サクラチル
「天野さんも、祭には来るの?」
うちわをもらった絹は、開け放たれた座敷に座って、ぼんやりと自分を扇いでいた。
ぼんやりするしかない暑さなのだ。
うちわで扇いだ熱は、すぐに華麗にターンして絹の身体に取り付きたがる。
渡部と争う気も、萎えるほどの暑さ。
おそるべき――盆地効果。
「アマの名前は出すなよ…なお暑くなる」
こっちも浴衣に着替え、渡部は無造作に足を投げ出している。
彼女の存在が、気温上昇と結び付けられ、絹は笑ってしまった。
確かに、ここで彼女に会ったら、暑苦しい展開になりそうだ。
「しかし…絹ちゃんが。物分りよくて助かったよ。協力してもらえないと、言うことを聞かせるために、頭使わなきゃいけなくなるからなぁ。この暑いのに」
熱風に乗る、渡部のとぼけた言葉を、絹は右から左に受け流す。
いちいち、突っ込む気も起きない。
「まあ、お礼だと思って付き合ってよ」
ニヤニヤ笑いに、絹は億劫に反応する。
「お礼?」
彼に対して、絹がお礼など覚えるはずがない。
いまのところ、百害あって一利なし、なのに。
「そう、お礼…君の過去の情報、本当に全部消しといてあげたから」
おじさんも、甘いよね。
眉を顰める。
なぜ、彼はそんなことをしたのか。
渡部にとって、何の利益にもならないことを。
恩を着せるためや、好意なんて――ありえない。
何か意図があるのだ。
「その方が…何か、あなたに都合がいいんだ」
扇ぐ手が、止まる。
絹のものも、渡部のものも。
世界を占めるのは、熱風とセミの声だけになる。
絹の過去がないと、都合がいいということは。
「他の人に、私の過去を調べられたくないのね」
セミと不協和音を起こしながら、絹はその世界を破る声を出した。
「ほんとに」
ゆっくりゆっくりと、渡部が彼女を見る。
「ほんとに…頭がいいね、絹ちゃんは」
悪党の黒い瞳。
いまはありがたい、気温を2度下げてくれる色だった。
※
「さて、出かけようか」
渡部が、すくっと立ち上がる。
スポーツをやっている身体に、浴衣が異様に絵になる。
しかし、口に出された言葉に、素直に従いたくない内容だった。
この暑いのに。
それと。
「どこへ?」
おしゃべりそうに見えて、この男は肝心なところはしゃべらない。
だが、彼がすることなのだから、この顔を有効利用するつもりだろう。
「どこでもないさ、せっかく祇園祭にきたんだ、観光したいだろ?」
手を差し伸べられる。
さあ立って、と甘い微笑でいざなわれるが――絹は、糸目になっていた。
絶対、アリエナイ。
それともう一度言おう。
この暑いのに!!
しかし、やなっこったという返事は、受け付けない笑顔だ。
絹は。
差し伸べられた手をガン無視して、自力で立ち上がった。
浴衣の裾を直す。
「どんな観光なのやら」
絹の暗い過去を消し、桜と似た顔で京都を歩かせる。
予測のひとつとしては。
この顔を――誰かに見せたい。
桜の血縁がいるテリトリーだ。
可能性はある。
「日傘を出させよう」
差し出した手を、苦笑と共に引っ込めながら、渡部は先を歩き出す。
死んだ桜にそっくりな自分を見て、「誰か」が驚く。
驚いて、彼女の素性を調べようとする。
しかし、謎。
うーん。
絹の思考は、そこでストップした。
この先が、思いつけないのだ。
どうひねっても、出てこない。
「人が、多いからね」
下駄を履き、日傘を差した絹に、もう一度手が差し伸べられる。
彼女は、あらぬ方を見た。
「強情だなぁ」
手首をとられた。
絹が強情なら、渡部は――強引だ。
※
「夕方から、宵山が始まるけど、人が多くなりすぎるからな」
手首を引かれ、声を聞かされながら、絹はカラコロ歩いた。
京都について、初めて見る景色。
狭い路地に広がる、カラメル色のクラシックな木造の家々。
そこら中から、着物の人が現われそうな錯覚を感じる。
しかし、絹はさっきまでいた家の情報も、外側から記憶していた。
表札は、あの『青柳』
広い家だと、外に出た方がよく分かる。
右手に、延々と続いた塀のせいだ。
「ここはね…祭の時の仮宿になるんだ。広いからね。いろんな人が、出入りするかと思うけど、気にしないでよ」
いろんな人、ね。
絹は、その部分を奥歯で軽く噛んだ。
要するに、織田の悪党どもが集まるわけだ。
「まあ、殿ごとに客は分けられているから、そこにいる分には、人にはそう会わないだろうけどね」
ニヤッ。
渡部が、意味深に笑う。
ああ。
なるほど、と絹は彼のニヤリを理解した。
どうせ、おとなしくしてないだろう?
そう瞳は言っていたのだ。
絹が、あの家でウロつくだろうと――もしかしたら、逆にそれを望んでいるかもしれない、と思える。
でなければ、最初に釘を刺すだろう。
「おや、これは渡部のボン」
日傘の向こう。
こちらへ、歩いてくる人がいたようだ。
「こんにちは…柴田さん」
足を止め、頭を下げる渡部。
「宵山には、まだ早いですぞ…散歩ですかな」
「そんなものです」
絹は、日傘をふわりと上げた。
相手の顔を、見ようと思ったのだ。
濃い顔の、五十くらいの男だった。
眉ともみあげの黒々とした太さが、古代の男のような力強さを放っている。
日傘を上げた彼女をちらっとみたので、反射的に会釈してしまった。
一度下げたまぶたを上げると――男は、絹を見て時を、いや、世界を止めていた。
「お…かた…さま?」
セミが支配する世界に、彼もまた不協和音を起こすのだ。
※
「偉い人の奥さんに…似てるんだ」
絹は、日傘を回しながら、冷ややかな声を出す。
さっきの男は、彼女を『お方さま』と呼んだのだ。
古い表現だが、屋敷の女主人をそう呼ぶ記憶があった。
「先代の奥さんに、似てるらしいよ、絹ちゃんは」
ふふっ。
日差しをものともせず、渡部は微笑む。
さっきの柴田の顔を、思い出しているようだ。
先代?
一つ前の当主――織田のことか。
いまの織田も知らないのだから、先代と言われても、絹にぴんとくるはずがなかった。
ふぅん。
先代の嫁と同じ顔で、古くからの部下を驚かそうというのか。
ん?
絹は、いま考えたことに、ひっかかった。
ということは。
「望月桜って…誰の妻になるはずだったの?」
もう一人、同じ顔がいたのだ。
「そっちに行ったか…ははは、お察しの通り、当代のお館さまだよ。けど、子供ができたことを、ギリギリまで隠してたからなぁ、頭よかったよ、あの女…おかげで、結婚話はご破算」
本家が気付いた時には、もうほぼ臨月だしな。
渡部は、おかしくてたまらなそうだ。
「なんで、広井の長男が七月生まれか分かる?」
明日は、京の誕生日。
理由なんか、絹が知るはずがない。
首を横に振る。
「一族は、必ず祇園に顔出ししなくちゃいけなくてね…だからあの人は考えたのさ。妊娠が、ぎりぎりまでバレないようにするためには、祇園の終わったすぐ後から、子作りしなきゃいけないってね」
大学卒業したら、すぐ嫁入り決まってたから。
過去の話、だからだろう。
自分の考えていることの邪魔をしないから、渡部はペラペラと桜の話をするのだ。
しかし。
絹には、桜の決意が見えた。
チョウと結ばれるためには、もう既成事実しかない。
次の祇園までに、必ず子供を産まなければ。
そして――京が生まれた。
母が、京都に行かなくていいように、と。
親孝行にも、祇園祭の日に生まれたのだ。
※
見えないはずの桜の過去に、色がついていく。
古いしきたりから逃れるため、彼女はおなかの中の京に、全てを賭けたのだ。
「でも…子供ができたからって、よく無罪放免になったわね。悪党らしく、報復くらいするものじゃないの?」
確かに桜は死んだが、それは随分後のことだ。
少なくとも、了が生まれた後。
「ああ、それ? 最初は、望月の家が娘を死んだ扱いにしたんだよ、青柳を懐柔してね。当主の嫁候補に逃げられたなんて、あまりに聞こえが悪いだろ?」
桜の親心としてか、はたまた保身のためか。
どちらかは分からないが、少なくとも親は、チョウと別れさせようとは思わなかったらしい。
「ただ、賢い女のはずなのに、彼女はひとつだけミスをした」
少し、大きな通りに出る。
人も多くなり、屋台も並んでいる。
「八坂さんに、お参りに行こう」
強く手を引かれた。
絹は、八坂さんとやらに興味はない。
それよりも、渡部の言うミスが気になるのだ。
「望月桜は、何をしてしまったの?」
カラコロ。
鳴る下駄と喧騒で、聞こえないフリをされるかと思った。
「家族旅行さ」
だが、彼は答える。
絹の脳内で、猛烈なスピードで記憶がめくられる。
「もう、ほとぼりがさめたと思ったんだろうねー…でも、バカだよ、祇園祭に来るなんて」
ああ。
甦った記憶を確認するのと、答えあわせは同時だった。
もう大丈夫、青柳の家に近づかなければ大丈夫。
読み違った桜。
そして、生きていることを知られる。
サクラ――チル。