いってきます
「そんな…馬鹿なこと…」
真っ白になる意識を、絹は自分のほの暗い吐息で止めた。
そんな馬鹿なことを、本当にして欲しかったわけじゃない。
将が、知った顔でかき回すから。
絹の火薬庫を、暴こうとするから!
『先に、先生に話つけてきてるぞ』
携帯は、まだつながったまま。
島村の言葉が、絹を揺り動かす。
発信履歴は、確かにボスが先だった。
「先生は何て!?」
島村は、個人的な恨みなど織田にはない。
兄弟に加勢する理由もない。
だが。
だが、ボスが。
『手を出すな、と』
絹に、一筋の光が見える瞬間だった。
ボスと島村が参加しないのなら、兄弟を止めるだけ。
それなら、なんとかなりそうだった。
なのに。
『織田本家は、先生が始末をつけるから、本家だけは手を出すな、と』
話が――引っ繰り返った。
ボスまで!
逆に言えば、本家以外は手出しをしてもいいと言ってるようなものだ。
ボスが動けば、島村も動く。
絹では、ボスは止められない。
ということは。
全員を、止められなくなったということだ。
『ああ、先生から伝言だ』
呆然としている絹に、恐怖の一瞬が訪れる。
今回の、最悪の自爆について、ボスから一言来る、ということだ。
それこそ。
クビを覚悟すべきだ。
ボスの大事な、広井一家を思い切り巻き込んでしまったのだから。
神妙に待っている彼女に。
『言いたいことは、ちゃんと私に言いなさい…だそうだ』
駒に、何て無茶を言うのか。
※
どう、しよう。
切った携帯を手に、絹は言葉を失ったまま。
アキは、黙っているのが苦にならないのだろうか。
存在感こそ消えてはいないが、ぴくりともせずに、ただそこにいる。
わめいてひっくり返って、起きるまでの間に、みんなが動き出してしまった。
みんな?
いや。
まだ、あと一人。
絹が、それを考えかけた時。
ノックが聞こえた。
京ではないだろう。
さっきの彼の様子を見る限り、ノックをする気はなかったようだから。
将か、もしくは了か。
「どうぞ」
絹ではなく、アキが許可を出す。
「絹さん、大丈夫かな?」
ドアの向こうにいたのは──チョウ。
そう、この騒ぎに加わっていない最後の一人。
「お帰りなさいませ、朝様」
アキは立ち上がり、彼の帰りにきちんと挨拶をする。
どんな状況でも、きっと彼女はそうなのだろう。
「あはは、エマージェンシーコールで召集されたよ」
軽やかに笑いながら入ってくるが、その言葉の内容は、絹を追い詰めるものであった。
最後の一人までも、引っ張り込むというのか。
「いいえ!」
絹は、大きな声を出していた。
やっと、話の出来る相手がここにきた。
チョウならば、兄弟も、そしてボスも止めることが出来るではないか。
一番強い、影響力を持つ男。
「いいえ、いいえ…止めてください! 先生も、みんなも! お願いです!」
本当に、これが最後の砦だ。
来週、会社の命運を駆けるような仕事があるというのに、こんなことに関わっている暇などないではないか。
必死な絹に、チョウは少し困った顔になった。
そして、頬をかく。
「あー…それは、出来ない相談だなぁ」
絹の足元を崩す、言葉。
「おじさんはね…本当は、この日を待ってたんだよ」
にこっと笑いながら、チョウは一枚のまあるいディスクを閃かせてみせた。
※
「まだ…止めますか?」
チョウが出て行ってしばらく、絹は動けないでいた。
そんな彼女に、アキが問う。
もう止められるところなど、ありはしない。
広井の人間たちは、彼らのやり方で。
ボスや島村は、マッドサイエンティストとしてのやり方で、行動を始めてしまうだろう。
でも。
駒が、足りない。
絹には、それが分かった。
平和的組織にはないものが、織田にはある。
それが動き出してしまえば、どんな平和的行動もひっくり返される。
そうなったら、きっと命にかかわるだろう。
誰が傷ついたとしても、絹の中に黒い色が塗られる。
そして、きっとボスに殺される。
いや。
ボスが、一番危ないところにいるのだ。
もしボスに何かあったなら、絹に生きている価値など──ない。
それが、「歩」なのだから。
「このままじゃ…」
足りない。
「ええ…だから、行きましょうか」
アキが言う。
え?
「弟たちと、知り合いを呼びました」
何を。
アキは、何を言っているのか。
「足りない駒を…増やしに行きましょう」
手を、差し出される。
何故、絹を呼ぶ。
どこへ行くのか。
「私たちは…戦えるでしょう?」
大きな手。
違う。
アキは、こう言っているのだ。
絹も──戦え、と。
※
どこで、覚悟を決めればいいのだろう。
もはや、止まらない。
止まらないというのならば、これは──絶対に成功させなければならない、ということだ。
サイを振ったのは、絹。
出た数字を、勝利の数字に変えるための足りない駒に、絹がなれるというのならば。
アキの手を、掴むべきだ。
危険な仕事。
いや、アキでなければ、きっとみな絹を後方へ押し込めておいただろう。
さらわれないように、危なくないように。
女だとか、顔がどうとか、アキには関係ないのだ。
だから。
いくべきだ。
手を──掴む。
ぐいっと。
絹の身体は、まるで軽い繊維のようにベッドから引き上げられた。
「では、準備して参ります」
手を離しながらも、アキの目はすぐには離れない。
アキが準備をしている間に、絹にもそうしろと。
彼女の言葉の影にある、本当の言葉が聞こえてくる。
言われないことをするのは、自分の意思だ。
絹にとっては、厳しい決断の必要なその部分。
ボス、すみません。
後でクビにでも、実験材料にでもなります。
必ず──そこから助けます。
アキが出て行くや、絹はどうでもいい服を脱ぎ捨てた。
いまの自分に必要なのは、こんな服ではない。
戦える服だ。
シャツとジャージでいい。
それと、しっかりした靴があれば十分だ。
脱いだ服もそのままに、絹が部屋を出ると。
了の部屋から、将が出てくるのと鉢合わせた。
一番、顔を合わせづらい相手。
「どこへ?」
見慣れない姿の絹に、彼は動きを止めた。
「自分の仕事をしに」
それでも、絹はしっかりと将の顔を見る。
嘘の微笑みなんて── 一緒に脱ぎ捨ててきてしまった。
※
「絹さんも、アキさんと行くの?」
絹と将の間を割ったのは、了だった。
ドアの陰から、ひょいと顔を出している。
「僕、アキさんのバックアップ頼まれてるんだ…エンタメ部の問題児に、一人応援頼んだから、絶対うまくやるよ」
大丈夫、まかせて。
ポパイのように、力こぶを見せる腕をしたが、細っこい腕があるだけだ。
アキが何を頼んだかは知らないが、会社の人間を一人引っ張り出すほどなら、本格的なことなのだろう。
「気をつけてね…」
ほんの少し。
了は、声を低めた。
いつもの、跳ね上がるテンションの声じゃない。
本当に、気をつけて欲しいと願う声。
アキが何をするのか、大体聞くだけでも、荒っぽいことだと分かる。
それに絹が同行するというのに、気をつけて、と言えるのだ。
止めるではなく、いってらっしゃいと。
アキの、信頼度の高さのおかげか。
「ええ」
了の容認の言葉があるうちに、絹は将の脇をすり抜けた。
気をつけて、と言えない次男坊に、何か言われる前にアキと合流したかったのだ。
「絹さん!」
でも、それは無理。
ぼーっと見送る男ではなかった。
でも、今度は腕をつかまれたりはしない。
「絹さん…ちゃんと帰っておいでよ!」
彼女の、首筋に刺さる言葉。
荒事だが、絹に死ぬ気はなかった。
少なくとも、ボスを助けて、決着をつけるまでは。
だが。
終わった後に、自分の人生が『高坂絹』のままであるかどうかなんて、分かるはずもなかった。
そういう意味で、帰れるかどうか分からないなんて──言えやしない。
ああ、そうだ。
この荒事のどさくさにまぎれて、高坂絹は死んだことにも出来る。
ボスへの提案事項の一つとして、絹はそれをピンで脳裏に留めた。
だから、ただ将に振り返って、こう言った。
「いってきます」
※
階下に降りたら、玄関先に京とチョウがいた。
チョウは、携帯を顎に挟んで電話中。
京は、電話を切ったところだった。
「島村さんとこに行ってくるが、お前もく…こねぇな、そのカッコじゃ」
携帯をポケットにねじこみながら、京は一瞬にして絹の姿を上から下まで舐めた。
「私は、アキさんと行きます」
絹は、深くつっこまれるより先に、顎を巡らせて彼女を探す動きをした。
「アキさん…って」
京が、ちらっと電話中の父親を見る。
チョウが、斜め向こうを向いたのを確認した京は。
信じられないことをした。
絹に向かって、拳を振り出したのだ。
顔面めがけて。
絹は。
動かなかった。
本気でぶつける気がないのは、感じていた。
鼻面の、少し手前でそれがぴたっと止まったかと思うと、父親が視線を戻す前に、すぐに引っ込める。
「動けなかったのか? それとも…動かなかったのか?」
この男は、どこまで絹の猫をひっぱがそうというのか。
既に、今の状態で猫はほとんど残ってはいないが、それでも今後のことを──ああ。
絹は、自嘲した。
まだ自分は、今後のことを考えているのか、と。
だが。
「……!」
絹が答えるより先に、電話を切ったチョウのパンチが、京の脳天に炸裂した。
「女性に手を上げるような子に育てた覚えは…」
「ちょっ…本気じゃねぇ」
「お前は、早く島村さんとこに行ってこい」
革靴が。
長男の尻に、足型をつける。
ま、さ、に、蹴り出す、だ。
チョウは、上着のポケットへと携帯をしまう。
「私は、渡部建設のところへ行ってくるよ…織田の仲間をやめてもらいに、ね」
まあるいディスクをひらひらさせて──チョウも出て行く。
あの中身は、さしづめ渡部家の弱みになるようなものなのか。
昨日今日、集めたのではないだろうそれ。
ずっと、仇討ちの口実を待っていたのだろうか。
「お待たせしました」
チョウの背中を見送っている絹は、肩をたたかれた。
袴姿のアキが、いた。
 




