トレーサー
「気分が乗らないなら、無理しないほうがよいですよ」
翌朝の稽古中、アキがそう言って組むのを止めた。
絹は、ふぅと息を吐く。
昨日は、あまり眠れなかった。
自暴自棄になりそうな自分と戦っていたら、朝になっていたのだ。
身体も心も、ずしっと重い。
「昨日いらっしゃった保護者の方も…暗い目をしておいででしたね」
絹の不調の原因が、ボスにあると見られたのだろう。
彼女は、チョウとの話は聞いていないから、そう思って当然だ。
確かに、半分はそう。
ボスや島村に遠ざけられると、絹にはもう居場所がなくなる。
広井家では、このまがいものの顔がのさばり、自分を殺すのだ。
「織田、って聞いたことあります?」
絹は、ぽつりと言った。
「…信長しか知りません」
ボスでもなく、チョウでもなく――まったくの部外者のアキ。
この顔にも、死んだ桜にもまどわされない者。
誰かに、少しでも吐き出さなければ、内側から自分が壊れそうな気持ちに、絹は逆らえなかった。
「織田っていう悪者が…この顔を利用したがってるんです」
絹は、つくりものの自分の顔に触れた。
「理由が、過去の織田の嫁とよく似ているから…ただ、それだけですよ」
時代錯誤も、はなはだしい。
顔が同じでも、中身はまったく違うというのに。
桜はあらがって死に、ぴーこはただ生かされている。
絹は、本来ならその枠には入らない。
まがいものだからだ。
しかし、その記録は渡部に消された。
あたかも、最初から絹がこの顔であったかのように仕組まれたのだ。
彼女を、巻き込むために。
「人は…昔から外見に惑わされやすいものです」
アキは、一度言葉を切った。
「もし、目の前に保護者と同じ顔の悪者が現われたら…どうします?」
彼女の言葉は、真っすぐだ。
絹は、ふっと笑った。
「確かに…何も出来ないわ」
それと同じことを、絹はしているのだ。
真実を知れば、いま彼女を擁護してくれている広井が敵になりかねない。
綱の上に立っている気分だ。
黙り込んだ絹に。
「一度、自宅に戻られたらいかがでしょう? 私がガード致しますので」
ホームシックもあると、思われたのだろう。
しかし、ありがたい申し出でもあった。
ボスや島村と、ちゃんと顔を合わせて、話がしたかったのだ。
※
カメラで、予告はしていた。
一度、帰ると。
このカメラのいいところは、あくまでも一方向からしか情報が伝達できないことだ。
もし、カメラに返事ができたなら、おそらく島村につれなく「来るな」と言われたことだろう。
携帯をかけてまで、禁止にはならなかったことだけが救いだ。
三兄弟を会社に送っていった車が帰ってきた後、絹とアキは家へと向かい始めた。
今日は、会社は休ませてもらったのだ。
家の用事で、アキをガードに借りると言ったら、とりあえず三兄弟は異を唱えなかった。
それだけ、アキの腕に信頼があるということか。
久しぶりの、家の玄関。
彼女に付き添われ、絹はドアに手をかけた。
開いている。
いや、玄関が絹の手を覚えているだけだ。
この家の三人には、自動でちゃんと開くようになっている。
ただし、決まりごとがあった。
もしも、誰かに開けさせられるような、何らかの緊急事態が起きたなら――左手で開けろ、と。
中に入るまでもなく、島村が立っているのが見えた。
アキが、一瞬意識を緊張させたのが分かる。
ボスと絹は見たことがあるが、もう一人いるとは知らなかったのだろう。
「ただいま、島村さん」
そんな彼女の警戒を解くために、絹は穏やかな声を出した。
「…居間で話そう」
ふいっと。
アキに挨拶もせず、島村は居間へと消えてゆく。
勿論、アキ抜きでしか話せないことだ。
「すみません、車で待っていただけますか? 家の中は安全だと思いますし、もし何かあったら叫びますから」
絹の言葉に、彼女はすっと身体を引いた。
「少し長くなると思います」
絹のこの声はきっと、居間にまで届いているだろう。
きちんと話をつけるまで、帰る気がないということだ。
アキが扉を閉ざしてから、絹はふーっと大きく深呼吸をする。
一歩目を踏み出す。
これが、仲間への一歩となるのか、それとも別のものなのか――まだ、分からなかった。
※
居間にいたのは、島村だけだった。
「ボスは?」
久しぶりに、自分の声がボスと音にした。
外では「先生」と呼ぶせいだ。
絹の唇には、ボスの方がしっくりくる。
「京都だ」
忌まわしい地名が出てきた。
やはりボスは、織田のところか。
「情報がとびとびなの…私が拉致されたあたりから。話してくれない?」
島村が待っていた、ということは、話をする気が多少なりともあるということだ。
しかし、すぐに彼は返事はしなかった。
ボスに止められているのかもしれないし、彼自身、話すことに迷いがあるのかもしれない。
「石橋、という人の弟子だったところまでは…聞いたわ」
その名前に――島村の目が、反応した。
蒲生への電話は、自室からかけたので、カメラは切っていた。
会話の内容を、他の人間は知らないのだ。
「石橋という科学者は…」
ずっしりと。
そんな重さで、彼は唇を開いた。
「死ぬまで、トレーサーという装置の開発をしていた」
聞きなれない横文字が出る。
「人の身体を複製するには、クローン技術がある。しかし、これは単に同じDNAの『身体』を作るだけだ」
ズシン、ズシンと――ゆっくりと重い足取りが、地面を踏みしめる感じがした。
「トレーサーというのは、『ここ』を複製する技術だ」
島村の指が。
静かに。
自分の。
こめかみを。
指した。
※
絹は――鳥肌を立てていた。
ざわっと、一瞬にして自分を冷気が包み込んだ気がしたのだ。
頭の中に巡る、記憶の羅列。
その中のいくつかが、島村の言葉に過剰反応した。
明確な形ではない。
はっきりと、どれか、というわけでもない。
しかし、本能的に『トレーサー』という物の影響物に、自分が触れていることに気づいたのだ。
「人の脳というものは、膨大な量ではあるが、結局は三次元ハードディスクだ。その情報を、立体的にトレースできれば…別の人間に複写できる」
島村が、重い足を止めて絹の前に立つ。
見下ろす、ただ黒い瞳。
声や音など、所詮空気の振動。
見えるものなど、所詮光の反射。
『自分』など、所詮脳活動の――副産物。
あぁ。
ざわり。
全身の毛が逆立つ。
分かった。
多分、絹は分かった。
頭の中を、断片的な記憶が駆け抜ける。
余りの速さで捕まえそこなうばかりで、明確に音には出来ない。
しかし、絹は手を伸ばしていた。
島村の――左手を強く握った。
彼は、それに過剰反応したりしない。
視線を、ただ手元へと落とす。
あぁ、あぁ。
自分は、何をしようとしているのか。
黒い長袖。
夏なのに。
ただの黒好きの変人とばかり、思っていた。
その袖口を、ぐいっと引き上げる。
傷だらけの、手首。
何度も、自分で死のうとした跡。
蒲生が言った。
島村を遡れば、『二人』につながる、と。
自殺未遂ばかりして、行方不明になった男と。
「天野…さん」
絹の呼んだ名前に――島村は、ゆっくりと目を閉じた。
※
二人の男がいた。
一人は、天野の兄。
もう一人は、見知らぬ死にたがり。
天野の兄は、おそらく科学者になりたかったのだ。
家を出て、彼はボスのところへ弟子入りした。
そして、何か起こった。
少なくとも、命にかかわる事件。
ボスは、天野の脳にトレーサーを使った。
そして、手に入れた死にたがりの脳に――移したのだ。
出来上がったのは。
死にたがりの身体と、天野の思考を持つ生き物。
「いつ…調べた」
絹の手から、自分の左腕を離しながら、『島村』は呟く。
「蒲生が…あなたを調べたら、『二人』の人間に行き着く、と言ったから」
絹は、自分の心臓の音を強く感じながら、正直に答えた。
ここにいる人間は、天野であって天野ではない。
その事実を噛み締めると、心臓が強い音を立てるのだ。
複製の思考と、複製の心を持つ別の人間。
黒い服は――誰への追悼の表れなのか。
死にたがりの男の心へか。
それとも、死んでしまった天野という男へか。
「蒲生か…トレーサーのことは聞かされていないようだな」
そんな心臓でも、絹は島村の言葉を聞き、理解し、そしてボスのことへとつなげていかなければならなかった。
「ボスが呼ばれているのは…誰かをトレースするため?」
誰かが、死にそうなのか。
織田の誰かが。
あっ!
「…織田!?」
連想ゲームで、即座に言葉が出ていた。
そこまで大物の命に関わることならば、ボスを脅してでも連れて行くだろう。
仕切っているのは――渡部一族か。
自分をよく思っていなさそうな蒲生に、トレーサーの話を教えてやる義理などないだろう。
渡部の息子は、それを知っていたのだ。
まだ、彼の言葉の全てとはつながらないが、ボスを巻き込むという事実のみは、納得できた。
それに、織田ならトレース先の身体は山ほど持っている。
青柳系列から、いくらでも選び放題だろう。
そして、石橋という科学者が死んだ後、トレーサーの技術者として、ボスが選ばれたのだ。
これ以上ない、人選だった。
※
トレースは、生き延びることとは違う。
本体は死に果て、消滅するというのに、意思のコピーが残るに過ぎない。
しかし、そのコピーは自分が生き延びたと思うのだろう。
過去の記憶を持ったまま、そこに『自分』が存在するのだから。
だが。
それは、本当は『自分』ではない。
島村はそれを知っているから、真っ黒な服を着る。
織田も死ぬ。
彼は、何色の服を着るのか。
ピンポーン。
チャイムが、居間の静寂を切り裂いた。
時間がかかりすぎているので、アキが心配して鳴らしたと思った。
インターフォンのカメラから返事をしようと、画面を見ると。
ニヤっと笑っている男がいた。
渡部だ。
部活帰りにそのまま寄りました風の、ラフなスポーツウェア。
こんな時に。
いや、こんな時だから来たのかもしれない。
絹の動向をチェックしていたのなら、いい機会だろうから。
アキが、すぐ真後ろにいた。
カメラごしにも、警戒の色が赤く見えるほどだ。
渡部に対しては、島村以上の警戒色を発している。
すばらしい判断だ。
「渡部よ」
絹は、島村に告げた。
「家には入れない…玄関にも、だ。こっちが招き入れなければ、この家は誰も入れない」
島村は、渡部と話すことはないようだ。
「ボスは、トレーサーの仕事が終われば、無事帰ってくるのよね」
絹は、島村に確認をした。
ボスは、血筋から一応織田側だ。
素直に仕事だけこなして口をつぐめば、命までは狙われないだろう。
トレーサー技術を持っている人間だからこそ、余計に。
また織田が、いつそれのお世話になるとも限らないのだから。
「ああ、それが条件だ」
島村の言葉に、ふっと自分の足に力を込めた。
「分かったわ…じゃあもう、渡部と話すことはない」
絹も、そう判断した。