ママ
二日目の朝。
ゆっくりゆっくり、歩いて登校したため、予鈴の少し前の到着になる。
途中何度か、クラスメートの車が止まり、乗るように誘われたが、「風景を見たいので」と、優雅にお断りした。
「おはようございます」
絹は、にこやかな笑顔を浮かべ、隣の将に挨拶をした。
写真でも見たし、昨日も見た。
しかし、昨日はそこまでじろじろ眺め回すわけにも行かず、通り一遍、全体の把握をしただけだった。
今日は挨拶とともに、じっと彼を見てみる。
予鈴までの、ささやかな観察だ。
男にはもったいない、柔らかそうな黒髪は短く。
お坊ちゃまにしては、色白でもない。
大き目の目と、きりっとした眉。
狩猟犬を思わせる、しなやかな身体は、バランスがいい。
白皙の美少年ではないが、健康的な色男だ。
こういうのが、好みなんだ。
ゲイの好みなど、絹が知るはずがない。
しかし、将が一番父親に似ているというのならば、これがボスのストライクゾーンということになる。
「ん、何か?」
あまりじっと見すぎたのだろう。
将は、怪訝を返してきた。
それに、にこっと微笑んで返す。
あ、赤くなった。
おまけに、純情路線か。
絹は、てのひらの上で、彼を転がしている気分になった。
簡単すぎて、物足りないほどだ。
「今日の放課後、お時間あります?」
そう。
最初からこれを言い出すきっかけを探していたのだ――というフリで、彼女は穏やかに語りかけた。
「えっ!?」
驚いたような将の声に、予鈴の音がかぶる。
すぐに、担任が入ってくるだろう。
「また、後で…」
思わせぶりに微笑んで、絹は彼から視線を外した。
しかし、続きが気になるのだろう。
ホームルームが終わるまで、将はちらちらと彼女を見続けていたのだった。
※
放課後――別にデートに誘ったつもりはない。
天文部とやらに、案内してもらおうと思ったのだ。
帰り支度を整えた絹は、将が動き出すのを待った。
教室の幾人かが、二人で連れ立って歩き出すのを見ている。
それは、ただの遅れて入学した新入生と、将のツーショット、という意味合いではない。
噂の美少女新入生と連れ立って歩いている、将という構図だった。
彼女の存在こそが、視線のメインディッシュだ。
ああ。
つまんない。
絹は、この飾り物の顔が、その真価をいかんなく発揮している事実に、あくびが出そうだった。
何で、顔だけで世間の反応は違うのだろう。
絹の中身は、こんなにもドス黒いというのに。
見た目が綺麗なら、中身はオガクズだって構わないのだろうか。
その上、上品に振舞わなければらないのが、肩がこってしょうがない。
いっそ、自分の中身がオガクズならば、肩もこらないのに――そんなバカなことを考えているうちに、天文部と書いてある部屋にたどりついた。
金持ち高校らしく、部室はすべて部室棟と呼ばれる建物に、教室のようにずらっと並んでいる。
隣は、音楽関係の部活なのか、ピアノの音が流れていた。
「ちわー」
おぼっちゃまにしては、フランクな挨拶で、将は部室のドアを開ける。
既に、何人か人が来ていた。
しかも。
あん?
絹は、違和感を感じた。
制服の違う、華奢な子たちもそこにいたのだ。
あの制服は。
確か。
中等部――そう、絹が理解しようとした時だった。
「ママ!」
中等部の制服の一人が、がたっと立ち上がるや、大声で叫んだのだ。
その視線が、まっすぐに自分に向いているのを知って、絹は動きを止めた。
はて。
こんなでかい子供を、生んだ覚えはなかった。
※
中等部の制服を着た男の子だ。
その子が、絹をママと叫んで――しかも、飛び付いてくるではないか。
両手を軽くホールドアップさせながら、彼女は抱きつかれたまま、状況を把握しようとした。
中等部とは言え、背は平均的な絹と同じくらい。
そんな年令や図体で、「ママ」なんて、よく叫べるものだ。
「り、了!」
しかし、焦って動き出したのは、絹ではなく将だった。
彼女から、その男の子を引き剥がそうとする。
ああ。
そこで、気付いた。
こいつが将の弟だ、と。
「こら、離れろ!」
絹の腰に回した手と、乱暴に弟の肩にかけた手で、ようやく二人は引き離された。
これでやっと、弟くんの顔が拝める。
絹は、小首を傾げながら、了を見た。
真っ赤になった必死な顔。
写真では、もう少しあどけなさがあったが、いま興奮しているせいか、その面影がなりをひそめている。
将よりも線が細く、華奢な感じがした。
髪も、茶けて天パがかっている。
可愛い担当、甘えっ子か。
「よく見ろ…似てるけど、違うだろ。絹さんは、母さんじゃない!」
再び飛び付きそうな弟に、将が強い言葉を投げる。
まだ、彼の手は絹の腰に回っていて、半ば抱き寄せられている感じだ。
弟の相手に忙しく、気付いていないようだが。
しかし、気になる言葉だ。
絹が、誰に似ている、と?
「ごめんね、絹さん…了、母親を写真でしか知らないから」
いつの間にか、絹さん、だし。
そんな将の呼び方よりも。
はっはーん。
やっと、絹はボスがしかけた事が、何だったかに気付いた。
道理で昨日、将がこの餌に食い付いたわけである。
絹の顔のモデルは――彼らの母親だったのだ。
「ごめんなさい…」
中等部二年――広井 了。
ようやく落ち着いたのか、別の意味で赤くなりながら、彼は小さくなっていた。
部室の端。
入部のあいさつどころではないまま、絹は広井ブラザーズに挟まれていたのだ。
今頃、自宅ではボスが、モニターを見ながら鼻血でも出しているかもしれない。
いきなり、了に抱きつかれた上に、いま両手に華なのだから。
絹の顔を母親に似せて作って正解だと、ほくそ笑んでいる方かもしれなかったが。
ただ、変なサプライズを作るのは、やめて欲しい。
平和で馬鹿な仕事だから、黙って抱きつかせたが、絹は体術の訓練も受けているのだ。
反射的に投げ飛ばしていたら、どうするつもりなのか。
まだ、お嬢様稼業は、つけ焼き刄だ。
ボロを出しては、ボスの計画もおじゃんなのに。
「許してやってよ、絹さん」
将にまで頭を下げられて、絹は随分自分が黙り込んでいることに気付いた。
「驚いただけです…大丈夫、怒ってなんかいませんよ」
にこっ。
絹は、優しく了の手を取った。
ママが忘れられない可愛い子には、暖かいスキンシップを。
「き、絹さん…」
涙目で、感激したみたいな弟くん。
ああ。
心に、かすかによぎる感覚。
ああ――いじめたい。
この顔が、彼らに関わるためだけに作られたものだと知ったら、どれほど傷つくだろう。
絹は、傷つきはしない。
顔は利用できそうだが、愛着などこれっぽっちもないのだから。
暗い欲望が、胸の中で生まれる。
ただの仕事だと思っていたこれに、予想外のやり甲斐が見いだせそうだった。
絹は、ただ彼らに優しくすればいい。
もし万が一、ボスの計画が破綻して、バレるようなことがあったら。
優しくした分だけ、彼らの心は奈落へと落ちるだろう。
にっこり。
ますます微笑みを浮かべた。
「いつまで握ってんだ」
いつの間にが、了の手が積極的に握り締めているのに気付き――将の鋭い一発が、弟の頭に入った。
手が離される。
さっきのぬくもりを、忘れないでね。
絹は、少しうっとりしながら、そう思った。