顔
完璧につながった――という感覚とは、少し違う。
島村が、天野の兄説のことだ。
あの歩くゴージャスと、余りに似ていない。
似ていない兄弟など沢山いるのだから、それだけで決められるわけではない――それは、分かる。
関わりがあるのは、あの写真からも間違いないだろう。
ただ、蒲生はいったのだ。
島村の過去をたどっていくと、『二人』の人間に行き当たると。
絹は、天野の兄ではない方の人間も、ちゃんと彼に聞いたのだ。
もう一人は、絹の知らない人間だった。
三度の自殺未遂の後――病院から謎の失踪をした男。
大卒ではあったが、科学者ではない。
ああもう。
考えていても始まらないし、本人に聞いたところで教えてもくれない。
そして、この件については、渡部とボスのことにはおそらく無関係だろう。
だから、後回しだ。
永遠に、後回しかもしれないことでもあった。
もし、島村が本当に天野女史の兄であったとしても、だからそれがどうだというのだ。
本人の意思でボスの元にいるのだから、人の勝手ではないか。
絹はそう割り切ったのである。
その割り切りを待っていたかのように、ドアがノックされた。
「はい?」
はっと、意識を広井家用に戻す。
でないと、怖い顔を見せることになりそうなのだ。
「失礼します」
ドアを開けたのは、アキだった。
絹は、ほっと息をつく。
「高坂巧さまがおいでになられたので、お知らせするよう言われて参りました」
その安堵が、一瞬にしてひっくり返る。
自分の心臓が、激しく飛び跳ねたのだ。
「先生が!?」
この瞬間の、絹の裸の目を――きっと、アキには見られてしまったことだろう。
しかし、それに構っていられる心情ではなかったのである。
「いま朝様とお話中です…終わったら、また呼びに参ります」
既に、アキの言葉は絹の耳を素通りしていった。
本人が来たのだ。
目の前にして、ちゃんと話が聞きたかった。
絹に用事があったワケではない。
それは、分かっている。
チョウのおまけでもいいのだ。
とにかく、無事をこの目で見たい。
「では…後ほど」
ドアが閉ざされても、絹の心臓はすぐにはおさまらなかった。
※
一時間たっても。
二時間たっても。
アキは、絹を呼びに来なかった。
浮いていた気持ちが、だんだん下へと降りてゆく。
地面に降り立ってなお、更に沈んでいく気分だ。
二時間半ほどだって、ようやくノックがきた。
慌てて立ち上がると、返事より先にドアが開けられる。
「申し訳ありません…急いで」
ただ、呼びに来たのではない。
アキは絹の腕を取ると、そのまま部屋を飛び出し、階段を駆け下りたのだ。
理由は分かった。
階段の踊り場を回ったら、見えたのだ。
ボスは、帰ろうとしているところだった。
「先生!」
腕を引かれながら、絹は彼を呼んでいた。
振り返る眼鏡の縁が、明かりに反射する。
「先生! 少し私とお話を!」
「巧…」
引き止める絹に、見送りに出ていたチョウも、呼び止めようとしてくれた。
「すまないが…時間がない…また来る」
軽く片手を上げて――ボスは、ドアを出て行ってしまった。
あぁ。
無事なのは、姿を見て分かった。
しかし、それを手放しでは喜べない。
絹を、避けているように感じたのだ。
階段の一番下で。
動きを止めたアキに腕を取られたまま、絹は立ち止まった。
「アキさん…私の部屋にお茶を二つ、新しいのをお願いできるかな」
チョウが、彼女に頼む。
「はい、了解いたしました」
返事をしながらも、絹から手を放すべきか、彼女は少し逡巡しているように思えた。
しかし。
絹の手は――アキから、チョウへと受け渡されたのだ。
「絹さん…少し話があるんだが、時間は大丈夫かな?」
にこり。
アキの手とは違う、少し低い温度の手。
絹は、それに手を引かれて二階へ戻ったのだった。
※
「夏休みになる前にね…」
お茶を出したアキが下がると、チョウはゆっくりとしゃべり始めた。
絹をソファに座らせ、自分は窓辺の方を向いている。
「巧が、一度うちに来たんだ」
聞いたことのある話だ。
確か、車の中で。
三兄弟の誰かが、そんなことを絹に言ったのだ。
「あの時の巧は、見たことがなかったな…とても弱っていた…事情は余り話さなかったが、とにかく疲れ果てていた」
それが、京の誕生日の前日だと、チョウは言う。
「絹さん…その日、君はどうしていたのかな?」
答えなど、考える必要はなかった。
京都にいた時だ。
しかし、答えられるはずもない。
表向きは、病気で欠席の日だったのだから。
答えない絹に、チョウは返事を強制したりはしない。
ただ、話が続く。
「そのもう一日前…不思議なことがあった。親戚の危篤の知らせだ…私は、息子達にすぐに病院に向かうよう告げた。私も向かった…しかし、その連絡は…嘘っぱちだったんだよ」
長い言葉の中に、疑惑の種が見える。
チョウが、たくさんの違和感を覚えている気配が、一言ずつにこめられているのだ。
「その翌日、君は病気で休み…巧が青い顔でこの家に転がり込んできた」
あぁ。
絹は、ゆっくりと目を閉じた。
チョウが、言葉をつなげていっているのが分かったからだ。
「私はね…推理したんだ。あの危篤の連絡は、いたずらでもなんでもなく、息子達を君からひきはがすために仕組まれたことなんじゃないか、ってね」
かちっと。
パズルピースを、はめおえた音がする。
絹は目を閉じたまま、その微かな音を聞いていた。
「そして…将が言った。『絹さんが、危ないみたいなんだ』、と」
目を閉じていても、チョウがすぅっと動いたのが伝わってくる。
絹の側にくる。
そして、膝をついて目の高さを下げる。
「間違っていたら済まない…」
前置きがなされた後。
こう聞かれた。
「もしかして、危ない理由は…『桜』のせいかい?」
何て――聡明な男。
※
絹は、どう答えればいいのだろうか。
ボスが話していないことならば、彼女もきっと話すべきではない。
絹は、ゆっくりと目を開けた。
右手に、チョウの瞳がある。
深くやさしい瞳だ。
「巧の様子がおかしかったから、巧の過去を調べてしまったんだ、おじさんは…」
悪いおじさんだね。
「そうしたら、渡部建設が出てきたよ…『織田』も、出てきた」
ゆったりとしたチョウの言葉が――痛い。
死んだ妻を、踏みしめているような音がするのだ。
「まさか、巧が織田の血筋だとは思わなかったよ…でもね、それで何故絹さんが危険なのか…分かった気がした」
チョウは、経験で知っている。
妻の桜が、どこまで彼に話したかはしらない。
しかし、彼女が命を落としてしまうほど、追い回す連中だということは、よく知っているはずだ。
「おじさんに…君を守らせてもらえないかな?」
くらっと。
絹が、目眩を覚えるほどの吐息の声。
色はない。
でも、心がそこには残されていた。
桜を守れなかったという心が。
絹は――立ち上がった。
心の中には、葛藤がある。
彼女の持つ、この顔のせいだ。
絹は、初めてこの顔に嫉妬した。
チョウに愛され、織田に必要とされる顔。
それにそっくりな、まがいものの自分。
絹は、この顔をボスのために利用してきた。
しかし、本当はこの顔に振り回されていただけだ。
「私に…」
声が、震えた。
それを噛み締め、ドアへと向かう。
「私に…守ってもらう価値などありません」
ああ。
なんて憎い――この顔。