735
「イヤダ」
帰った絹は、ボスにいきなり、そう宣言された。
何と言われるのか、最初から分かっていたかのように。
そうだろうなあ。
絹は、その言葉を聴いて、反論することなく「ただいま帰りました」とだけ言った。
いくら将や京が知りたがっているとは言え、ボスの大嫌いな桜について調べるとは、やっぱり思えなかったのだ。
彼女に織田が絡んでいるという事実が、なおさら彼をそうさせるのかもしれない。
まだ、絹には「織田」は漠然とした存在だが、彼女のいたところを運営している連中だ。
悪者と安直に称されるように、関わるとロクな目にあいそうになかった。
ボスも、そういう経験があるのかもしれない。
織田絡みのところに、絹を買い付けにくるような、裏社会の人間なのだから。
ただ、将はそういうワケにはいかない。
今日のあの様子からすると、再び渡部に話を聞きに行く可能性が高かった。
その時、下手に彼が深く首を突っ込むと――危険ではないのだろうか。
「ボス…これだけ教えてください」
絹は、ツーンとした横顔に声をかける。
「将くんが、渡部って男に食い下がっても平気ですか?」
あの男が、無害なのかどうか。
彼女は、それだけは確認しておこうと思ったのだ。
ボスの大好きな、次男坊のために。
ピクリ。
ボスの頬が、一瞬ケイレンした。
「もし、ダメなら早めに教えておいてくださいね…でないと、止められませんから」
桜の死への好奇心と、ボスの欲望とを秤にかけるなら、勿論、絹は後者を優先する。
だからこそ、知っておかねばならないこともあるのだ。
「……だ」
珍しく、ボスの唇が歯切れが悪い。
「はい?」
絹は、聞き返した。
「だめだ! ずぇーったいダメ! 渡部の性悪にもう近づけるな!]
キッと絹へと向き直り、ボスは大上段から命令する。
それに、彼女はにっこりと笑った。
やっぱり、と。
やっぱり、あの男は危険な織田絡みなのか。
「了解、ボス」
絹は、よい手駒だ。
ボスの言うことは、ちゃんと聞くのである。
※
ただし――向こうが、勝手に絹に近づいてくるのは、止めようがなかった。
昼休み。
久しぶりに晴れて、お弁当を持った彼女が、了との待ち合わせの広場に向かう途中のことだった。
「はぁい、絹ちゃん」
出た。
なぜ、茂みをかきわけて、ガサガサ現れるのだろうか。
「君を見かけて、廊下から出ちゃったよ」
後方の校舎を肩越しに指しながら、渡部様は情熱さをアピールする。
絹には、そんなウソくさい情熱は、体温ほども感じなかったが。
「こんにちは…では、私はこれで」
通り一遍のあいさつだけして、絹は立ち去ろうとした。
「あれあれー…広井と一緒にご飯かなー」
カンに触るとぼけ声。
そして、ついてこようとする。
「将くんなら教室です」
絹は、彼と距離を取る発言をした。
そうしないと、この男がまた将に絡む気がしたのだ。
「やだなぁ、絹ちゃん…広井なら3人もいるじゃないか」
こいつ。
絹は、立ち止まった。
暗黙に、京や了も射程に入れている言葉だったのだ。
「何か、私に御用ですか?」
このまま、了のいるところへ連れて行くのは危険だった。
あの了だ。
母の死を一番知らない了。
ひっくり返せば、一番あの時代に傷つかなかった人間である。
そんな人間の前に、渡部を連れて行って、将の時のようなことを言われたら、面倒なことになると踏んだのだ。
「用かあ…そうだねえ…僕と一緒に、昼ご飯食べない?」
にっこり。
女の心をとろけさせる、極上の笑顔のお誘い。
幸い、絹は心のドアに、全部戸板を打ちつけているので平気だった。
「すみません、先輩は、とても私の手に負える方じゃないと思いますので…」
彼女は、そのバリケードを彼に見せた。
「……高坂巧に、話を聞いた?」
笑顔の中に、不適さの見える目で、ボスの名前を出す。
絹は揺らがないよう、よりバリケードを強くして、こう答えた。
「はい、そうです」
やはり――調べられていた。
※
見詰め合う――というより、荒野で対峙するガンマンのような状態だった。
梅雨時の、やや湿度をはらんだ風なので、荒野のように砂埃は舞わなかったが。
「そう…あの人も、はぐれものだからね。あんまり本家とは関わりたくないだろうけど…僕のことくらい、よく言ってくれてもいいのに」
はぁ、やれやれ。
渡部は、苦笑交じりにボスについて話をする。
絹は、迂闊に反応しないようにしたまま、言葉をかみ締めた。
彼女の知らない話をしているのだ。
「可愛い、甥っこなのにねぇ…」
光る――目。
表情を変えない絹に、それが注がれる。
はぁ、さいで。
感想はそんなものだ。
なるほど、ボスの親戚か。
道理で彼について、はっきりと知っている口ぶりだったわけである。
もっと深く突っ込むと、ボスは妾の子らしいので、この渡部の親の異母兄弟、ということになるのか。
更に突っ込むと。
渡部が織田絡みとするのなら、ボスもまんざら絡んでいないわけではない、ということになる。
その辺がつながって、逆にすっきりしたくらいだった。
ボスとこの男の血が、一部混じっているからといって、ボスの価値に揺らぎが生じることはない。
「それだけでしょうか?」
絹は、静かに言った。
もう話を終わりにしたかったのだ。
「んー、そんなそっけない態度とっていいのかなあ…」
ムカつく、すっとぼけ笑いが浮かぶ。
まだ、切り札があるのだとでも言いたいのか。
「高坂巧のことなら、何でもすぐ分かるんだよ……同じ世界で生きてるんだから」
絹の後ろに、ゆっくりと回りこむ渡部。
わざとらしく優しい手が、彼女の両肩に乗せられる。
全身に鳥肌が立った。
刹那。
「ねぇ…735号」
甘い甘い囁き。
頭が、真っ白になる。
視界が暗く翳る。
絹の――時が止まった。
※
どのくらい、そこに立ち尽くしていただろう。
もうとっくに渡部は立ち去ったというのに、絹は一歩も動けなくなってしまった。
735号。
5の倍数はきりがいい。
なぜか、人はそう思う。
そして、他の数字より何となく覚えられるのだ。
だが、それは忌まわしい番号だった。
風が、絹の髪を揺らす。
なのに、彼女の中の時が、動き出そうとしない。
「あ、絹さん、こんなことにいたんだ」
余りにこない彼女を心配してか、了が向こうから駆けてくる。
見ているのだ。
ちゃんと、絹は了を見ている。
なのに、彼が白くぼんやり霞んでしまう。
「き、絹さん! ど、どうしたの!」
オロオロとした彼が、絹を正気づかせるように腕を取る。
なぜ、そんなに了は、心配そうな顔をしているのだろう。
「……っ」
声が、出なかった。
代わりに――涙が出ていた。
お弁当を落とし、絹は両手で顔をおおう。
ああ、と。
もう二度と、聞くことのないはずの番号だった。
彼女は、高坂絹として、新しい人生を歩き始めたはずなのだ。
あの顔と一緒に、捨てたはずの番号。
「絹さん、大丈夫? どうしたの?」
あの施設で、彼女が呼ばれていた番号。
それを知る人間が、ボス以外にいたのだ。
しかも、この学校に。
ああ、ボス。
ボス。
絹は、家にいる彼を呼んだ。
ボス――ダメかもしれません。