桜は散ったのか
「さて、一段落したし…お茶にしようか」
絹が再びチョウの部屋に戻ると、彼に笑顔で先手をうたれた。
さっきの件が、どう決着したのか気になるのだ。
「大丈夫だよ、お嬢さん…巧のことはあきらめたから…ははは、季節はずれのサンタのおかげにしとくさ」
チョウの軽やかな笑い声に、ボスは微妙な表情をしていた。
きっと、未練があるに違いない。
絹が、ほっとして微笑むと、ボスに睨まれた。
さっと顔をそらして、視界に入れないようにする。
「チビたちも待ってるだろうから、居間に行こうじゃないか」
促され、ボスはソファから立ち上がった。
「あ、私片付けていきます」
あらかた片付けられている製品だが、ここに置いたままだと心配だ。
「ああ、すまないね…京、手伝ってあげなさい」
遅れて戻ってきた京と、二人で片付けることとなった。
ついさっき、ダークな部分を見せた相手と、一つの作業というのは、少しやりづらい。
そんな、絹の視界に。
ふーん。
壁ぎわの棚に飾られた、フォトフレーム。
将によく似た男と、絹によく似た女。
女の腕には赤ん坊。
男は、両腕に一人ずつ子供を抱えている。
広井家の、一番幸せな一日、というところか。
「あんまり、見んな」
手が止まっていたのに、気付かれたようだ。
京は、彼女の見ているものを、歓迎していなかった。
「仲のいい、家族の写真じゃない」
再び作業に戻りながら、絹は感想を口にする。
母は死んだかもしれないが、どうも京はその過去を悪く扱いたいようだ。
「オレは、一番覚えているから…いろいろ思うところがあるんだ」
確かに。
長男の彼は、一番母親を覚えているだろう。
甘えたい盛りに、いなくなったのだ。
悲しさも、人一倍覚えたに違いない。
「笑ってもいいぞ…」
不意に、京は声をひそめた。
この部屋には二人で、誰も聞いていないというのに。
「オレはまだ…おふくろが、死んでないと思ってる」
声をひそめないと――何か、怖いものが襲ってくるかのようだった。
※
望月桜――いや、広井桜は死んでいない?
絹は、笑いはしなかったが、怪訝な目は隠しきれなかった。
子供心に、京がそう思う何かがあったのか。
「でも、確か事故にあって…」
資料では、そうなっていた。
「あ…知ってんのか…そうか、先生は親父の同級だったな…ああ、おふくろは、車を運転中、ハンドルを切りそこなって電柱に激突した」
事故の詳しい内容までは知らなかったのだが、随分エキサイトな死に方だ。
「でも、それもありえないはずなんだ…絶対に車を飛ばしたりしないはずなのに」
100キロ近く、出ていたそうだ。
普通道路で100キロなんて、スピード狂としか思えない。
なぜ、桜はそんな無茶な運転をしたのか。
とても急ぐことがあったか――何かに追われていたか。
「その上、遺体を見てない…」
「それは、京さんが小さかったから見せなかったんじゃ」
彼の言葉に、すぐに絹は反論した。
あのチョウの性格を考えれば、そうして当然だ。
「親父も…見てないんだ」
しかし。
彼の補足に、絹は動けなくなった。
何、ですって?
ありえない話だ。
夫が、妻の遺体を確認していないなんて。
普通ならば、本人確認のために、必ず身内が見るはずなのに。
「親父が見たのは、死亡診断書だけ。遺体は、おふくろの実家に取られた」
発電機を手に持ったまま、京は忌々しそうに目を細める。
桜の実家――いわゆる、望月家。
島村の資料では、どういう家柄なのかは分からない。
不明扱いにされていたからだ。
少なくとも、広井家よりも遥かに大物。
京の様子からすると、桜の実家とは親交もなさそうだ。
「お母さんの実家って…?」
資料にはないが、家族なら知っているかもしれない。
絹は、ゆっくりと言葉にした。
「それは……」
京の言葉が、淀んだ瞬間。
「絹さーん、早くしないとお茶さめちゃうよー」
元気な、邪魔者が入ってしまった。
さすがに了の前では、この話はできない。
一瞬、京と暗黙のアイコンタクトを終え、唇を閉ざしたのだった。
※
とんでもない話を聞いてしまった。
お茶の間も、気もそぞろだ。
桜が生きているかも――しれない。
全て鵜呑みにするわけにはいかないが、京はそう信じたがっている。
そんな爆弾を抱えて、彼はいままで生きてきたのだ。
弟たちに、話すこともできずに。
だが、おそらく死んでいるだろう。
それが、絹の見解だった。
桜が生きていて、自分の意思で動けるというのなら、何がなんでも帰ろうとするはずだ。
既に、事故が起きて十数年。
それほど長い間、連絡が途絶えたままなのだ。
死んでいると考える方が、自然だった。
たとえ、ウソの死亡診断書を書かせられるほどの、大物がバックにいたとしても。
冷静な部分とは別に、絹は驚いてもいた。
京の執念だ。
最悪の結末を自分の目で確認していないということは、人をこんなにも長く縛り付けるものなのか、と。
ということは。
絹は、ゆっくりとお茶を飲むチョウを見た。
彼もまた、いまだにその事実に縛られているということか。
京と違って、彼は大人だったのだ。
もっと細やかに、記憶しているだろう。
「絹さん大丈夫…? なんか元気ないよ」
了に心配され、絹ははっと表情を正した。
「平気よ…なんともないわ」
この家は、一見平和そうに仲良く見えるが、亡霊にとり憑かれている。
「ちょっと失礼」
絹は、お手洗いを装って居間を出た。
亡霊を探すわけではない。
あの親子以外にも、亡霊にとり憑かれているかもしれない人間が――ここにはいるのだ。
「すみません」
絹は、さっき部屋を出たばかりの、年配の女性の使用人に呼びかけた。
そう。
彼女を追ってきたのだ。
「お手洗いはどちらでしょう」
絹は、笑顔で聞いた。
写真の桜と、同じ微笑を浮かべながら。
※
「そんなに似ているんですね」
使用人は、絹にお手洗いの説明をしながらも――目に涙を浮かべていた。
きっと脳裏には、桜がよぎっているのだ。
「あっ、申し訳ございません…あまり見ないよう言われておりましたのに」
エプロンの裾で目を拭い、彼女はぺこぺこと頭を下げる。
「いいんですよ…事故で亡くなられたとか、お気の毒です。できれば、お線香を上げたいのですが、案内していただけます?」
絹がそう言うと、使用人は感激したように、彼女を二階へと案内してくれた。
チョウの部屋の、反対隣の部屋だった。
ドアを開けると、一目で女性の部屋だと分かった。
きっと、桜が生前ここに住んでいたのだ。
そして――そのままにしていたのだろう。
そんな部屋に不似合いな、小さな仏壇。
この家の財力を持っているなら、金ぴかの大きいものでも余裕で買えるだろうに。
その小ささが、かえってチョウの悲しみの大きさを表している気がした。
位牌と一緒に、一人で映っている写真が飾ってある。
名前の通り、桜の舞い散る中で映っている写真だ。
ん。
線香を上げながら、絹はその写真を見ていた。
紅い――桜。
普通の桜は薄紅なのに、写真の中の桜はえらく赤い。
「お近くに、こんな桜があるんですか?」
絹は、手を合わせて聞いた。
後方の使用人が、ぐすっと鼻をすする。
「いえ、それは奥様のご実家の桜だと聞いております…写真もそちらで撮られたものだと」
それならもしかしたら、撮ったのはチョウではないのかもしれない。
結婚する時に、桜が一緒に持ってきた写真の可能性があった。
遺体を返さないような実家だ。
彼女が結婚後、頻繁に出入りできたとも思えない。
「いつか一緒に、その桜を旦那様と見に行きたいと…それが、奥様のささやかな望みでございました」
使用人は、すっかり泣き崩れながらも、絹の推理を裏付けてくれた。
紅い桜ね。
確かに綺麗だが。
見ようによっては――血の雨にも見えた。
※
絹が居間に戻ると、えっと言う顔をされた。
隣の席のボスに、だ。
「絹さん、おかえりー」
ソファの後ろから、了が首に腕を絡めてくる。
反射的に、投げ飛ばしたくなる瞬間だ。
「あれ…絹さん、何の匂い?」
くんくんと、了が鼻を鳴らす。
あっ。
ようやく、さっき見せたボスの反応を理解する。
線香だ。
その匂いに、気付かれたのだろう。
「了くん…お茶に届かないわ」
はがいじめられたまま、絹はくすくす笑って両手を宙に踊らせた。
カップはテーブルの上だ。
「あ、ごめんね」
了をひきはがすことに成功。
こんなところで、線香の匂いを当てられるなんて、とんでもない。
その単語で、家族全員に桜の存在が甦るのだ。
はやく、匂いが飛ぶことを願った。
「そういえば、お嬢さん」
チョウに呼び掛けられる。
「“オダ”って聞いたことはないかな?」
穏やかな世間話のようだったが、唇だけがとても慎重だった。
「さあ…心当たりはないですが…それはなんですか?」
軽く返す絹に、チョウは苦笑した。
「ああいや、勘違いだったようだ…そうだ、巧、さっきの製品の…」
最初から。
絹が反応しなければ、最初から別の話に切り替えることを、チョウは決めていたのだ。
この話が、すぐに埋もれてしまうように。
多分、桜に関することだろう。
こんな亡霊の住む家に、亡霊と同じ顔の女が来たのである。
呪縛されたままのチョウは、絹を桜の親戚か何かだと思ったのかもしれない。
この顔は、遺伝ではないので、彼の願いは虚しいのだが。
紅い桜と、オダ。
島村さんなら、何か見つけそうだな。
もしかしたら、既に動き始めているかもしれない男に、絹は望みを託すことにした。
※
「織田の血桜」
家に帰りついた絹を待っていたのは、島村の一言だった。
言い残すなり、ボスの荷物を預かって、さっさと奥へ行ってしまう。
「ちょ…」
やっぱり、島村は調べたのだ。
桜の実家について。
「織田の血桜とは、マニアックなものを引っ張ってきたな…ははは」
しかし、もっと驚いたのは、ボスがそれを軽やかに笑ったからだ。
「って…ん? 織田って…チョウが言ったのは、もしかしてそのことか!?」
自分の言葉で、自分で驚き始める。
遅いです、ボス。
絹は、うーんとうなった。
「しかし、なんでチョウはお前に、織田の名前なんか聞くんだ?」
心底不思議そうだ。
絹だって知りたい。
大体、織田ってどちらさま?
「織田は、血族の名前とも、集合体の名前とも言われているが…関西を本拠地とする悪者の集団だ」
戻ってきた島村は、稚拙な表現をした。
悪者、だなんて。
「お前がいたところも、織田絡みだぞ」
追加情報に、絹は時を止めた。
「織田は、非合法の塊だからな…この国を牛耳ってる最大の悪であることは確かだ…ははは」
ボスは、どこまでも軽やかだった。
「ああ、島村…織田は、血族でも集団の名前でもなく、個人名だ。当主のみ、そう呼ばれるんだ」
マッドサイエンティストたるもの、正しい知識を持たねば。
真面目に、ボスは訂正を入れてくる。
面食らっているのは、島村だ。
「えらく、詳しいですね…」
彼のつっこみに、ボスは黙り込み――天井を見た。
「さて…録画でも見るか」
いきなり、話が急旋回した。
ごまかそうとしてる!?
それはもう、あからさまだった。
チョウの、あの華麗な会話の切り替えを、少しは見習えと言うくらい。
呆気にとられる二人を置いて、ボスはさっさと自室へ行ってしまったのだった。