本当のママ
「はっはっは! でかした!」
家に帰り着いたら――ボスが赤飯を炊いていた。
まじですか。
絹は、予想を超えたその事実に、笑っていいのか困っていいのか分からない。
しかし、ボスは満足しているようだ。
何よりである。
「すぐ握ります」
本当なら、マッドサイエンティストの助手のくせに、いまの島村は三角巾とエプロンで、赤飯のおにぎりを作っている。
この家で、家事ができるのは、島村と絹。
彼がどこで家事の腕を磨いたかは知らないが、絹は必要にかられて仕方なく、だ。
あの施設では、何でも自分たちでやらなければならなかった。
「いやあ、あの了くんはたまらないね。はぁ…いじめてみたい」
思い出すだけで身をくねらせるボスの感想に、絹は笑ってしまいそうになった。
なるほど、と。
あの感覚は、女だろうとゲイだろうと、共通して覚えるものなのか、と。
だが、それを口に出して、ボスと分かちあうつもりはない。
自分は、悪魔との契約を履行するだけだ。
たとえ自分の感情と一致するところがあっても、それは単なる副産物。
ボスの指示の範囲内での、個人的な楽しみである。
「ああ、天文部…懐かしい」
「できました」
一人トリップするボスに、赤飯おにぎりの盛られた皿が差し出される。
それをむんずっと掴んで、ボスは宙を見上げるのだ。
「そう…天文部の観測会…チョウと二人きり、丘の上で美しい星を見上げたのだよ」
「……」
ボスの話をよそに、島村は次に皿を絹へと突き出した。
受け取る。
炊きたてなのか、まだ温かい。
「で、ボス…」
もしゃっと、赤いおにぎりにかぶりつきながら、トリップ中のボスに話かける。
まだ、目は戻ってきていないが、耳は聞こえているだろう。
「この顔のモデルになった人のことを、前知識として欲しいんですが」
サプライズのせいで、何にも情報がないのだ。
しかし。
ボスは、むっと顔をゆがめて――言った。
「イヤだ」
※
「あの女は、私のチョウを奪ったんだ。なぜ、そんな憎い女の話をしなければならない」
プンプン。
ボスは、子供のように怒りだす。
「もう、思い出したくもない」
しかし、言葉は矛盾に満ちていた。
絹は、黙って自分の顔を指す。
これがある限り、ボスは毎日思い出すのではないか。
「はっ!」
その指先の顔を見て、ボスは馬鹿馬鹿しいという顔をした。
「顔が似ているからと言って、同じものか?」
おまえが、私からチョウを奪ったのか?
実に、ボスは論理的だ。
分かりやすく、意外にも単純だった。
ああ、そうだ、これなのだ。
ボスは、ゲイのマッドサイエンティストだが、絹をちゃんと認識してくれている。
手駒でも、駒として磨いてくれるのだ。
いつか、この馬鹿らしい茶番に飽きるまで。
絹にとっては、その事実はとても大きいものだった。
彼には、朝と息子たち以外の顔など、単なる見分ける記号にすぎない。
どんな絶世の美女が現れようとも、それだけは揺らがない。
だからこそ、絹は何でもやるのだ。
「情報だけなら、僕が出せますよ」
島村が、赤飯にかぶりつきながら、助け舟を出す。
「チョウ関連のファイルは、極秘ファイルの中だ」
お前にも探せないと、ボスは言い放つ。
「先生…それは広井朝と息子らのファイルだけですよ。望月桜のは、そこらの雑多ファイルと一緒に入ってます」
うぐっ。
助手の、なめらかかつ平坦な声の突っ込みに、ボスは赤飯を喉に詰まらせた。
望月 桜。
それが、あの兄弟の母親の名前か。
「その名前を出すなー! 忌々しい!!!」
食べかけの赤飯を、助手に投げつける。
べしゃっと、顔のあたりにおにぎりの塊が張り付き――床に落ちた。
「まったく、不愉快だ!」
ヒステリーを起こして、ボスは居間を出て行ってしまう。
絹は、少し呆然としたまま、それを見送る。
島村は。
髪の毛に赤い米粒をつけたまま、てきぱきと片づけを始めたのだった。
※
「ほい」
しばらくして、島村が印刷した用紙をくれた。
ボスは、まだすねているのか、自室から出てこない。
「あぁ、ありがと」
長ソファの肘掛に、両足を長く伸ばしながら、絹は片手におにぎり、もう片手にファイル、という二刀流になった。
「あ、そういや」
ファイルも興味あるが、絹は助手にも聞いてみたいことがあったのだ。
「島村さんは、マッドサイエンティストの助手なんでしょ。こんな茶番に、よく付き合うね」
絹はいいのだ。
彼女はそのために買われたのだから。
しかし、彼は違う。
具体的には知らないが、島村にも目指すものがあるはずだ。
だから、ボスの助手になったに違いないのに。
「お前が学校に行っている間、先生はモニターを見ながら、人工衛星を撃ち落とす装置を作っている」
淡々と島村は、物騒なことを言った。
「じんこ…」
宇宙に浮かぶあんなものを、撃ち落としてどうしようというのか。
おそらく、まともな理由と目的ではないだろう。
絹は、深く追求しないことにした。
それより。
「先生は、遊んでいるだけじゃない」
淡々としながらも、きっぱりとした島村の声。
こっちの方が、重要だった。
彼もまた、絹とは違う意味で、ボスに畏敬の念があるのだ。
もぐっと、おにぎりの最後のひとかけらを飲み込む。
※
「あ、あとひとつ」
指を舐めながら、絹は質問を追加する。
ボスには、聞き辛いことがあった。
心構えとして、聞いておきたいこと。
「なんだ?」
絹は、一度唇をしめらせて。
ゆっくりと、こう言った。
「あのさ…ボスと……デキてんの?」
あの島村が――点目になっていた。
それが、絹の気になるところだった。
ボスはゲイだ。
そんな彼と、いままで同居しているわけだから、可能性として捨てきれなかったのだ。
点目が、少し色を取り戻す。
彼は、ぼりぼりとカラスみたいな頭をかいて。
「幸い、好みじゃないそうだ」
珍しく、苦笑いめいた表情で、島村は居間を出ていった。
ふーん。
やっぱりボスは、朝一途なのか。
しかし。
助手に入った島村が、最初にボスの趣味を聞かされた時は、さぞ複雑だったのだろう。
そんな推測ができるさっきの声に、絹は密かに笑ってしまったのだった。
※
望月 桜。
その資料に印刷された顔は、確かによく似ていた。
絹の顔を、自然に大人びさせれば、この顔になっていくのだろう。
享年 28歳。
事故死。
ボスや朝と同じ学校、学年、部活。
ということは、ボスの記憶の中に、何度も彼女は登場しているはずだ。
おそらく、意図的に脳内で抹殺されているのだろう。
さすがに、実際には手を下していないだろうが。
もし、手を下しているのなら、いまだにボスが、桜に忌々しさを覚えるはずがない。
ざまあみろが関の山。
生きている間に、勝てなかったからこそ、腹が立ってしょうがないのだろう。
20で学生結婚。
21で出産。
いまも昔も、デキちゃった結婚は健在のようだ。
大手電気メーカーを経営する広井家。
あの学校でいうところの成金組だろう。
そして、桜は。
「ん?」
絹は、ぱらぱらと書類をめくった。
肝心の、桜の家のデータがない。
「島村さーん」
絹は、一枚紙が抜け落ちているのかも、と彼を呼んだ。
「家の情報は……ない」
はぁ?
居間に戻ってきた彼の返事は、やはり平坦なものだった。
「余りに大物の子女は、学校にさえ出自を伏せるそうだ」
はぁ、さいで。
絹には、理解できない世界だった。
ともかく、朝よりも遥かに、身分とやらは高かったわけだ。
ふむ。
「あ、おまえもその口だから」
絹の思考を、島村がさっくり破る。
「は?」
口とは、なんのクチのことか。
「おまえも、学校の資料は出自不明扱いだからな」
いろいろかぎ回られると面倒だから。
は。
「あははははっ!」
さすがの絹も、これには声を出して笑わずにはいられなかった。
光栄なことに、高貴な桜と同じ扱いなのだ。
「ははっ……確かにわたしの本当の身分は明かせないわね」
桜とは――まったく反対の意味で。