アキ
部屋に戻って、絹は一言。
「切りますね」
ペンのスイッチを落とした。
ちゃんと、ボスは見てくれただろうか。
大好きなチョウを。
コンコン。
ノックされて、絹は慌てた。
「はい?」
また、了だろうか。
「お風呂のご説明に参りました」
女性の声だが、少し若い。
この家で、雇われているのは五人。
運転手の男性が二人と、家を取り仕切っている年配の男性が一人。
桜のことを教えてくれた、年配の女性が一人。
後一人は。
「はい、お願いします」
絹がドアを開けると、予想どおりの最後の一人だ。
二十代後半くらいの、しっかりして見える女性。
「各部屋にバスはありませんので、高坂様は二階のゲストバスルームをお使いください」
ちょうど、絹の斜め向かいのドアを指し示す。
「ぼっちゃま方は、出入りなさらないよう釘を刺されてますから、安心してお使いください」
くすっと。
釘を刺されているシーンを、見たに違いない。
真面目な表情が、少し緩んだ。
「いつでも、お湯は出ますので…あ、それから」
表情を再び真面目にもどしながら、彼女は絹の方へ向き直った。
「男性には言いづらいことは、遠慮なく私におっしゃってください」
てきぱきっ。
ちょっと角張った感じはするが、逆に言えば頼もしい。
「お買物などの時は、私がボディガードも努めさせていただきます」
挙げ句。
どういう指示を受けているのか、ボディガードなどと言いだす。
逆に危ないのではと、心配になった絹だったが。
「空手、剣道、合気道…すべて三段ですので、安心してお任せください」
彼女は――大きな手を、見せてくれた。
※
「アキさんは、ほんとすごいよ! 強いしかっこいいし! 合気道も教えてくれるし!」
翌日の居間。
絹の質問に、了は手放しであの女性のことをほめたたえた。
女性をほめる形容が、入っていない気がするが。
絹は、昨夜、部屋で考えていることがあった。
アキと呼ばれる女性が、それに見合う人か。
それを、確認したかった。
「いつから、ここで働いてるの?」
この家に、若い女性の使用人がいることがおかしいわけではないが、少し違和感がある。
「ぶふっ!」
すると。
了が、ほとんど反射とも思える速さで吹き出した。
「あはは! それは! ぶふっ!」
ソファの上を、転げ回って笑う。
そんなに、変なことを聞いたのか。
「おい、了…ついにネジ、とんだか?」
居間に入ってきた京が、弟の錯乱ぶりに驚いている。
「あはは! だって、絹さんがっ! アキさんが、いつうちに来たか、聞くんだもんっ!」
ひゅーひゅーと、呼吸困難の息で、了が理由を話す。
「あぁ…なるほど…ぶふっ!」
あの京が――吹いた。
こらえきれないみたいに。
「あ、アキさんね…うちの前で、行き倒れてたのっ! や、山ごもり、帰りっ!」
息も絶え絶えに、了が言葉を絞りだす。
ちょっ。
なんか、変な単語が聞こえた。
「このご時世に、山ごもりだぜ…帰りに、ここまで走ってきて力尽きたとか…ありえねぇだろ」
京すらも笑わせる、その破壊力。
「学校を卒業したら、武者修業に行けって…どういう親だよ」
えーと。
つっこみどころが、満載のようだ。
しかし、素性は怪しい。
「何年前のこと?」
もしも、最近なら――
「もう、四年か五年くらいか?」
セーフ。
半端な期間が、逆に彼女の身元を保障してくれた。
織田でも何でもなく、ただの野性の不審人物なのだ、と。
※
「アキさん、すみません」
昼食が終わった後、絹は端の方で彼女に声をかけた。
女同士の話が、したかったのだ。
「はい、何でもおっしゃってください」
しゃきっと、彼女の背筋が伸びる。
「アキさんは、いつもどこでお稽古してらっしゃいます?」
絹の質問に、アキは表情を険しくした。
「お稽古、といいますと?」
表現が、回りくどかったようだ。
「身体を鍛えてらっしゃるところです…いまも、欠かさずトレーニングされてますよね?」
山ごもり、などという単語が出てくるのだ。
今は腑抜けになってます、なんてありえなかった。
「早朝、一階の広間で、ですが…テーブルを片付けると広いので」
言いながらも、まだ絹の意図を掴みきれていない声。
「ご一緒させてもらえませんか? 高校に入って、さぼりすぎて、だめな身体になってるみたいで」
ただ、広井ブラザーズの相手だけしていればよかったので、もはや体術の訓練などしてもいなかった。
この訓練ばかりは、相手がいるのだ。
アキが、うってつけに思えた。
「あの…何か身に付けられてるのですか?」
格闘歴を聞かれる。
「護身術のような、ものです…何かあったら、自分で守らないといけませんから」
言い終わるや。
がっし!
アキの大きな手が、絹の両手を握り締めていた。
「素晴らしいです! そうです、自分は自分で守れるのが一番です!」
新陳代謝のいい、温かすぎる手。
生命エネルギーさえ、そこにほとばしっているかのようだ。
「では、明日朝5時から…大丈夫でしょうか?」
手を放し、再びきりっとしたアキに問われる。
朝5時。
明日から、アルバイトも始まるらしいので、ちょうどいい時間だ。
「はい、お願いします…あ、できれば他の方には秘密で…心配されそうなので」
格闘において、ド素人ではないことを、見られるのはありがたくなかった。
まだ、絹のかぶっている皮が、はがれてしまうのは早すぎる。
アキは、心配しなくていいという風に――目を細めて見せた。
※
「おはようございます」
Tシャツに、学校のジャージで絹は、アキに挨拶をした。
彼女の方は、もっと早く起き出していたようで、身体をほぐしている。
「おはようございます、時間通りですね」
にこりと。
動きを止めて、アキは大きく息を吐き出すように応えてくれる。
「失礼して、身体を少し見せていただきますね」
アキが近づいてきて、絹の手首を取った。
そのまま、ずーっと上に引き上げられる。
「痛かったら言ってください」
その腕を、更にゆっくりと後ろの方に反らす。
「やわらかいですね」
引き続き、二の腕、背中、脚――脱がされはしなかったが、透視するかのように確認される。
「スポーツをやっていた身体ですね。よく締まってます」
絹から何も聞かず、アキは自分を納得させるよう呟いた。
正確には、スポーツとは違うが、絹は否定しない。
「身体をほぐしたら、軽く組みましょうか…その方が、良さそうです」
どうやら。
アキの視点から、彼女の身体は合格点だったらしい。
お嬢様相手というよりは、きっちり相手をしてくれる気持ちに切り替わったのか。
「お願いします」
間違いなく、相手は絹よりは上。
上の人間は、手加減の仕方を知っているから、彼女にとってもやりやすいのだ。
身体を温め、絹はアキと向かい合った。
「合わせますから、好きなように打ち込んでみてください」
大きく見える人だ。
ガッチガチのゴッツゴツ、という身体ではないのだが、軸がしっかりとしている。
すぅっと、息を吸い込む音でさえ、すぐ側にある気がする。
「胸を借ります」
崩しの格闘技、打の格闘技、足の格闘技。
ひととおり、身にはつけている。
ただ、余り正々堂々としたものはなかった。
真正面まで迫っても、アキは微動だにしない。
ビュッ!
右足を、前に蹴り出した瞬間――アキは消えた。
真横に移動したのだ。
宙に浮いた脚をひねり、そのまま横蹴りに切り替える。
ずどん、という音を聞いた。
アキがその脚を、がっちりと腕でガードしたのだ。
「……」
彼女が、何とも言えない顔で――絹を見た。
※
急いでシャワーをひねる。
早朝とは言え、真夏だ。
既に、全身汗だくだった。
色男たちには、とても見せられる姿ではない。
頭から、熱いお湯を浴びながら、絹は身体のあちこちのヒリつきを感じていた。
手加減はしてもらえても、格闘なのだ。
まったく無傷、というワケにもいかない。
しかし。
「何か、事情がおありなのですね」
蹴りを止めたまま、彼女が神妙な表情になって言った言葉。
誰かに狙われていることは、既に聞いているようなのに、今更彼女が、そんなことを言い出すのが奇妙だった。
「あなたの護身術は…暗い匂いがします」
ああ。
その言葉で、絹は理解したのだ。
彼女は、本当の武道家なのだと。
絹の習った裏世界の動きを、あっさり見抜かれたのである。
要するに。
普通のお嬢様なんかではないことを、気づかれたのだ。
まあ、もともと拾われっ子であることを、広井家には公言しているのだから、問題はないのだが。
「それに…」
そこで、終わりならよかったのに。
脚を下ろした絹に、今度はアキが間合いを詰める。
「それに…あなたの目にも、暗いものがあります」
疑うでも、情け深い目でもなく――まっすぐな目がすぐ側だ。
「知りたいですか?」
どうして。
どうして、絹はそんなことを言ってしまったのだろう。
本当のことなど、話せるはずないというのに。
言葉は的確でも、何の偏見も感じないこの人に、どこか好感を持ってしまったのだろうか。
「いいえ、必要ありません。暗さそのものは、悪いことではなく…使い方次第というだけです」
凛と――アキは、言い切った。
素晴らしきかな、陽の人。
考え方も行動も、何もかも健康的だ。
絹とは、真反対。
だからか。
シャワーを浴びながら、絹は思った。
自分の中に、憎らしさと好ましさが、同時に存在してたのだ。