京
朝。
チョウのことではなく、時間的な朝。
絹は、歩いて登校する。
「おはようございます」
住宅街ですれ違う人にあいさつをすると、一瞬、向こうは戸惑った顔をする。
絹の顔のせいだ。
美しいものは、それだけで人の思考を奪うのか。
飾り物と知らずに集まる羽虫たち。
だから、絹はほほえむ。
偽物をありがたがる彼らの姿が、滑稽だからだ。
住宅街を出ると、少し大きな道に出る。
この道を、あとはまっすぐ歩き続けたら、学校につくのだ。
「高坂さん、乗っていきませんか?」
そこで、車通学のクラスメートに何回か声をかけられる。
男もあれば、女もある。
まだ、ほとんどクラスメートとは話をしていないので、絹に興味があるのだろう。
「いえ、結構です…ありがとうございます」
たおやかに会釈して、絹は歩き続ける。
広井兄弟以外と、仲良くする気はなかった。
ボスが見たいのは、他の学生ではないのだから。
「あれ、絹さん…歩き?」
また停まった車の、後部座席のスモーク窓が開く。
絹さん。
そう彼女を呼ぶのは。
「おはようございます、広井くん」
将だ。
あいさつを投げると、座席の奥から、了も顔を出す。
「おはよう! 昨日はごめんね!」
兄の背中に、のしかかるようにして。
その了の瞳に、憧憬というものが、しっかりと見いだされる。
絹が、昨日植えつけたそれ。
「よかったら、狭いけど乗っていかない?」
将の申し出に、絹は少し考えた。
ボスのことだ。
今頃、家で拳を振り上げながら、『乗れ! 絶対乗れ!』と騒いでいそうだった。
「ご迷惑ではないですか?」
一応、控えめな発言をしてみる。
答えなど、最初から分かっていた。
「大歓迎!」
答えたのは、兄の頭を押しつぶしてはしゃぐ――了だった。
※
「徒歩通学って、大変だね」
後部座席に、三人並んで座る。
将は真ん中。
さっきの仕返しにか、身を乗り出そうとする了を、がっちりブロックしている。
「いえ、外を歩くのは楽しいです」
自由な外は最高だ。
本当に、絹はそれを楽しんでいた。
その真意までは、彼らには伝わることはない。
彼らのイメージする絹は、過去までも美しいのだろうから。
「そうだよね、外って…あうっ!」
同調しようとした弟は、将の肘の一撃で黙らされる。
それに、くすっと笑おうとしたら。
「うっせーぞ、ジャリども」
低く恫喝するような声が、車内に響く。
絹は、びくっとした。
この空間には、不似合いな音。
助手席だ。
男が、身をよじるように振り返る。
あっ。
絹は、すぐに気付き、そして理解した。
この男が――
「京にぃ、絹さん恐がるから、しゃべっちゃだめ!」
了は、恫喝にまったく物怖じしていない。
助手席の男が、長兄の京。
一つ上の二年生。
※
「絹だか木綿だか知らねぇが、オレの安眠を妨げんな」
ガラの悪いおぼっちゃまだ。
さっきまで静かだったのは、熟睡していたのか。
「すみません、乗せていただいたのに…静かにしています」
絹は、ちょうど助手席の後ろ。
京から一番見えない位置。
「女か…」
京は、反対側へ身をひねり、座席の頭を越すように、絹を見た。
待ち構えていた彼女は、特上の微笑みで迎え撃つ。
見開かれる、目。
止まる時間。
彼ら兄弟にとってこの顔は、ただ美しいだけのものではない。
DNAに突き刺さる顔なのだ。
「お前…」
茫然と、呟かれる言葉。
しかし、彼は最後まで言い終わらなかった。
車が、止まったのだ。
「到着いたしました」
静かな運転手の言葉。
「乗せて下さって、ありがとうございます」
絹の席は、最初におりるべき位置。
運転手が、ドアを開けに回ってくる前に、彼女はすっと車を降りた。
「あ! 絹さん!」
降りてついてくるのは、将だけ。
中等部は、校舎そのものが違う。
了は、そっちへ行かなければならない。
同じ校舎のはずの京は。
まだ、車を降りられないようだった。
※
ワイルドな長男、元気な次男。そして、可愛い三男。
これでようやく絹は、兄弟全部と対面できた。
そして、手応えも感じていたのだ。
ボスの読み通り、この顔にしたのは正解だった。
たいした労力も必要なく、簡単に釣り上がるのだから。
「口は悪いけど、いいアニキなんだ、許してやって」
京のことを、弟が詫びる。
仲のいい兄弟なのは、車での雰囲気で分かっていた。
それに、京のガラの悪さも、おぼっちゃまの範囲をはみ出しそこねている。
本物の恫喝は、あんなもんじゃない。
浮かぼうとする記憶を、絹は再び深くに押し込めた。
将を振り返る。
「私がお邪魔してたんですもの、気にしないで」
教室に入って、仲良く話しながら席についた。
この光景を、クラスメートはどう見ているのか。
同じ車から降りたのを、見た人もいるだろう。
誤解なら、大歓迎だ。
そうすれば、変な男も寄ってこないだろう。
絹の手間も省けるし、将相手の仕事もやりやすい。
もう少し、この顔に慣れるまで、邪魔は欲しくなかった。
綺麗な子の悩みなど、想像でしか分からないのだから。
だが。
誤解が広まるより先に――変な男の方が、先にやってきてしまった。