兄弟
絹が、本当に自由に動けるのは、体育の時だけ。
だから、何か個人的に動きたい時は、その日が来るまでじっと待たなければならない。
本当は、この行動は余計なもの。
分かってはいたが、絹の中で目覚めているものがあった。
渡部に対する敵対心と、桜の死に対する好奇心。
正確には、前者が後者の気持ちを引き上げた、と言っていい。
渡部が絡まなければ、絹はきっと深入りする気はなかっただろう。
しかし、既に彼女の本当の正体を知る人間がいる。
その事実が、逆に覚悟をさせてしまったのだ。
どんな悪人集団であろうとも、もはや怖いものはない、と。
「ひとつ、貸しにしとくわね」
体操服の委員長が、階段で待っている彼女の方へ戻ってくると、ひとつウィンク。
「ありがとう、委員長…後で埋め合わせするわ」
その後に、物陰へ現れた存在を見つめながら、委員長をねぎらう。
彼女は、そのまま雨の渡り廊下を横切って、体育館へと向かっていった。
「はじめまして、森村さん」
制服のまま、そう絹は挨拶をした。
「何か用ですか?」
中指で、眼鏡の位置を直す仕草。
レンズの奥の目は、絹をじっと観察しているようだ。
しかし、あの渡部に見せた氷の視線ではない。
「ええ…いろいろお話を聞きたくて…長くなりそうです」
絹は、甘い微笑みは浮かべない。
それでは、渡部と同じになってしまいそうな気がした。
「僕は、あなたを知りません…お付き合いする必要はないようですが」
絹の顔ごときでは、釣られる気配はない。
あの渡部を毎日見ているせいで、美形に対して免疫ができてしまっているのか。
「私、高坂絹と申します…高坂に聞き覚えはありませんか?」
知らない可能性も高い。
妾の子同士の交流が、あるとは思えなかったから。
だが、持っているカードから、切っていくしかできないのだ。
カードを、全部使っても釣りあがらなければ、絹の負け。
無言で、森村はじっと絹を見る。
そして言った。
「君が、新しい渡部の玩具か…」
※
「彼は、私を玩具だと思っているんですね」
雨にけぶる図書室の窓。
ここに絹を連れてきたのは、森村だ。
授業をサボることになった、二人の密会場所。
「会ったことは一度しかないけど…兄さんは元気かな?」
眼鏡を一度取り、ハンカチで綺麗に拭う。
声には、勿論愛情などはない。
儀礼的なものだ。
「ええ…少し風変わりですけど」
ただ元気と言うには、はばかられる空気。
森村がまとう、負のオーラを感じるせいか。
「そう…で、僕に何の用?」
拭き上げた眼鏡をかけながら、森村が聞いてくる。
「渡部さんのことを、教えてもらおうと思いまして」
あなたは、渡部の敵ですか?――単刀直入には、聞けない。
外側から埋めて、森村という男を探らなければ。
「調べなくても大丈夫…渡部は君にすぐ飽きる…玩具にされるのは、いまだけだよ」
これまで、ずっと彼がそうだったのだと、森村は示唆する。
逆に言えば、それほど長い付き合いなのだ。
「何故、渡部と付き合ってるんですか? あなたは、とても彼を好きには見えないのに」
絹は、一歩踏み込んだ。
森村の外皮は固い。
外堀を埋めようとして追い返されるなら、中に飛び込むしか策がなかった。
「同じ学年にいたのが、運のツキ…」
ぼそり。
森村の表情が、完全な無表情に沈んだ――次の瞬間。
「僕が、渡部にくっついているんだよ…」
唇の端だけが、ゆっくりと上がる。
部屋の湿度を、全て凍り付かせるほどの冷気の粒。
絹は気圧され、ぶるっと震えた。
「あれは…僕の獲物だ。放っておいてくれ」
そこには。
狂気と憎しみしかなかった。
※
「絹さん?」
将に呼びかけられ、はっとする。
我知らず、ぼーっとしていたようだ。
「なあに?」
それをなかったことにするために、笑顔で聞き返す。
ぼんやりなど、していなかったのだと。
あの森村という男の憎しみが、記憶になって絹の足に絡み付いていた。
あれは、きっと――殺意というのだ。
彼は、いつか渡部を、抹消しようと思っている。
その機会を、傍でずっとずっと狙う気なのだ。
一体、どんな出来事が、森村に憎しみを与えたのか。
恐ろしくて、想像したくもなかった。
首筋を軽く震わせて、べっとりと張りつく記憶を跳ね飛ばす。
そんな悪寒を払拭する、将の存在。
彼の瞳の強さは、太陽の下にいるのと同じパワーを感じるのだ。
「あ、いや…そういや絹さんの誕生日、7月なんだってね」
了に聞いたのだろう。
しかし、普通は自分が誕生日を聞かれた時に、聞き返しそうなものだ。
その辺が、将らしいと言うべきなのだろうが。
「アニキも7月だから、一緒に何かやろっか…アニキを一人で祝おうとすると、なぜか嫌がるから」
最後の方、将がにやっとしたので、絹もつられてしまった。
なるほど、と。
高校にもなって家族に誕生日を祝われるのは、かっこ悪いとでも思っているのだろう。
「素敵ね…」
3人の中の、誰にも抜け駆けをさせないという意味では、兄弟と一緒に祝うのがいいのかもしれない。
ボスも喜ぶだろう。
しかし。
将という男が、だんだん心配になってきた。
誰にでもいい人はやめろと、行動で警告を出したにも関わらず、またこんな計画を立てているのだ。
たまには、抜け駆けのひとつもしてみろと言いたくなる。
隣のクラスの宮野も、相変わらず彼に絡んでくるし。
もしかしたら、将はお友達レベルでしか、絹を認識しなくなったのだろうか。
「了くんが、二人で北海道旅行に行く計画を立てようとしてたのには…ふふ、笑ってしまったわ」
だから。
爆弾を放り込んでみる。
「え? 旅行!? 二人きり!? 絹さん、そ、それで…何て答えたの?」
あわあわあわあわ。
将は赤くなって、焦りまくった。
「おことわりしたわよ…二人きりはだめって」
返事に、彼は腹の底からほーっと安堵の吐息をつく。
「あのマセチビめ…」
うなる将を見ながら、絹は少し安心していた。
まだ、大丈夫そうだ、と。
しかし、彼の本心を知るためには、いつもこうして試さなければならないのか。
それが、少し困りものだった。