復活
熱が出た。
自分の心が、こんなにまで脆弱だとは思わなかった。
絹は、熱い喉から苦しく息を吐きながら、自室の天井を見ていたのだ。
熱でぼんやりしているおかげで、頭がうまく働かないのだけは助かる。
そうでなければ、彼女の熱はなお上がりそうだった。
「おい、メシ」
ノックもなしに、島村がドアを開ける。
「どうせ知恵熱だろうから、普通食だ。置いとくから、食べろよ」
枕元にお盆ごと置かれる。
ちらと視線が投げられたが、彼はさっさと出て行った。
知恵熱。
島村は科学者だから、冷たくも正しい言葉を吐く。
精神的なものから来たのだと、知っているのだ。
こういう時に、仕込んだカメラとマイクは助かる。
絹のこの状態を、客観的に味方の人間が見ていてくれることだ。
そう――味方。
彼女は、ボスにとっては「歩」の駒ではあるが、唯一の「歩」なのだ。
その「歩」が、「角」とぶつかった。
斜めから切り込んでくる、曲者。
織田寄りの人間で、ボスの甥で、絹の過去を知っている。
「絹…」
心ばかりのノックの直後、「王」が部屋に入ってきた。
大きく反応は返せないが、絹は顎を動かして彼を見た。
熱のせいで、音と視界がぼやける。
そんな中、ボスは彼女を見下ろした。
「これが、渡部の息子の資料だ。今後、邪魔させないように、黙らせる材料に使え」
印刷した紙束が、布団の上に落ちる。
ちょうど絹の胸の辺り。
ああ。
やはり、ボスは建設的だ。
あの男が、今後広井家ウォッチングの邪魔になると判断したのである。
学校内のことは、絹がなんとかしなければならない。
余計な首を突っ込まれて、彼女が学校にいられなくなったら困るのだ。
「はい…」
絹は、肘で身体を支えながら、ベッドから身を起こした。
震える手で、しかし、資料をしっかりと掴んだ。
加減のできない指のおかげで、紙にしわが刻まれたが、そんなことは気にしない。
絹は、枕もとの食事も忘れて、働かない頭で資料を睨み始めたのだった。
※
「絹さん…大丈夫?」
翌朝、迎えにきた了の一言目がそれだった。
「ええ、もう大丈夫よ…ごめんね、驚かせて」
まだ少し、足元がフワフワしているが、熱はほとんど下がっている。
昨日の今日で休んだとなると、あの渡部という男が喜びそうで、気合いで起き出してきたのだ。
あの言葉は、さしてショックではなかった。
そう、彼に思わせなければならない。
弱みを見せたら、何度でも抉ってくるだろう――あの「角」は。
「歩」の対処法としては。
折れないこと。
ただそれだけ。
最初から、向こうが有利なのは分かりきっている。
だから、何を言われても何をされても、絶対に倒れないこと。
それだけしか、「歩」が生き残る道はない。
新たな「歩」を打ち込むように、絹は心を何度も新しくして、「角」に立ち向かうしかないのだ。
車に乗り込むと、将も心配そうに見る。
昨日の午後は、ずっと授業中に、真っ青な顔を見られていただろう。
「大丈夫よ、将くん…もう平気」
にっこり。
絹は、いつものように微笑んだ。
渡部の資料を読み、自分が「歩」としてどう動けばいいのか、昨日覚悟ができたからだろう。
彼らに対して、いつもどおり動ける。
そんな絹を、高等部の玄関口で、試練が待っていた。
「おっ…ホントに登校してきた」
よっぽど暇なのか。
笑顔の貴公子――渡部様だ。
「おはようございます」
絹は、にっこりと微笑む。
そして、その程度の知り合いという風に、すれ違おうとした。
「もう平気なのかな…絹ちゃん」
奥歯に、しっかりと物を挟んでおっしゃってくれる。
一緒にいた将が、不穏な気配を感じたようで、足を止める。
既に面識があって、不快な思いもしているのだ。
下手に反応されると、厄介である。
絹は、しっかりと足を止めて振り返った。
「ええもう…すっかり元気です。ご心配をおかけしました?」
極上の微笑みで、しかし最後はやわらかく上がる疑問形で、渡部を突き放す。
心配なんかしてないでしょ、と。
そして、再びスタスタと歩き出す。
後方で、こらえきれないような渡部の笑い声が上がったが、絹はもう振り返らなかった。
※
渡部 圭一。
大手ゼネコン「渡部組」の長男。
それが表の顔。
「織田」の中では、父親はその右腕の役職についている。
絹のボスは、その右腕の異母兄弟というワケだ。
よほど資質がないと判断されない限りは、世襲制らしいので、あの男が、将来右腕に就任するのだろう。
金持ち学校にしては珍しく、テニスの腕がよく、インターハイにも出場したほどの腕前だ。
そのほか、ボスの資料には、父親のこと、祖父のことまで詳しく書かれていた。
注目すべきは、祖父。
ボスの父親だ。
これがまあ、無類の女好きときている。
いまも生きているらしいが、孫と同じ年の子がいるというから大笑いだ。
勿論、正妻の子ではない。
その子も、この学校に通っている。
3年の、森村という男子生徒だ。
絹は、その存在に興味を持った。
叔父と甥が、同じ学年にいる。
しかも。
その森村が、どれだけマゾなのか知らないが、あの渡部と同じテニス部なのだ。
うまくすれば、対渡部用ストッパーに使えるかも。
まずは、どんな人間か調べなければならないが。
幸い、絹には委員長という、かすかなツテがある。
余り表だって話を聞くと、ボスに怒られるので、体育の時を見計らった。
カメラを切って、と。
「委員長…森村さんって男子テニス部員、知ってる?」
絹は着替えながら、彼女にさりげない感じで聞いてみた。
「ん? 森村副部長のこと?」
んー。
返事に、微妙に引っかかる。
アレが部長で、コッチが副部長、と。
「ど、どんな人?」
何だろう、胸騒ぎがする。
「そうねえ、静かでしっかりした人かな…部長と正反対」
ふふふ。
思い出し笑いをしながら、委員長は教えてくれる。
絹はいやな予感が外れそうで、ほっとした。
「部長と仲がいいわね…いつもダブルスは二人で組んでるわ」
前言撤回。
そのダメオシに、森村計画が、暗礁に乗り上げたことを知ったのだった。
※
「渡部ってのは、何者なんだ?」
まさか、京にそんなことを聞かれるとは思っていなかった。
部室での、プラネタリウム鑑賞の時だ。
将には相変わらずくっついてるのがいて、京に隣に呼ばれたのである。
反対隣には、やっぱり了がいたが。
「男子テニス部の、部長さんだそうですよ」
将が、しゃべったのだろうか。
兄に泣き付くタイプには見えないので、意外だった。
「ふ、ん…で、どんな知り合いだ?」
んー。
将から聞いた割には、変な質問だ。
「どうして、そんなことを?」
絹は、墓穴を掘らないよう、気を付けて言葉を探した。
渡部絡みには、地雷があるのだから。
「昨日、お前が泣かされた相手って、そいつだろ?」
誰から聞いたのか。
確かに、あの事件があったのは昼休みだったし、人が誰もいなかったわけではない。
誰か目撃した人に聞いた、というところか。
「あの人…先生の親戚なんです」
下手な言い訳をすると、彼が渡部に食ってかかりかねない。
それだけは、避けなければ。
「先生の悪口を言われたんです」
そう。
攻撃されたのは、絹ではないと。
そうしておけば、京に変な怒りを植え付けずに済む。
「先生絡むと、強気なお前さんがね…」
笑いは、苦笑だったのか。
顔が見えないので、よく分からない。
「いつも強気なわけじゃないですよ」
弱みを握られたショックで、自分が崩れてしまったのが、今にして思えば悔しい。
悪い人間など、山ほど見てきたというのに。
「あんまりウゼぇようなら…呼べよ」
男気溢れる言葉に、絹は微笑んでいた。
嬉しかったからではない。
「ありがとう…京さん」
渡部絡みで京に助けを呼ぶなんて――絶対にありえなかったからだ。