森村
「やっ、絹ちゃん」
部活に行く時、不吉な呼ばれ方をした。
この学校で、彼女を「ちゃん」づけで呼ぶのは。
わ・た・べ・さ・ま・だ・け。
正直、足を止めたくはなかった。
「将くん、先に行ってて」
同行している、彼だけはここから引き剥がさなければならない。
余計なことを聞かれないようにと、余計な手出しをかけられないように、だ。
「待ってるよ」
しかし、この場面で言うことを聞かない将。
その気持ちを、少しは抜け駆けの方に使え、とツッこみたくなる。
「そんなに慌てて、広井を離さなくてもいいじゃないか…ねぇ、絹ちゃん」
甘い笑顔と、耳障りに感じる声が近づいてくる。
「何の御用ですか?」
森村いわく、彼が自分に関わってくるのは、一過性のものだと言っていた。
早く興味をなくしてほしいものだ。
「今日の体育…サボったでしょー。悪い子だなぁ」
アーメン。
絹は、クリスチャンでも何でもない。
しかし、この瞬間、心で十字を切っていた。
将も聞いているし、胸のマイクもしっかり聞いているはずだ。
そして、あの密会を――おそらく、渡部に知られている。
「何のことでしょう…おっしゃってる意味が、よく分かりませんが」
絹は、完全にシラを切った。
渡部と森村は違うクラスなので、さぼった事をリアルタイムでは、知らなかったはずだ。
後から情報が入ってきたとしても、それは森村から直接ではないだろう。
「いいんだよー…そんなとぼけなくても。先生に言ったりしないからさ」
小ばかにした言葉。
「でもさ…」
もう一歩、絹の方へ近づく。
「アレは、僕のオモチャだからさ…ちょっかい出さないでくれる?」
歪んだ――声。
「どうせ…壊れたら捨てるんでしょう?」
甘さの消えた声のほうが、よほど絹は対応出来る。
それに、渡部はニヤリと笑った。
「いやいや…壊れるならとっくに壊れてるよ…あいつ、超合金並みに頑丈でね」
絹も、にこりとした。
森村の心が、とっくに狂気に壊れていることを――この男は知らないのだ。
※
「体育…サボったんだ」
ぽつり。
渡部がいなくなって、将がそう呟く。
む、蒸し返さないで。
渡部に対応して、すりへった精神力の時に、今度はそっちから話がくると、絹も頭が痛くなりそうだった。
マイクの向こうも、同じように言っている気がする。
これで絹が、万年筆のスイッチを切る時間に、よからぬことを画策していると、ボスにバレてしまった。
「渡部さんの親戚って人がいて…そっちなら、もう少し穏やかに話が聞けると思って」
あくまでも、目的は桜の話だったのだと――将に思わせたかった。
正確には、森村を対渡部用ストッパーにしたかったのだが。
フタを開けてみれば、とんでもない男だった。
あの様子だと、渡部の人生のストッパーにはなりそうだが、絹の高校生活の助けにはならないようだ。
多分、彼は最大の好機が来るまで、渡部に従順なフリを続けるだろうから。
「そんなこと…一人でしちゃ駄目だよ」
少し、将が傷ついたように見えるのは、気のせいか。
時折現われる、あの翳りが顔を出していた。
「母さんのことで、絹さんが傷つくかもしれないって…それは、変だろ?」
完全に止まった足を動かして、将が彼女の腕を取る。
少し、強い力。
引っ張られるように、絹は歩き出した。
「大丈夫よ…私、意外に頑丈だから」
言って、あっと思った。
さっきの、渡部の言葉だ。
ぐっと。
腕を掴む手に、力がこめられた。
将は、歩き続ける。
その、影を帯びた横顔。
「母さんも、そう言って死んだよ」
抑揚のない、直線の声。
母のことを、そんな風に突き放して言うなんて。
「…ごめんなさい」
反論できなくなった。
絹を失いたくない――そんな、将の声が聞こえてしまったせいだ。
※
「森村に会ったんだな?」
帰りついた絹は、ボスの一言目に、にっこり微笑んだ。
「ただいま帰りました…素敵な弟さんでしたよ」
森村の話を正確にするのは、難しい気がした。
ある意味、ボスに似ている。
森村は、個人を抹殺しようと考えているが、ボスは世界を滅ぼそうと考えたのだ。
スケールが、違うだけな気がしてきた。
「ボスの言葉通り、渡部を黙らせる材料にならないか、動いてみたんですよ…広井兄弟じゃないので、ボスも見たくないかと思って」
正論を並べた。
学校のことは、絹が何とかしなければならない。
その一つなのだと。
しかし、森村が無理とすると、渡部の攻撃は飽きるまで放置するしかないのか。
それと、桜の死の真相。
あてになりそうなのが、その渡部しかいないのも考えものだ。
「弱味を握るのが、てっとり早いぞ」
怪しげな装置をガチャガチャひねりながら、島村が言う。
「あいつに弱味…」
現実性を感じなかった。
あるとしたら、森村か。
たかが玩具のことで、絹に釘を刺しにきたのは、どういうワケか。
彼と絹がつるむと、困ることでも。
「ボス、森村さんに一度会ったことがあるんですよね…何か、気になることとか、ありませんでした?」
絹が気づいたのは、渡部を憎んでいることくらい。
「早く帰りたかった記憶しかない」
ボスのツーンとした返事に、絹はお手上げのポーズをする。
「ああ、でも」
何かを思い出したような声。
「本家の連中が、変にざわついていたな…何故かまでは興味がなかったが」
漠然とした、雲を掴む話に――やっぱり絹は、お手上げだった。
※
「森村…学校のデータが不明扱いにされてるぞ」
何かの装置をいじり続ける島村が、ぼそりと言った。
絹の行動や情報から、彼も調べてみる気になったのだろうか。
「それは、ありえないな…あの渡部の息子でさえ、一般情報だからな」
ボスの否定に、島村がぴらりと印刷した紙を出す。
それを受け取ったボスの目が、だんだん中央に寄ってきて。
「な、生意気な! 私の弟の分際で!」
ビリリッ。
絹が見る前に、紙は破られてしまった。
まあ、見たところで、情報が伏せられていると書いてあるくらいだろうが。
「ありえない……どこから圧力がかかったんだ」
更に紙を細かくちぎりながら、ボスは不満たらたらだった。
兄である自分が一般扱いだったのに――どうも、不満の根っこはそのあたりのようだ。
「渡部は、表側に出る立場だから、情報開示しても問題がないはずなんだがな…」
ボスは、さかんに眉間にシワを集めている。
「母親の血筋に、何かあるんではないですか?」
島村の冷静な言葉に、一瞬ボスは立ち止まった。
彼の母が、誰か知っているのだろうか。
「もりむら…もり…もり…青柳の分家筋だったか…あの辺の血筋は、ごちゃごちゃしてて、覚える気がない」
ボスが投げ出そうとした言葉は、絹のアンテナに引っかかった。
「青柳!?」
望月と青柳――渡部が並べた、二つの名字。
絹は、即座に食いついた。
そうだ。
ボスも、調べる気はなくても、一応そっち方向の血筋なのだ。
「青柳って、織田一派において、どんな役割の一族なんですか?」
絹の質問に、ボスが一度唇を閉じた。
「ばかばかしく、つまらない一族だ」
彼は、まったく価値を感じていないようだ。
そんな言葉で、一蹴しようとする。
「お前に話すと、すぐ別の意味で首をつっこみそうだから…教えない」
ツーン。
出た。
ボスの、必殺技。
これをやられると、絹はもう先に進めなくなる。
んー。
せっかく見つけた手がかりも、ボスの野望の前ではゴミ屑扱いになってしまった。
※
桜だけでも手一杯なのに、森村の謎まで上乗せされる。
共通のするのは、「青柳」という名字くらい。
桜について言えば、関係している――かもしれない、ということだが。
知っているだろう人間は、ボス、渡部、森村。
どれも、一筋縄ではいかない人間だ。
ボスの機嫌のいい時に、聞くかぁ。
絹は、とりあえず味方を選択した。
そのボスを機嫌よくするためには、もう少し広井兄弟でサービスをしないといけない。
「こんにちは、高坂さん」
にこっ。
しかし。
宮野は、相変わらず絡んでくる。
天文部の部室で、後からやってきた彼女が、まっすぐに絹の方へと駆けてくるのだ。
絹の隣には、将。
勿論、彼へも挨拶。
宮野にしてみれば、好きな二人が一緒にいるということは、一石二鳥でおいしいことだろう。
しかし、男女の関係やボスの気持ちは、そんな単純なものでは片付かないのだ。
「そういえば、高坂さん。渡部様とお話してらっしゃいませんでした?」
悪気のない世間話だ。
しかし、聞きたくない名前。
「数回…必要だったからよ」
その内二回は、将も一緒だった。
「そう…なんですか。気を付けて下さいね…渡部様、人気がありますから」
気を付けたいのは、渡部自身に、だ。
宮野が言ってるのは、きっと取り巻きだろうが。
「宮野さんも、彼のことは様づけなのね。ファンなの?」
せっかくアドバイスしてくれたので、絹は恩を仇で返すことにした。
将も、彼のことはよく思っていないはずだ。
その相手を様で呼んでいるのだと、彼にアピールする。
「あ、いえ、友達のがうつっちゃって…高坂さん綺麗だし…渡部様とお似合いかなって」
あせったどさくさにまぎれて、何を言っているのか、この天然娘は。
あの男だけは、勘弁して。
絹がこめかみを押さえる横で、将が不機嫌になってゆく。
どうやら宮野の言葉は、ご不興を買ったようだ。