流転
「アキさん……」
目を開けると、彼女がいた。
部屋のベッドで、絹は横たわっている。
ああ、そうか。
余りの激昂で、脳の配線がショートしたかのように、絹は意識を失ってしまったのだ。
「は…あはは……」
思い出してしまった。
自分のしたことを。
おかしくて、笑いが出るほどだ。
「織田の名前を…言ってしまったわ」
アキには、少しだけ話をしたことがあった。
でもそれは、彼女が完全なる部外者だから。
だから、言えたことだったというのに。
「……全員、織田の名前はご存知でしたよ」
ピシッ。
空気に──亀裂が入った気がした。
「ぼっちゃま三人とも…知っておられました」
絹の目を見て、アキはもう一度繰り返した。
全員、という意味合いを間違いなく伝えてくる。
京だけならまだしも。
将も、そして了も!?
「奥様の生まれや死について、そこが絡んでいると…それぞれで調べられておいででした」
了も。
知らないままでは、いられなかったのだ。
母の記憶もほとんどない彼さえ、桜の命の行方を追い求めていた。
あの笑顔の陰で。
絹に、嘘の笑顔があるように、彼らにだってあるのだ。
爆弾を抱えていたのは、彼女だけではない。
その導火線に。
絹が、逆に火をつけてしまった可能性がある。
『織田』、という名前を出したせいで。
これは──まずい。
絹は、少しだけ冷静になった頭で目を細めた。
三兄弟に何かあったら、彼女がボスに殺される。
「きちんと、お話されたらいかがですか?」
アキが、前向きな提案をしてくる。
絹は、苦笑するしかなかった。
「アキさんは、彼らに仇討ちをさせたいんですか?」
全部、話せるわけがない。
「そう…ですか」
アキは、目を閉じた。
「やはり…坊ちゃま方の仇なのですね、織田という人間は」
目を──開いた。
※
「朝様は…」
なん、だろう。
アキの雰囲気が、変わった気がした。
「朝様は…奥様の死を、誰にも泣き付かれることはなさらなかった」
淡々と、しかし、何かがばりばりと破れていく。
「本家にも反対されていた結婚ですし…朝様も、仇討ちを思いとどまられたのでしょう」
ちがう。
そんな話、アキが知るはずなどない。
いま彼女が話していることは、桜が死んだ頃の話。
アキは、まだ小さかったはずだ。
しかし、チョウがこんなことを、人に話すだろうか。
ありえない。
「その時の朝様の我慢のツケが…いま、あなたがたにきたのですね」
絹は――落ち着かなければならない。
そして、警戒しなければならない。
アキは、野生の不審人物ではない。
その事実を、ゆっくりと飲み込む。
本家という言葉も、絹の頭の中で宙ぶらりんだ。
しかし。
どこかで、疑問に思っていたのだ。
何故、チョウや会社は無事なのか。
桜を奪った事実が知られ、桜は追い回され殺されたのに、チョウは生きているし、会社もつぶされなかった。
織田の怒りに触れたのなら、無事のはずがないだろうに。
そうか。
本家――いわゆるバックがついていたから、織田も広井家そのものに、手出しができなかったのか。
本家と織田の間で、桜だけが犠牲になったのだ。
そこまで考えて、絹はアキの素性をうっすら気付いた。
「その…本家から、来たんですね…あなたは」
絹は、アキを見上げる。
正確な表現ではないことは、分かっていた。
彼女の目は、使う側の色ではない。
しかし、使われる側にも見えない。
だから、絹は彼女を見た時に、野生だと思ったのだ。
「本家は…今はもうありません…解体されました」
あっさりと。
突然出てきた『本家』とやらは──突然、消えた。
※
無茶苦茶な、話を聞かされている。
織田さえも、直接手出し出来ないようなバックを──解体した?
「私は、織田は知りません…いえ、知りませんでした。ここで働くようになり、あなたに聞いてから調べました」
アキが、見る。
絹を、見る。
まっすぐというより、直線の目。
「そして相対的に、私の家が一体何だったのかを知りました。何故、鍛え続けなければならなかったのか」
「何故、すぐに朝様が私を雇って下さったのか」
「何故、子供の頃の記憶が歪んで見えるのか」
直線の言葉。
絹に向かう、重い槍のような声。
「私は、何の保護もなく生き残れる人間になるため…強くならなければなりませんでした」
陽が、見える。
重い言葉の向こう側に、その目の奥に。
地から天を目指す──迷いのない目だ。
「こうして私は生きています…古めかしい組織などなくても、何ら問題などありません」
アキの迫力と、周囲から押し寄せる断片の情報が、絹の思考を妨げる。
本当は、彼女が何者なのかまでは理解出来ていない。
ただ。
使うものでもなく、使われるものでもなく。
ただ、アキは──立つものだと分かった。
行くものだと分かった。
そうだ。
広井の人間たちも、陽属性。
立つものであり、行くもの。
アキに見えたものが、彼らにも見えるはずだ。
同じ系列の人間。
同じ種の。
「あなたは広井の男達に、助けを求められた…応えますよ、彼らは」
要は。
アキの唇が、ゆっくりと動いた。
「要は…織田ではなく…その組織が、なくなってしまえばいいのでしょうから」
迫力を押し込めるように、アキは目を閉じた。
※
めまい。
ベッドに横たわっているというのに──天井が回る気がする。
自分は、どこにいるのか。
ぼっちゃんたちのいる、広井家ではないのか。
将来、大きな電気屋を継ぐ子たち。
その子たちに、アキは何を見ているのか。
ドンっと、ドアが開いた。
ノックもなしに。
落ち着かない視界で、音を追いかけると。
京が入ってきた。
「返すぞ」
ベッドに放り投げられたのは──絹の携帯。
ボスや島村、そして蒲生のものも入っているそれ。
気を失っている間に、持って行かれたのか。
そのまま、ざくざくと部屋を出て行こうとする。
「あっ」
やっと、我に返ることが出来た。
だが、言葉は呼び止めるには弱すぎるのか。
いや。
あえて──無視された。
京は、またドアを閉めて行ってしまう。
無言を貫くアキ。
そんな彼女の横で、絹は携帯をつかんだ。
発信履歴を見る。
ボスにも、島村にもかけた跡があった。
アキが横にいるにもかかわらず、絹は震える指で島村にリダイヤルする。
「島村さん!」
向こうが電話を取った直後、大きな声を出していた。
『…怒鳴るな』
いつも通りの、島村の声。
「何を…何を言われました!?」
制御を離れようとする、自分の唇をねじ伏せる。
答えが返るまで、ほんの数秒。
長い長い──数秒。
『織田を…ぶっつぶすそうだ』