平穏の終わり
『はろうー』
携帯電話に舞い降りたのは――蒲生。
いつか来ると思っていたが、ついに来た。
「いま、アルバイト中なので、またにしてください」
ちょうど、お昼休みの終わりかけ。
秘書控え室に帰ってきた頃だった。
『そう、思いっきり警戒すんなよ…ちょっと聞きたいことがあるだけだ』
しかし、相手は自分のペースで生きる男。
『絹んとこの保護者が、渡部に何度か呼び出されてるんだが、ありゃなんだ?』
えっ!?
しばらく連絡を取っていない、ボスの行動を聞かれたのだ。
しかも、渡部絡み。
『あ、渡部の親父の方な』
すぐに追加情報が出る。
親父と言えば、ボスの異母兄にあたる人だ。
兄弟で仲良く、酒でも酌み交わそう――なんてありえない。
そう思ったからこそ、蒲生も連絡してきたのだろう。
『お前の保護者が、科学者なのは分かった。前に石橋の下で学んでいたのも調べた…ただ、何の技術を今回必要としてるのか、わからねぇ』
えっ、えっ?
絹の考えが、追い付かない。
「石橋って?」
一体、誰なのか。
まずは、そこからだ。
『あぁ? 絹は、保護者のこと知らなすぎだろ?』
そこからかよ、と突っ込まれる。
『織田のお抱え科学者…だった危ない爺さんだ。もう、おっ死んだがな』
蒲生の言葉で、ボスの空白の時間が埋められていく。
大学を卒業して、すぐにマッドサイエンティストになったとは考えにくい。
ボスは、その石橋という人の元で、危ないことを学んだのだ。
そこまで考えた時。
午後の始業チャイムが流れる。
「また後で連絡するわ」
絹はそう言うや、携帯を切った。
多分、今頃蒲生が切れた電話に、毒づいているだろう。
しかし、気になる。
石橋という人はともかく、渡部父が動いたことだ。
織田からの、正式な仕事の気配がした。
※
「絹です」
家に帰り着いて部屋に戻ると、蒲生より前に――島村に連絡した。
いま、向こうがどういう状況か知るためだ。
島村に電話するのは、これが初めて。
「蒲生から電話が来たの…渡部がボスに絡んでるって」
とにかく、ボスの安否が気になる。
蒲生の連絡は、カメラからの情報で、大体把握はしているはずだ。
『先生なら無事だ…渡部のことも気にしなくていい』
淡々とした口調。
いつもどおりだが、内容が気に入らなかった。
渡部のことは、気にしなくていい。
絹を拉致した、明らかに何か悪巧みをしている人間を――気にしなくていいなんて!
ありえない!
逆に言えば、そのありえない状況がありえるのは。
ボスが、渡部に協力すると決めたことだ。
「ボスは…何をさせられるの?」
ため息をつきながら、絹は結論を口にした。
『お前は、無事夏休みをすごせ』
解答は、なかった。
絹に――おそらく、拉致されたりするな、という意味合いの言葉をこめただけ。
「隠されると、動きようがないわ」
もう一押し。
『……動くな』
プツッ。
話は終わりだとばかり、携帯電話は切れた。
彼も、ボスの件で機嫌がよくなかったのかもしれない。
とりあえず、わずかな情報を汲み取ろうとしてみた。
ボスは渡部側につき、何かをする。
絹がさらわれずに夏休みを過ごせば、その間にその何かが終わるのだろうか。
「んー」
しかし、要領を得ない。
あんな古式ゆかしき織田が、ボスの未来的マッドサイエンティストの力を必要とするなんて。
調べる糸口があるとするなら、蒲生も言った『石橋』という科学者だ。
織田のお抱えだったらしいし、ボスはその弟子で。
そこで学んだ何かが、必要とされているのかも。
「…………」
絹は、携帯電話を見つめる。
蒲生にかけなければならないのだが――いやだなぁ、という気持ちと軽く葛藤したのだった。
※
『きたきた、まってたよー』
電話の向こうは、相も変わらず軽いノリの蒲生。
本当はかけたくなかったと言いたいが、言うと余計な時間を取られそうで自重する。
「先生が渡部のところで何をするか…まったく分からないの…本当よ」
自分もカヤの外であることを、絹は主張した。
『はっはっは…石橋のことも知らないんだから、それもあるかもなー』
本当に信じたのかは分からないが、絹がボスのことを実はよく知らない、という事実だけは認識しているようだ。
「その、石橋って人の研究と関係あるんじゃないかと思うけど…何をしてた人?」
こうやって、敵側の人間と話しているのは、妙な気分だ。
敵の敵は味方とはいうが、気は許せない。
この男だって、その気になれば絹やボスを平気で害せるのだから。
『さーじっさんだし、もうおっちんでるしなあ…織田の内部のことは、オレも調べにくいんよ』
蒲生もお手上げか。
『あ、しかし、絹んとこの保護者を調べてて、面白いものが引っかかったぞ』
電話の向こうが、ニヤッとした気がした。
面白い?
まさか、チョウに恋慕しているホモということがバレたのか?
絹は、一瞬頓狂なことを考えてしまった。
いや、実はそれは真面目な話だ。
ボスを殺すなら、刃物はいらない。
チョウの身の安全を盾に取れば、何だって言うことを聞くだろう。
『保護者んとこの助手…あいつ…絹と同じ嘘の戸籍だな』
ああ。
ボス自身の話ではなく、島村の話だった。
嘘の戸籍などお手の物だから、そういうこともあるだろう。
絹は、その点にはまったく驚いていなかった。
『いろいろ突っ込んでたどったら…不思議なことに…二人の人間に行き着いたぞ』
途中で、枝分かれするんだ。
面白そうに、蒲生が笑う。
二人?
『その内の一人が、また傑作でさ…』
はっはっは。
笑うかしゃべるか、どっちかにして。
一人で電話口でウケている蒲生に、本当に突っ込もうかと思った。
『なんと、ボンが大好きな天野っちの兄貴だぜ』
瞬間。
絹の意識は、カメラの連続撮影みたいな、コマ送りになっていた。
死んだように眠る島村。
そばに落ちていた――天野女史の写真。