根本から違う。
「招かれざる客が来たな…」
柄の手に力をこめ、「それ」はずっしりとした身体を上へと引き上げた。
「桜の亡霊も見えるようになったか…ジャージで迎えとは粋だな」
ずずずっと。
背後で炎が燃えているというのに、何も感じていないかのように、畳から日本刀を抜く。
チャッと、二人が銃を構える。
この男を見て、構えられるだけでもすごい。
絹は、気を抜けば後方へよろけそうだった。
ボスを、助けなきゃ。
まだ、どこにいるかも分からない。
いまどういう状態なのかも。
なのに!
なのに── 一歩も踏み出せない。
「それ」のせいだ。
人の姿をしているのに、人を感じられない。
「おい…あれが、雇い主じゃないだろうな」
彼らがトリガーを引けずにいるのは、「それ」が絹側の人間と誤解しているからではないはずだ。
彼らだって、気がついている。
自分らが、得体の知れないものの前にいることを。
答えなきゃ。
違う、と。
あれは、味方でもなんでもない、と。
そうしたら、彼らが撃ってくれる。
それで、脅威は去る。
なのに。
声が、声が。
「亡霊は……こっちよ」
燃え盛る座敷の奥から、浴衣の裾を焦がしつつ、誰かが現れる。
目を疑うしかない。
ぴーこだった。
※
「ひなこか…お前が寝ている間に夏になったぞ」
揶揄する奇妙な言葉を口にしながら、「それ」が振り返る。
もう一歩。
ぴーこ──いや、ひなこが「それ」に近づいたら、食われるのではないかと思うほどの獣的な笑み。
唇の中に、牙がないことが不思議なほどだ。
「違うわ…」
ひなこは、「それ」を前にしても怯まない。
その一歩を、踏み越えた。
「違うの…分かるわよね?」
まっすぐに、自我のある意思で「それ」をみつめるひなこ。
祇園祭で見た、あの雲の上を歩くような気配は、もう微塵もなかった。
「ああ…なるほど」
ククッと。
「それ」は笑った。
笑みに、火の粉が絡んで消されるほどの低い音。
「なるほど、なるほど…そういうわけか…お前がアレの置き土産か」
何の。
何の話をしているのか、この二人は。
絹は、炎の舞台で繰り広げられる劇を、ただ見せられていた。
「久しいな…会いたかったぞ」
ひなこに、手を伸ばす。
愛情はない。
優しさもない。
本当に会いたかったなんて、かけらほども思っていない。
伸ばされる手は──むしりとる手にしか見えなかった。
ひなこは、その手を見る。
そして、微笑んだ。
「あなたの手は…取らないわ」
稲妻が。
絹の中に、稲妻が落ちた。
その微笑が、絹の脳髄を激しく揺さぶったのだ。
あ、あ、あ。
今ほど、記憶がつながるなと願った時はない。
ひなこを見る。
違う。
そうじゃない。
そうじゃなくて。
「やっぱりか…残念だな……桜」
ああああ。
本当に──亡霊が出た。




