いやです
これが、渡部の言っていたアクロバットか。
森村に織田をトレースして、その事実を渡部家が独占し、他の部下達と一線を画すること。
広井家に帰り着き、絹は部屋に引きこもった。
そして、ひたすらに頭の中で考えをめぐらせていた。
しかし、トンデモ話すぎて、どこから手をつけたらいいのか分からないのが事実だ。
このトンデモ話は、ボスというマッドサイエンティストに出会ってから始まった。
人間、ありえないほどの科学に出会うと、それを使わずにはいられないのか。
電話、してみよっかな。
絹は、自分の携帯を見た。
ボスに、だ。
心配だった。
織田に仕事を強要され、異母弟を手にかけるのだから、参っていてもおかしくない。
ボスが、本気で自分だけ逃げる気になれば、可能なように思えた。
だが、ボスにはチョウがいる。
おまけに、島村も絹もいる。
それらが、ボスの足を引っ張っているのは、おそらく間違いなかった。
携帯を取る。
登録している、ボスの番号を呼び出す。
発信を──押す。
コールは、長く続いた。
長く長く。
そして。
『私だ』
ついに、ボスとつながった。
「絹です…島村さんから全部聞きました」
最初に、絹は結果を話した。
もうボスが、何も隠さなくてもいいのだと、それを伝えたかったのだ。
絹は、彼の味方なのだから。
『そうか』
しかし、ボスは何ら変わることもなく、その事実を飲み込んだようだ。
「それと…渡部の息子が接触してきました」
これには、微かに反応する気配があった。
『絹…』
ボスが、彼女の名を呼ぶ。
渡部についての、コメントがくると思っていた。
だが。
ボスは、こう言った。
『私は…お前の顔を、変えようと思っている』
たたり続ける桜の顔を──変えると。
※
思った以上に、ショックだった。
絹は、部屋に引きこもり続ける。
この顔を、変えようとボスが提案してきたのだ。
確かにそうすれば、絹が織田に狙われることはなくなる。
しかし同時に、それ以外のものを捨てるのだと、言われもしたのだ。
広井家とも縁を切り、学校もやめ──それは同時に、ボスが絹の利用価値を放棄することでもあった。
そのための絹の、存在意義がなくなる、ということ。
利用価値がなくなるからといって、廃棄されるわけではない。
もしそうなら、ボスは顔を変えるなんて回りくどいことは言わないだろう。
絹を殺した方が、よっぽど後腐れがないからだ。
しかし、別の人生を歩めと言われるだろう。
利用価値のない女を、いつまでも側に置いておくようには思えなかった。
ボスは、女性嫌いなのだから。
この顔だったからこそ、側にいられたのだ。
それは、三兄弟やチョウについても一緒。
彼らのDNAを突き動かすこの顔がなくなったら、きっと彼らは誰も絹だと分からない。
振り向きもしない。
声もかけない。
同じ心を持つ人間だというのに、外見が変われば、それを認識さえされないのだ。
実質──高坂絹が死ぬ、ということである。
なんという皮肉。
同じ外見で、京都では心を入れ替えようとしている。
一方、絹は同じ心なのに、顔がすげ替えられようとしている。
それほど。
面の皮というものは、人間にとっては大事なものなのだと、この瞬間、絹は痛いほど知った。
織田が「顔」というものにこだわり続ける意味が、はっきりと分かった気がしたのだ。
簡単に言えば。
絹は。
この顔を──捨てたくなかったのだ。
桜の亡霊がつきまとう、忌まわしい顔だというのに。
いま、彼女が彼女であるためには、この顔がなければならなかったのである。
いやです…ボス。